06/04/08 21:39:44 o9DMgN8v
>>466
秀吉の朝鮮国の地図は八道に色が別々に塗ってあり「あかくに」を成敗せよ。
という事で「あかくに一揆」という民族抵抗運動を、平らげる戦争を日本はした。
釜山(プサン)は昔、富山浦(プサンポ[発音が同じ])といわれ
東莱城(とんネそん)で釜山鎮の管轄にあった。
東莱城にて面会の儀式があった。
倭館(うぇがん)は、釜山沖3~4km先の草梁島(チョンりゃんド)にあり
この島は倭人で対馬藩士しか住まなかった。
秀吉の出兵や熊川での交易再開の前に
三浦というのがあり、済浦(馬山)・富山浦(釜山)・塩浦(ウル山)の
3港を三浦と言ったのであった。
南の交易港が済浦(チェぽ:馬山[まサン])であれば、李朝末期の
北の交易港は済物浦(チェむるポ:仁川[いんチョン])であった。