06/09/13 21:54:47 nw4rGJPB
新羅の言葉は、辰韓である辰語ではなく、高麗(高句麗)の言葉です。
AD244~246年、楽浪太守劉茂により辰韓が滅ぶ(辰語は使わなくなる)
三国志魏明帝(曹叡)の時のカン丘倹将軍の高麗討伐で
高句麗族(高麗人)が辰韓の地へ逃げ辰韓改め新羅となり
辰韓の地では高麗の言葉をしゃべる。
『隋書』東夷傳唐魏徴等撰
新羅國
、在高麗東南、居漢時樂浪之地、或稱斯羅。
魏將毋丘儉討高麗、破之、奔沃沮。
後復歸覆故國、者遂爲新羅焉。
故其人雑有華夏、高麗、百濟之屬、兼有沃沮、不耐、韓之地。
其百濟人、自海逃入新羅、遂王其國。
傳祚至金眞平、開皇十四年、遣使貢方高祖拜
眞平爲上開府、樂浪、新羅王。
『隋書』東夷傳唐魏徴等撰
新羅國
、高麗(高句麗)の東南に在(あ)り、
漢時に樂浪之地に居(い)て、或(ある)いは斯羅と稱(しょう)す。
[三国志]魏[明帝時代]の將[軍]の毋丘儉は高麗を討(う)ち、之れを破る、
[高句麗は]沃沮に奔(はし)る。後(のち)に故國に覆(かえ)り復歸す、
[復帰しない]者は遂に焉(おわること)新羅と爲(な)る。
故(ゆえ)は其(そ)の人が
華夏(中華)の雑[種](混血)が有り、高麗と百濟の(之)屬[国]なり、
沃沮(渤海・咸鏡道)と
不耐(不而・フジ・太白山脈・江原道)と
韓(カラ・慶尚道)之地を兼(かね)て有(あ)る。
其の百濟人は、海より(自)逃げ新羅に入る、
遂に其國(新羅国)の王になる。金眞平に至る家伝継承(傳祚・でんそ)あり、
開皇十四年に、使いを遣わし方(宝)を貢(みつ)ぎ高祖を拜して
眞平は上(かみ=隋高祖)より開府を爲(な)す、樂浪の、新羅王なり。