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延辺情話 第2部 -6- 間島パルチザンの末裔たち
三ツ矢秘密協定 光明塞いだ張作霖の暴戻
「間島大事変が突発!」
1通の電報は朝鮮各紙の記者たちの激情をみなぎらせるに十分な響きがあった。
京城から一路、両千里動乱の地、龍井に向かう我らは、かの地同胞らの安否を気遣わねばならぬ焦燥と、
己がじし味わうやもしれぬ恐怖に駆られつつも、職業的興味と興奮に引かれ、40時間もの旅程についた……。
張作霖爆殺事件の現場(皇姑屯)
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1930年6月13日から26日にわたって朝鮮日報に連載された金起林の「間島紀行」である。
「100年前の昔、間島は、闊葉樹の生い茂る原始の地であった。野獣の群れと、胡族の群れる広野を
朝鮮移住民の手が切り開いたはずであった」
金起林は、庚申惨変後の間島で、焼かれた学校、砲弾で崩れた龍紋橋を目の当たりにして慨嘆するのだが、
記者の目はそこにとどまらず、事変後の在満朝鮮人を襲うさらなる惨状を見ずにはおれなかった。
「この地、沃野千里には、我が同胞農民らの血と汗が染みこんでいるのではなかったか。今、彼らの営みは、
中国地主の暴戻(悪質で獰猛)なる搾取と圧迫の下、一條の光明も見ることができず、生命の安全すら保障
できぬ惨憺たる地獄の中に置かれている」
関東軍嘱託であった天野元之は、「間島に於ける朝鮮人問題に就いて」と題し、間島事件に対する所感を、
朝鮮総督府に宛てて書き送った。
「皇軍討伐は、実に間島を中心とした独立運動者の猛烈な斬殺であった。併し撤兵後に於ける我が外務省警察の
実情は、…治警の実績を充分に挙げ得ない。鮮内官憲の圧迫に堪え兼ねた連中は、相変わらずこの地へと非難し、
ここを根拠として活動する」
独立運動が、庚申惨変で根絶やしにされなかったことに、天野は憤慨した。
満鉄庶務部調査課は、1924年(大正13年)、「支那官憲の在満鮮人圧迫問題」という冊子を出し、
朝鮮総督府に在満朝鮮人政策に張作霖の手を借りるよう提言する。
「馬鹿野郎」の意で、張作霖の口癖であったと言われる。彼は庚申惨変のさなか、この言葉をよく吐いた。
満州が日本軍に蹂躙されることに腹を据えかねていた。ジレンマである。朝鮮人の入植が呼び水となり、日本人が
やってくる。だが、日本に抗う術はない。
朝鮮総督府と関東軍は張作霖への工作に乗り出す。
「朝鮮人結社の首領と不逞鮮人の逮捕・引き渡し」に関する秘密協定が奉天で結ばれたのは1925年
6月11日であった。いわゆる「三矢協定」である。朝鮮総督府警務局長・三矢宮松と、奉天警察処長・干珍との
間で約束が取り交わされたとき、張作霖は3年後、その日本の手で爆殺されることなど夢にも思わず、
「好ハオ!」と顔をほころばせたという。
「朝鮮僑民管理規約」「東辺道所属各県鮮人学校閉鎖条例」「稲作鮮人の管理と雇用法」。奉天軍閥が矢継ぎ早に
弾圧法を出した事実を、『朝鮮族略史』(延辺出版社)は記している。在満朝鮮人は、労働、生活、教育のすべてを
奪われたことになる。
朝鮮農民を追放する事件は、1928年から30年の間に200件を超え、殺害された人々は700人を数えたと
いう。
青山里戦闘における勝利ははかない凱歌であったのか。庚申惨変と自由市事件は独立運動家のみならず、
在満農民たちをうちのめしつつあった。レーニンは、在満独立軍を日本に売り渡し、弱小民族の救済を訴えたはずの
ウィルソンもまた、日本との密約(桂―タフト協定)を黙認した。在満朝鮮人は絶体絶命の危機にさらされていた。
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