06/11/30 16:54:05 Yda6FEMT
保育園にカッター男侵入、園児は逃げて無事…鹿児島
URLリンク(www.yomiuri.co.jp)
30日午前9時20分ごろ、鹿児島市下竜尾町のビル1階にある「ぶらーむす保育園」(長浜久代園長)の正面玄関から男が入り、用事があって訪れていた市内のパート従業員女性(45)に
「いつもうるさくて眠れない」などと言って、持っていたカッターナイフを胸に突きつけた。
園職員の110番通報で鹿児島中央署員が駆け付け、園から逃げ出した男を暴力行為と建造物侵入の現行犯で逮捕した。女性にけがはなく、園内にいた約15人の園児も逃げて無事だった。
調べによると、男は同市上竜尾町、無職五反田正紀容疑者(27)。女性は五反田容疑者と面識がないという。
(2006年11月30日13時35分 読売新聞)
2:私事ですが名無しです
06/11/30 17:00:50
i:::/'" ̄ ̄ヾ:::i
ィ'''フ''''=、r'"~ |/ ,,,,_ ,,,,,,_ヾ|`ヽr''"`ヽ、ヽ、 じろじろ見るなよ
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`i 、〉、.__,人,___,..イ、,i" j''
l `i / ,l
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3:私事ですが名無しです
06/11/30 17:05:04
これがゆとり教育・・
4:私事ですが名無しです
06/11/30 17:16:07
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ヽ,,_ / } lrv l.l ,r l/'"
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5:私事ですが名無しです
06/11/30 17:24:20
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ピュー (∃⊂). |r-==(一);(一) ( )
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6:私事ですが名無しです
06/12/02 05:41:30
しかしニコライ二世に対するクーデターについての進歩ブロックの見解は、議論する段階に
達していなかった(一九一六年一二月にオクチャブリストの指導者アレクサンドル・グチコーフが
クーデターの意思調査をおこなったのを例外として)。
自由主義者と保守主義者は依然として、革命が「大衆」の憤激を爆発させるのではないかと心配していた。
それゆえ労働者組織は、君主制のいっそう危険な反対者であった。
少なからぬ企業家は、戦時工業委員会に代表を送ることを
工場労働者に認め続けるのは賢明ではない、と考えた。
また合法的な疾病保険寄金は疑いなく、政治的不穏を助長するために革命家によって用いられていた。
ともあれ政府は、一九一六年末にストライキを精力的に抑圧した。
政府はまた、帝国軍に徴用されることに反抗的なムスリムが中央アジアで起こした反乱を鎮圧した。
政府の活力は打破することができないように見えた。
しかし実体は見かけどおりではなかった。
労働者はなだめ難いほど体制に敵対的なままであり、
一九一七年二月にはプチーロフ兵器工場で紛争が発生した。
それから女性繊維労働者がストライキをおこない、そしてデモが首都の往来に満ち満ちた。
ペトログラード守備隊が反乱を起こした。
皇帝は前線司令部に武装部隊の援軍を求めたが、すでに遅かった。
ともあれその時までには、君主への幻滅はモギリョフ大本営にさえ広まっていた。
皇帝への忠誠は消え失せていた。
7:私事ですが名無しです
06/12/02 05:47:35
二月の出来事は複合的なものであった。
労働者が暴動を起こし、兵士はそれを鎮圧することを拒否した。
しかしストライキ、デモそして兵士反乱は、もし強制機関がニコライ二世への信頼を保っていたならば、
まだ鎮圧されえたであろう。
ロマノフ権力の弔いの鐘が鳴らされたという民衆の確信はなかった。
重要であったのは結局、街頭にいた中級の命令執行者が、
現状を維持するために暴力を用いる意思を失ったことであった。
とかくするうちに革命政党の活動家は、一九一六年一二月にオフラナ〔政治警察〕が
彼らの小集団を粉砕して以来感じていた懸念を振り捨てた。
そして舞台裏ではドゥーマのエリートと大企業が大いに喜んでいた。
連合国はこの出来事をおとなしく承認した。
しかし行動したのは労働者と兵士であり、政治家、将軍、実業家や大使たちではなかった。
そして革命は行動を、大胆な行動を求めるものである。
ペトログラード中心部でのストライキ、デモそして兵士反乱という形で、行動が起こった。
8:私事ですが名無しです
06/12/02 05:52:40
三月二日、当惑したニコライ二世は退位することに同意した。
臨時政府の組織にとりかかっていたドゥーマの政治家グループによって、最後の圧力が加えられた。
内閣で優位を占めたのは進歩ブロックの支持者で、カデットが多数派であった。
閣僚たちは、言論、集会および結社の市民的自由を公布することを速やかに提議し、
成人普通選挙による憲法制定会議の選挙を実施することを約束した。
彼らはロシアが戦争を継続することを目指した。
しかし最初のうち彼らは、全面的な勝利と領土獲得を求めて戦うという目的を隠した。
彼らはまた、農業改革を法令で定めることを拒否した。
彼らは、憲法制定会議で決議するまで土地問題の解決を延期することを望んだ。
処置を決めがたい問題への懸念がここに明白に現れている。
しかしカデットはまた、もし農民への土地の割譲が布告されれば農業生産活動の混乱と軍の解体が起こるであろう、
と現実的に論じていた(なぜなら農民兵が地主の土地からの配分を獲得するために故郷の村へと脱走するであろうから)。
そのうえカデットは、雇用者との交渉で労働者組織に自制させるよう努力した。
臨時政府は、もし工業の紛争が長引くなら軍事的安全保障が脅かされるであろう、と強調した。
こうした判断は、社会的な急進主義を回避することを意味した。
一九〇五年にはカデットは、金銭的補償をともなってではあったが、
貴族の所有地を強制的にとり上げる計画を立案した。
数年のうちに彼らは、この種の計画を強調することにあまり熱心ではなくなっていた。
もし政府の権力を獲得することを望むならば、ロシアの有産階級エリートと
運命をともにしなければならない、と彼らは考えた。
一九一七年二月の出来事は、労働者と農民に対する彼らの恐怖をつのらせることになった。
控えめにいっても、彼らの政府の命令を憲法制定会議選挙という試験にかけるよう準備する熱意が欠けていた。
9:私事ですが名無しです
06/12/02 05:58:21
したがって、都市と農村の中流階級の利益を守る包括的政党というカデットの特徴は、偶然のものではなかった。
旧体制との密接な関係から利益をえていた企業家でさえも、臨時政府を歓迎した。
地主の反動的な強硬派のあいだには、カデット主導の政府に積極的に反対したものはほとんどいなかった。
しかし災いの前兆はすでに存在していた。
組閣にあたってカデットとその仲間は、二月革命のさなかに大急ぎで設立された大衆組織である
ペトログラード・ソヴィエトと協調関係を維持しなければならなかった。
ゲオルギー・リヴォフが首相となった。
彼の首相就任は、皇帝に退位を促した自由主義的圧力のおかげだっただけでなく、
ソヴィエトの黙認によるものでもあった。
「二重権力」が革命後の秩序の確立に組み込まれた。
首都における政府とソヴィエトとの不安定な協働は、国中でそれに類似したものを生み出したが、
それは労働者と兵士が(そして結局は農民も)ソヴィエトや他の地域的大衆組織を設立したためであった。
どちらかといえばむしろ、政府機関の弱さは地方において際立っていた。
内閣は旧県知事を解任して自らのコミッサールを任命したが〔県知事解任後に地方行政は、「臨時政府県委員」
(コミッサール)と改称された県ゼムストヴォ参事会議長に引き継がれた〕、彼らは君主制の打倒後に現れた、
たいていは自由主義者に率いられたさまざまな「公安委員会」とともに働かなければならなかった。
そうした組織は長くはもたなかった。
10:私事ですが名無しです
06/12/02 07:24:23 5lGGLLCq
内閣は、自治体の議会とゼムストヴォの権限を拡大した。
しかしそれらは初めて選挙権の制限がなくなった選挙で選出されなければならず、
そこでは投票者たちはたちまちカデットに反対を示すことになった。
臨時政府にとっては、ロシアでの問題は大きかったが、非ロシア地域では問題はさらに深刻であった。
現地の代議制機関に限定的な自治以上のものを認めるのを政権が渋ったことは、
ウクライナとフィンランドで激しい反対を引き起こした。
そのうえ国家権力は国中でとるに足りないものであった。
ロシア正教会でさえもカデットに友好的ではなかった。
数百年におよぶ政府の監督から解放された聖職者は、その自由を用いて身内の争いを展開した。
一方、二月の大変動の中で警察が解体され、守備隊兵士はリヴォフ内閣によって用心深く扱われた。
しかし政府と民衆の意見とのあいだの溝は、これまでのところは深刻な亀裂というよりもひび割れという程度であった。
街頭でのデモや闘争をおこなった労働者は残虐なニコライを打倒したが、
「ブルジョワ」内閣が権力を継承したときに脇へ退いた。
一部のボリシェヴィキは、一九〇五年以来意図していた、少なくとも一時的な社会主義政府を設立しようと望んだ。
彼らの不満は増大し、同じように考えた民衆の心をひきつけた。
しかし労働者はそうした見方で考えてはいなかった。
今はまだ。