06/12/04 06:37:31 5IQbfh8pO
いやはや荒れましたな。
サッカーオフに参加しましたが、所用で鶴オフには参加出来なかった者です。
自分は善悪の境界がはっきりとは解りません、まして偽善など皆目ね。
善悪は価値の両極であろうとは想像してはおりますが、恐らくはそれらの
中間領域のみを相対的に実感出来ている程度でしょうか?
こんな単細胞者の意見で恐縮ですが、既成権威や多数の共感を利用し目的に
近づこうとするマキャベリズムは古来よりの世界標準ではなかったのかな?
現代ではその権謀術数が最大至高の教義ヒューマニズムにさえ齟齬しないなら
無問題、そんな感じじゃないんでしょうか?
鶴オフを例にとれば、先ずは遺族の激励と顔繋ぎ。
あわよくば情報入手やマスコミ利用の更なるインボルブ。
遺族を民訴へ誘導出来るなら資金カンパも厭わない。
そんな目論み(個人的意見ながら)の共有の実感は、参加しなかった自分
にすらありました。
他者の不幸に際し、自らの体験や見識に照らせば選ぶべき言葉や態度は普通
自然と分かるものです。
例えばそれが「お気の毒に」という同情の言葉や表情であったとして、その時
発した言葉が本音でなかったとしても、それは決して嘘や偽善と非難するには
当たらないと考えますがね。
何故なら自己と他者の感情が当然擦れ違うものであると言う認識を大方の
日本人は共有してるからです。
その場合思いやりある慰めとは、その場の相手の状況や心象を把握し、過去の
自らの痛みの経験に照らし、当時自分が欲しかった言葉を相手に与えること。
そこら辺を必要以上に忖度することが言わぬが華の野暮天だってことも
日本人なら分かってるはず。