06/10/09 01:24:32 0
・「神無月にかこまれて」。井上陽水さんの名曲です。でもこんな時代だからこそあえて
“替え歌”にしてみます。「神在月にかこまれて…」
出雲では旧暦十月を「神在月」と呼んでいます。
「国の尻、道の果てにまで住みたもう」三千余の神々が出雲大社に参集し、各地の課題や
縁結びについて話し合うサミットを前にして、人々は稲佐の浜にかがり火をたき、「神迎え」に
わきたちます。
巨大な甲虫のような千木をいただく本殿は、八雲山の太古の森に抱かれて、立ち上る朝もやが
「八雲立つ出雲八重垣」(古事記)そのままに、神々の実在を五感に伝えてくるようです。
大社造りの建築様式そのものが、山、川、海のつながりを表すという人もいます。
神々への恐れはつまり、悠久なるものへの恐れ、八百万の自然に宿るいのちへの恐れに
違いありません。
出雲から西へ下れば、明治以来八人目の宰相を生んだばかりの山口県、維新の神話も
どうやら健在です。“純ちゃん”から“アベちゃん”へ、やはり古事記をほうふつさせる予定調和の
「国譲り」とでもいいますか。
いつの世も歴史を編むのは勝者とばかり、神無月の東京では、「美しい国」づくりの空虚な神話が
つづられ始めたところです。
アベちゃんだけではありません。マツケンからヨンさま、そしてイナバウアー経由でユーちゃんと、
ブラウン管や液晶画面が自在に切り取り、際限なく増幅させるイメージそのままに、現代の“神々”は
めまぐるしくうつろいます。うつろい過ぎてその「不在」が際だちます。
美しさとかかわいさとか強さとか、対象の具体的な属性よりも、つくられたイメージや「露出」の
回数が、「人気」という現代の神話を創造し、使い捨てにしていきます。
タレントやプロスポーツの世界ならそれも仕方ないでしょう。しかし、政治家、しかも宰相の座が
とりあえず人気で決まるとすれば、これは少々、いいえ、かなり危険です。
官邸主導の内閣は広報のプロを担当補佐官に任命し、タウンミーティングやメルマガ、
インターネットなどを通じて国民に直接語りかけるのだそうです。この「直接」がくせ者です。
おとぎ話やイメージを手間暇掛けて仕込むのは、発信者の特権だからです。(>>2-10につづく)