07/02/21 01:07:37 j1Lt2c9O
>>555
ある命題にかんする真実性/論理性の探求において
誰が参加しようが、誰が主張を述べようが、より事実に
近い解釈は常に一つに収斂していく、のが常だ、と仮定
するとき、全ての人間は等価であると同時に、同質では
ないだろうか。
対象がただ「嘘を付いた」とか「矛盾していることを言っ
ている」ということが、反駁されないという状況を生む
ことはあっても、それ以上の価値はあるまい。
対象がバカであるか、阿呆であるかは、単に相手が
自分と比して愚かであるというだけで、命題に関して
何かを立証し得たと確実に判断出来る根拠にはならない。
そこでは、単なる論争の勝利が、命題に対する証明に
すり替えられているに過ぎない。
私は今、あなたとお互いの識別子無しに意見を交わし、
議論を行っている。併し私もあなたも私が誰であるかを
知る必要は無いし、仮にこの論争に命題が設定されている
のなら、私が過去のあなたの対話者と同一性を確保している
かということについて、意識する必要はない。
あなたが真実性/論理性により近づいていれば、殆どの
ものは反駁を行わないし、それだけで議論は成立しうる。
仮に誰かの偽者が現れたとして、その者がその真似をする
者の発言や手法や主張の一切を、全て同一に似せた
としよう。恐らく誰も違いを理解できない。理解出来ないが、
議論は成立しうる。
卑怯者に対するある種の嫌悪感として、そのようなものと
敢えて議論を行うのは非生産的だ、という指摘があるかも
しれない。しかし、卑怯者がより真実性/論理性に近づいて
いれば、あなたは反駁せざるを得ない。
すなわち、全ての外延的な要素を取りはからっていくと、
そこには自己という概念すら残らないのではないかという
極端な仮定が可能で、例えばその命題を証明するのが
自己である必要は必ずしも要請されていない。
もし仮に、議論が彼我の能力差を決める唯一のものであると
個人が認識するなら話は別だが、少なくとも「同一性」が議論
の確信的な要素を為すとか、大前提であるという話は、
恐らく個人の資質の問題に深く根ざす部分なのではないか、
という気がしている。