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誰か昭和を想わざる 【昭和32年】進駐軍犯罪史
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進駐軍犯罪といえば大規模なものでは松本清張が「黒地の絵」で描いた、小倉の黒人兵大量脱走劇に伴う、地域住民への大規模なレイプ、暴力沙汰がある。
昭和25年7/11、およそ160人の黒人兵による祗園祭の日の犯罪事件は、進駐軍によって厳重な報道規制が行われ、事件をうかがわせるような記事は当時の在京各紙にはまるで見えない。
結局、この事件は7/15に進駐軍による鎮圧で市街戦となるまで続いた。この市街戦についても徹底した報道規制が行われた。
昭和20年8/15から昭和27年4/28の平和条約発効までの間、日本はアメリカ進駐軍の支配下にあった。
この間、都内での進駐軍犯罪被害の届出318件、全国では25500件、ところがこの数字「氷山の一角」とされていた。
進駐軍犯罪被害で役所に届出を出すと、まず加害者が本当に進駐軍という証明書を要求される。
さらに市町村長の証明書、警察の証明書正副5通、少しでも不備があれば受理されない、これをようやく揃えて、やっと届出が受理される。
その数字が全国で25500件、であった。つまり届け出なかった、書類に不備がありつき返された、揉み消された、などの犯罪被害の件数は 25500件の中には入っていないのである。
届出が受理されても、その審理は粗末なものだった。子供が酔っ払いのアメリカ兵のジープに轢殺された母は被害届をようやくCID(陸軍犯罪調査部)に受理されるも、
何の連絡もなく放置され、呼び出されて「裁判でお前が負けた」と言い渡されて終わり。裁判があったのかなかったのか、あったとしたらどんな審理がされたのか、何も伝えられないというシロモノだった。
さらには仕事帰りにアメリカ兵にジープに拉致され、走行中に道に飛び降りて死んだ娘は「身元不明の売春婦」として処理され、家族が訴え出てもまともにとりあってもらえぬという酷さ。
あるいは突然、理由なくアメリカ兵に射殺されたり、道を歩いていて殴り殺されたり、強姦されたりなどの犯罪被害は総計3万4千件と言われたが、うち2万件は泣き寝入りしたとされている。
アメリカ兵による犯罪はどんな些細な事件でも新聞での報道は厳禁とされたので、総じて日本人のアメリカ進駐軍への感情は悪くはなっていない。