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裁かれるのは誰か-従軍慰安婦連行のウソ-
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マッカーサーの命令
1945年8月15日、昭和天皇の終戦の詔勅によって戦争が終わりました。占領軍は、先ず先遣隊2300人が8月28日
神奈川県厚木に到着。次にマッカーサー元帥が8月30日に到着。更に半月の間に約12万人。10月末には約30万人
の将兵が進駐しています。
日本政府はどのようにして占領軍を迎えたらよいか全く予測のできない状況の中で、米軍から次々に出される命令
に対応してきました。東京では8月28日に内務省や警視総監了解の下に売春業者たちによって
「RAA」(特殊慰安施設協会)が設立され、最初の慰安所「小町園」が大森に開設されました。そこに集められた
慰安婦は約30人でした。*RAA (Recreation and Amusement Association)
慰安婦たちは、「お国のために日本女性を守る性の防波堤」になるという悲壮な決意の下に、RAA幹部たちが
発する涙のバンザイの連呼に送られてトラックで小町園に到着しました。最初の「お客」(米兵)は早くも28日の夜
現れたそうです。
しかしながら、これは充分な性の防波堤にはなりませんでした。占領軍が進駐した地域では慰安所があっても
米兵によるレイプ事件が8月30日から頻繁に起りはじめました。基地周辺の家々は軒並み米兵に踏み込まれて、
男たちは縛られるかピストルを突きつけられる間に女たちがレイプされるのです。白昼公道において婦人牧師が
押し倒されて公衆の前でレイプされましたが、だれも助けようとする人はなく、みな足早やに逃げ去ったことも
あります。道を歩いている娘や人妻たちを後ろからジープが来て拉致して、淋しいところでレイプした例も少なか
らず発生しました。昼も夜もそれは起りました。米軍基地に勤務する女性たちは基地の内部でも外部でも目を
つけられて頻繁に辱しめられましたが、私の場合と同じように家族を餓死から救うために勤務を辞めることが
できず、耐え忍んでいました。