07/03/01 21:08:52
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「あの時ご飯を配って寝床を貸してくれた名前も分からない韓国人たちがいなかったら、私たちの家
族は今、この世の中にいないはずです。」
去年日本で230万余りが売れて年刊ベストセラー1位を占めた「国家の品格」の著者、藤原正彦(64)御
茶ノ水大教授。数学者である彼は、27日夕方研究室を尋ねた記者に韓国との縁をこんなふうに説明し
た。彼が言う‘あの時’と言うのは1945年、日帝が敗亡した二歳の時を意味する。日本人もよく知ら
ない事だが、彼は満州生まれだ。彼のお父さん藤原寛人(後日の筆名・新田次郎)は、日帝強制占領期
に満州の中央気象台で技術者として働いた。
「1945年8月9日、ソ連軍が満州にくると、父は26歳だった母に5歳、2歳、そして生後1ヶ月になったば
かりの三人の子を任せて帰国の途に着いたんです。二番目がまさに私でした。」半島を縦断する南へ
南へと向かう若いお母さんと幼い子供たちのはるか遠い帰国の道。
それはゴミ箱からじゃがいもの皮を拾って食べ、山中を迷って農家の物置で夜を明かす茨の道の連続
だった。「今も私の足にはお母さんにひかれて山道を歩いた時にできた傷あとが多く残っています。
」そのようにもの乞いと日雇で食いつなぐ酷い流浪生活のあげく釜山に到着して、結局日本に行く送
還船に乗ることができた。日本に到着した時は翌年の九月。1年余りを朝鮮半島で過ごしたわけだ。
藤原教授の母親ていさんは、1949年その困難な帰国過程を本にして出版した。「流れる星は生きてい
る」というタイトルのこの本は、大反響で五つの出版社から版を変えながら出版された。韓国でも195
0年代に「私が越えた38度線」、2003年には「流れる星は生きている」というタイトルで翻訳出版された。
「本でも平素でも、母はいつも‘貧しい韓国人たちの親切がなかったら、私たちはあの時死んだ命だ
った’と感謝していました。分限者はちょっと冷たい態度でしたが、貧しい人々は‘子供達に何の罪
があるのか’とこっそり飯をたいた器も配ろうとしました。」ときには盗みにあうとか敵対的な韓国
人に会ったこともある。しかし「敗戦の前に日本人たちが威勢をはっていたことを思えば、当たり前
の事」だと思うと彼は言った。
(中略)
アメリカで発行された‘ヨーコの話’が韓国で論難になったと説明すると彼は「各々経験したことが
異なるかもしれないが」と言いながら言葉を続けた。「母は、いつもロシア人や中国人は残酷だった
が、一方韓国人はむしろ私たちを助けてくれたといっておりました。」彼は朝鮮半島で過ごした時代
を鮮かに憶えていると言った。すべてのものを憶えるにはとても幼い年令だったが、お母さんの本を
見ながら記憶を再構成したからか、昨日の事のようにいきいきと感じられると彼は説明した。
(後略)
ソース:東亜日報(韓国語)1945年韓国、帰国の道上がったある日本人家族話
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