【沖縄】 平和の礎を再考、韓国・朝鮮人の刻銘進まず 強制連行証言の姜氏「日本人は謝罪するつもりはあるのか」 [06/23]at NEWS4PLUS
【沖縄】 平和の礎を再考、韓国・朝鮮人の刻銘進まず 強制連行証言の姜氏「日本人は謝罪するつもりはあるのか」 [06/23] - 暇つぶし2ch1:Mimirφ ★
06/06/23 20:40:47
■平和の礎を再考 韓国・朝鮮人の刻銘進まず 沖大でシンポ

写真:強制連行され、沖縄戦で仲間の処刑を目撃した体験を語る姜仁昌さん=22日夜、沖縄大学
URLリンク(ryukyushimpo.jp)

 23日の「慰霊の日」を前に、韓国・朝鮮人の強制連行への認識を深め、沖縄戦の実像に
迫りながら平和の礎を再考するシンポジウム(主催・桜井国俊沖大学長ら呼び掛け人23人)が
22日夜、那覇市の沖縄大で開かれた。韓国・朝鮮人の刻銘が進んでいない実態を議論し
「加害の歴史」に真摯(しんし)に向き合い、謝罪する必要性が指摘された。
 また平和の礎が「あらゆる戦争を否定し軍事力を用いず平和をつくる」という当初の理念と異なり
「軍事基地容認による平和にねじ曲げられている」などの意見があった。
 第一部では沖縄戦当時、阿嘉島に強制連行され過酷な労働を強いられた姜仁昌(カンインチャン)
さん(86)が体験を証言した。
 仲間12人が日本兵に処刑される現場で、遺体を埋める穴を掘らされた経験などを証言し
「日本政府には恨みがいまだ強い。日本人は謝罪するつもりはあるのか」と、会場の聴衆にも
怒りを表した。
 第二部では「平和の礎の理念と課題」と題して石原昌家沖国大教授が講演。
「平和の礎は、平和の実現にかかわる諸問題を総合的に調査、研究する沖縄国際平和研究所の
もとに位置付けられる計画だったが、県政の交代でとん挫した。単に戦没者の追悼施設として
建設されたものではない」と指摘した。
 さらに日米政府の要人らによって「米軍基地容認によるアジアの平和への貢献を発信する場」に
ゆがめられている、などと批判した。

■仲間は銃殺、死体埋めた/強制連行の姜仁昌さん
 1944年6月18日に捕まった。3カ月間飛行機の滑走路建設に働いてもらうという話で同じ地域
から3千人が移動した。6月で暑いのに冬の軍服を着せられ、訓練させられた。
 沖縄に到着して次の日から軍夫として働いた。船から爆弾や食料を保管場所に運ぶのが任務だった。
軍は月給100円、小遣いを1カ月で30円あげると言ったが、まったくもらえなかった。
 軍隊の慰安婦計約200人を目撃した。中隊長以上の人たちは1人ずつ慰安婦と一緒に住み、
ほかの兵隊は近くに慰安婦が住んでいた。
 わたしたち軍夫は阿嘉島、座間味など5つの島に600人ずつ配置され、阿嘉島でわたしは山の下に
穴を掘り爆弾を入れる作業をした。8人1組で爆弾を海に運び、また穴に入れる一種の軍事訓練をした。
 45年3月24、25日に空爆と艦砲射撃が激しくなり2日間動けず穴の中にいた。26日夜、毛布など
荷物を持ち山に逃げた。海は大小の船がたくさん浮かんでいた。空ではたくさんの飛行機が乱射をし
船からは艦砲射撃。「今日死ぬ」と思った。
 次の日から空襲は減ったが、おなかがすいて草も食べた。民間の農地まで下り稲やサツマイモを
掘って食べた。農地から取った稲をポケットに入れた仲間が日本兵に13人つかまった。
 夜7時半に13人を銃殺するという。責任者2人と葬る人3人が決められた。葬る人の1人がわたしだった。
13人が処刑場所にいく途中、1人は縄がほどけて逃げたが、その場所でシャベルで穴を掘らされた。
12人は銃殺され、死体を埋めさせられた。
 逃げた1人が「夜逃げて米軍の捕虜になろう」と提案、7人で逃げた。月夜の中で島のがけを下り日本軍
の警備の中をやっと船着き場に到着。ハンカチを枝に巻き火を付けた。小さな船から黒人米兵が服を全部
脱ぐよう合図したのでパンツだけだったわたしらは、それを脱いで船に泳いで行き捕虜になった。
 日本の警察や軍が言っていた労賃は全部うそ。日本政府はうそばかりで人間とは思えない。恨みは強い。

ソース:琉球新報(6/23 9:55)
URLリンク(ryukyushimpo.jp)


レスを読む
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch