06/12/15 14:02:42
中国残留孤児訴訟で、1日の神戸地裁判決は、早期帰国を妨げたなどとして国の責任を初めて
認め、厳しく指弾した。にもかかわらず、11日に控訴した国の姿勢に私は強い疑問を感じる。年
老いた原告たちの叫びを無視する国の態度を改めさせるには、多くの国民が残留孤児の苦難に
思いをはせ、声を上げるしかない。「日本人としてやっと認められた」という歓喜から一転、落胆し
た原告らの顔を見ながら、自戒を込めてそう思う。
私にとって、残留孤児は遠い存在だった。親族と再会して涙を流す姿をニュースで見た記憶はあ
る。残留孤児を描いた山崎豊子さんの小説「大地の子」も読んだ。だが、現実にどのような思いで、
どんな暮らしをしているのかなど、思いを巡らせたことはなかった。
今年4月、兵庫県西宮市で開かれたギョーザを作る交流会の取材で、初めて残留孤児と出会っ
た。外見は普通の柔和なお年寄りたち。だが、決定的に違うことがある。幼少時に中国人に預け
られ、中高年になって帰国したため、ほぼ全員が日本語を話せないのだ。
山川照子さん(64)=同県伊丹市=は、家族と離別した戦争直後のかすかな記憶を、中国語で
昨日のことのように語り、涙をぽろぽろこぼした。61年前の戦争をいまだに引きずっている姿に、
衝撃を受けた。私はもっとこの人たちのことを知りたくなり、兵庫訴訟の原告を訪ね始めた。原告6
5人中14人から話を聞けた。
原告の多くは、1人暮らしか、中国で結婚した配偶者と暮らす。日本語ができないため近所付き
合いもなく、孤立感を深めていた。収入は生活保護やわずかな年金で、住まいは手狭な公営住宅
やアパート。日本で生まれた孫とも話ができず、ただほほ笑みを返すしかない。その姿は、もどか
しそうで、寂しげだった。
最もショックを受けたのは、原告団長の初田三雄さん(64)=同=との出会いだ。初田さんは戦
後、中国東北部に取り残され、本名も両親も分からないまま養父母に育てられた。文化大革命期
には「日本のスパイ」として9カ月間拘禁され、糾弾された。酷寒の農村に強制移住させられ、残
飯を食べて生き延びた。
肉親が見つからないまま87年に44歳で帰国。牛皮を化学処理する仕事などに就いた。定年後
は言葉の壁もあり職は見つからず、アルミ缶を拾って換金する生活を送る。
私は、アルミ缶拾いに同行した。朝5時半から初田さん夫婦はごみ捨て場を回り、素手でアルミ
缶をより分けた。缶から飲み残しのビールがこぼれ、悪臭が鼻を突く。足腰の痛みに耐えながら、
黙々と缶を拾い続けた。大きな袋二つに詰め、自転車の荷台に積んでリサイクル工場に持ち込む。
1キロ当たり150円。この日、約5時間の重労働の対価は、3750円だった。
「普通の日本人と同じ生活がしたい」。そう願う初田さんの背中が、同年代の私の父親と重なった。
「大変な苦労をしてきた人を、老後もこんな目に遭わせていいのか」。強い疑問を感じた。
ソース 毎日新聞
URLリンク(www.mainichi-msn.co.jp)
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