【日韓】日本の若者は独立記念館を訪れ、被害者が書いた歴史を自分の目で確かめてください…小学校教師だった池田政枝さんの呼び[1/13]at NEWS4PLUS
【日韓】日本の若者は独立記念館を訪れ、被害者が書いた歴史を自分の目で確かめてください…小学校教師だった池田政枝さんの呼び[1/13] - 暇つぶし2ch1:ポリリーナφ ★
07/01/13 06:51:19
「『懺悔の年賀状』これからは天国から送ります」 池田政枝さんの一生

「泣き喚きながら娘を探していた親たち、私をじっと見つめていた幼い少女たち、彼らの
姿は私の中で大きくなっていく一方です」

日本の富山県富山市在住の澤田純三(78)さんは、毎年、こんな内容が書かれた年賀状
の束を受け取ってきた。差出人は日本の植民地時代に韓国で小学校教師として勤めた
池田政枝さんだった。

普通の年賀状と違う点は受取人が書かれていないことだ。名前の代わりに「知り合いに
送ってください」という頼みが書かれた手紙が一緒に送られる。澤田さんが日本の強制
動員で被害を被った韓国人への補償運動を展開していたため、同氏に発送を頼んだわ
けだ。

池田さんは毎年、このように知人らを通じて、1000通から1500通の年賀状を発送して
きた。できるだけ多くの日本人が自分の告白と懺悔を読んで記憶させるためだった。

敗戦直前、日本の無軌道ぶりがピークに達していた1944年、ソウルの芳山(パンサン)
小学校で日本語を教えていた池田さんは「女子生徒をできるだけ多く富山の軍需工場に
送れ」という朝鮮総督府の指示を受けた。

日本の「皇国臣民論」に心酔していた池田さんは、他の日本人の教師とともに夜ごと生徒
たちの家を訪問した。「日本に行けば、おなかいっぱいご飯も食べられるし、女学校にも
通える」と、幼い弟子たちをたぶらかした。当時は、池田さんもそう信じていた。

彼の口車に乗せられた小学生6人は、翌年の3月、他の「勤労挺身隊」の少女100人
あまりとともに、ソウル駅で「涙の列車」に乗った。

1945年8月、日本に敗戦した後、はじめて池田さんは自分がしでかしたことがどんな
結果を招いたかを知った。彼は弟子らを探しに出た。

6人のうち5人が帰国していることは確認したが、弟子らは「日本であったことは考えたくも
ない」と言い、彼に会おうともしなかった。

1945年12月にようやく日本に帰った後、「韓国方面の空は見上げることさえできない
ほど」良心の呵責に苦しんでいた池田さんは、1991年4月になってやっと行方が分から
なかった弟子1人の消息を風の便りで知った。彼は富山のあるテレビ局の企画取材班と
ともに3ヵ月間その弟子を探し歩き、韓国で弟子に会うことができた。心から謝罪する
池田さんを弟子は恨まなかった。「先生は幸せですか?」と、静かに聞いただけだった。

真の謝罪の道を教えてくれたのは、数ヵ月後、弟子の娘から送られてきた手紙だった。
「百回謝罪するより、行動するのが重要だ」という内容だった。その時から彼は自分が
無邪気な幼い弟子たちに対して犯した罪を広く知らせるのに全力を尽くした。

「挺身隊動員は民間業者がしたことだ」と白を切る日本政府に向かって、池田さんは
「戦時に生徒を挺身隊に動員したのは、逆らえない『天皇陛下』の命令だった」と叫んだ。

「罪を犯したまま死ぬわけにはいかない」と決心した池田さんは、自分の半生をつづった
「二つの祖国」という本を出し、いろんな講演や集会で「日本人は植民地時代の朝鮮に
有益なことをした」とする一部歴史学者の主張がいかにでたらめなものかを、肉声でまざ
まざと証言した。

ソース:東亜日報
URLリンク(japan.donga.com)

>>2-5あたりに続く


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