07/04/19 14:19:09 0
藤島大=文
表彰台に3位のスペースがない。本当はあるのに、ないように見えた。
3月24日の「フィギュアスケート世界選手権」。酒場のテレビに表彰場面を眺めていたら、
安藤美姫の歓喜、浅田真央の充実が画面いっぱいに広がっていた。悪くない光景だ。
それはそれでよい。ただし3位のキム・ヨナは遠景でもまったく映らない。ふたりの日本選手の
輝きを心から応援していた酔客が「あんまりじゃないの」と言った。
断言できるのは、善良なるファンの「外国の選手であろうとも表彰式の姿くらい映されるべきだ」
という感覚は、放送局社員のおかしなほどの高給を維持するための仕組みの前には無力である
事実だ。つまり視聴率のためなら気にもとめない。そもそも、そんな声が起こると想像もしない。
かつては「これでよいのか」という多少の逡巡とともに行われたスポーツ中継の演出は、時を経て、
まるで良心に触れない当然の方法となった。
たとえば亀田興毅のボクシングの実況は、自国のファイターを応援する自然な感情の発露とは違い、
はっきりとアナウンサーの属する「会社の都合」によって歪められている。テレビという増幅装置を
用いてスターを仕立て、おこぼれを身内で分配していく。もちろん亀田興毅その人は懸命に努力を
重ねる。成長もする。それだけに残酷だ。一流のスポーツ人に不可欠な「そのつど適切な相手と
戦い力をつける」過程を許されない。ぐずぐずしていると縮んでしまう「マーケット」が万事を急かす。
スポーツ報道の現場からエキスパートが消されつつある。すると競技そのものへの「敬意」が薄れ、
結果として過剰演出への「ためらい」も失われる。テレビに限らず、新聞、活字メディアも方向は同じ
である。「さあ専門記者へ」というところで現場を離れてしまう。
英国BBC放送のラグビー実況を、実に50年も続けたビル・マクラレンという人物がいる。知識。
声の質。比喩の鋭さ。ピュアなまでの競技への愛情。どうしても、その人でなくてはならなかった。
'02年4月6日、ウェールズ―スコットランド戦を最後に78歳で引退すると、スタジアムの7万観衆
からスタンディング・オベーションが実況席へ贈られた。別世界の出来事のようなのが悲しい。
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