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朝鮮民族の文化の源
世界中探してもおそらく朝鮮人ほど悲惨な民族はいないでしょう。
朝鮮人は紀元前2世紀の考古学的に立証できる衛氏朝鮮の建国以来、常に中国(当時は漢)の支配下にあり
その衛氏朝鮮が100年足らずで漢の武帝に滅ぼされると漢が楽浪郡などの直轄地を置いて漢民族の直接
支配を受け、その後独立国家を造った新羅は唐の属国であり、その後を継いだ高麗は宋に朝貢してその
庇護を受けざるを得なかった。しかも高麗末期にはモンゴル国家である元に征服され代々の国王は元の
皇女を妃としその間に生まれた皇子は、元の宮廷で養育されると言う惨めなありさまであった。
その後モンゴルからの独立に成功するが、その為の戦に功のあった李氏が政権を簒奪して李氏朝鮮を
成立させた。しかしこの李氏朝鮮も国家を維持する為には当時の中国の国家である明に服属せざるを得ず
明から冊封されてようやく朝鮮王として認められた。しかも中国に対する忠誠心を表わすために前政権の
高麗の国教であった仏教を排撃して中国の土着の教えである儒教を国教とした。16世紀末には豊臣秀吉の
侵攻により滅亡寸前にまで追い込まれたが明の援助によりかろうじて生きながらえたが国力は疲弊しきっていた。
そして17世紀初頭に満州の女真族に破れ女真族を兄、朝鮮を弟とする条件を飲んで降伏した。
ところが10年もたたないうちに清と国号を変えた女真から明への出兵を命じられると、これに逆らって
清と交戦しあっけなく敗れる。この時の清との講和の条件は次のような悲惨なものだった。
1 明と断交して清に服従すること
2 朝鮮王子を人質として送ること
3 莫大な賠償金を支払うことと毎年清に対し貢物を贈ること
4 朝鮮国王自らが清の使節を土下座して迎えること
しかもこの敗戦の証としてソウル近郊に建立された三田渡碑には、「 愚かな朝鮮王は偉大な清国皇帝に逆ったが
清国皇帝はこの大罪を許してやった。朝鮮国王は、自らの愚かさを反省し、清国皇帝の臣下になることを誓った。」などと刻まれ、
この碑は日清戦争で日本が清を破って朝鮮を解放するまで立てられていた。
朝鮮人が好んで引用する儒教の教えに基づく父子、兄弟関係などというのは17世紀以後、満州族などに蹂躙され
その満州族から弟分扱いされた自国の恥ずかしい歴史を誤魔化してあたかも漢民族との間で平穏な冊封関係の下で国王として
品位を保ってきた振りをする為、苦悩がある。怒りは中華民族に向かうべきである。