07/04/14 09:50:35 MZIV4WkV
明では日本の貿易船の取扱いに困った。
拒絶してしまえば、大っぴらに倭寇として来るし、
といって際限もなく貿易していたんではやり切れない。
日支貿易は、日本側にだけ有利で、支那側には利益どころか、損だったのだから。
一二の例を挙げよう。絹と黄金の例をとる。
絹は日本が彼から輸入し、黄金は日本が彼に輸出したのであるが、
絹糸の値段は、明は一斤につき五貫文というのが普通だったが、
日本の貿易船が買う場合には、五貫文の銭を以て二十斤から二十五斤を買った。
また黄金四十匁のものは、わが国では銭三十貫であったが、
支那に持って行くと百二三十貫に売れた。
糸に於て二十倍乃至二十五倍の利益を得、黄金に於て四倍強の利益があったわけである。
こんな不権衡な貿易をのべつにやられてはたまったものでない。
それで、明の方では、倭寇取締りを条件として、足利義満と約束して、
「十年一貢、船二隻に人二百にとどむ」ということに制限したが、
間もなく、船は三隻、人は三百に増やした。
最後には、貿易船たることを公認する勘合符におす勘合印章を日本に送って
自由に勘合符をこしらえて乞う者に与えることを許した。
この勘合印章をつかさどっていたのが大内氏で、その大内氏が、
倭寇の大元締であったなど、随分皮肉に出来ている。
大内氏は義弘、義興の時、海賊を糾合して、頻々として朝鮮地方を侵したので、
朝鮮王は屈伏して、全羅道から毎年、期を定めて、一定の貢物を
大内氏に捧げることとして、その侵略をまぬがれたという記録が遺っている。