07/02/24 05:50:13
2006年7月―ホーチミン市に住むNguyen Minh Thanh氏は、新聞を見て目を疑った。
ベトナム戦争終結時の孤児海外移送作戦「Babylift」でカナダに移住したという青年の写真が、若い頃の自分と瓜二つだったからだ。
事の起こりは30年以上も前。1964年に師範大学を卒業し、教職に就いていたMinh Thanh氏は、当時のサイゴン政権から召集を受け、兵役に就いた。
除隊後はまた教壇に戻ったが、当時は混乱の最中、夫妻は3人の息子の命を守るため、彼らをホーチミン市近郊の孤児院に預けた。
「自分たちの命さえも危なかった時代、子供の安全のためには、それ以外に方法がなかった」。
それが末息子Thanhとの長い長い別れになろうとは、夢にも思わなかった。
その後シスターから、息子Thanhが手違いで他の乳児達と共に別の孤児院に送られ、海外に移送されたことを知らされた。
その時息子の手首には、出生証明書のコピーが結わえ付けられていたという。2人の上の息子は、年齢制限によりベトナムに残っていた。
我が子はどこかで生きているのか、それとも死んでしまったのか。墜落した飛行機に乗っていたのではないか……。
ありとあらゆる手を尽くしたが、息子の消息を知る手立ては無かった。アメリカにいる親戚や知り合いを頼りに、尋ね人の告知を出したこともあった。
2005年4月、Babylift作戦で海外に移住したベトナム人青年団が訪越した際には、ホテルを訪れ、
Thanhの消息を知る者はいないか尋ねようと面会を希望したが、願いは叶わなかった。
「何度絶望を味わったか。でも、『何としても息子を見つけ出して欲しい』と言い残して逝った妻のために、あきらめなかった」。
再会は運命的だった。一つの新聞記事が、70歳近くの老父の心に、もう一度希望の火を灯した。
新聞社を訪れ、記事の青年Thanh Campbellに連絡を取ってもらえるよう頼んだ。
新聞社からのメールを受けた青年Thanhも、「何か」を感じた。
ベトナムで自分に連絡を取ろうとしている男性は、新聞社にも明かしていない出生証明書のことを知っている。
だが彼の心には、両親がいたのなら、自分は何故孤児院に入れられていたのか―そんな思いが引っかかっていた。
30年以上の間、自分はカナダで孤児として暮らしてきた。それが突然間違いで、実の父と2人の兄、そして弟がいるという。
自分の知る生い立ちは、1975年4月、56人の孤児の赤ん坊と共に、サイゴンから軍用機に乗せられ連れて来られたという、
養父母が語ってくれた、それが全てだった。
そんな心のわだかまりをとってくれたのが、「弟」から送られてきた出生証明書のコピーだった。それは、自分がずっと大切に持っていたものと、
全く同じだった。自分の人生がこれまでと全く違うものになる予感を胸にした彼は、専門の研究所に親子鑑定を依頼、
Minh Thanh氏のサンプルもベトナムから送られ、2006年12月に鑑定が実現した。
結果を待つ2週間は、時計がその動きを止めてしまったかのように長く感じられた。ベトナムのMinh Thanh氏も、カナダの青年Thanhも、
心落ち着く間もなく結果を待った。2007年1月8日、Thanhは研究所から電話を受け取った。Minh Thanh氏は間違いなく自分の父親だった。
電話を介した32年ぶりの親子の再会が実現し、会話は2時間以上に及んだ。Thanhはベトナム語が話せないため、カナダに住む友人が通訳に入った。
「息子はたくさんのことを知りたがった。亡くなった母親について、兄弟について、私の健康について……」。Minh Thanh氏は言葉を詰まらせる。
電話を切る直前、Thanhは友人から教わったベトナム語で、こう繰り返した。「お父さん大好き」。Minh Thanh氏の脳裏に、片言の言葉を話しはじめた、
2~3歳に成長したThanhの姿が浮かんできた。32年を経てやっと、そのつたない言葉を聞くことができた。
Thanh Campbellが実の父親と再会したニュースは、1975年に同じく海外に移送された「孤児」達に希望の光を与えた。
彼らのルーツ探しは、始まったばかりだ。
ソース:hotnam!news
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