06/02/26 15:17:22 wWTSoiYo
豊臣秀吉の朝鮮侵略は秀吉の死によって終わったが、この戦争は朝鮮を荒廃させた。朝鮮に出兵しなかった徳川家康は、
松雲大師水惟政との交渉を経て、朝鮮との国交回復を果たした。以後、徳川幕府はこの朝鮮通信使の来日を、「将軍一代
の盛儀」として重要視した。1607(慶長12)年から1811(文化8)年までの約200年間に、朝鮮通信使は12回来日した。徳川
幕府の慶事や将軍の代替わりごとに訪れて、朝鮮国王の国書と徳川幕府の将軍の返書との交換が行われた。第2回は
京都伏見まで、第12回は対馬まであったが、それ以外は江戸まで往還し、そのうち第4回から第6回は日光へも足跡を残している。
朝鮮通信使は正使・副使・従事官の三使以下、画員・医員・訳官・楽士など総勢約400人から500人にのぼる大使節団であった。
鮮の都漢城(現在のソウル)から出発し、半年以上かけて、江戸までの往復約3000kmを旅した。この旅の先々で
通信使は多くの文人達と筆談・唱酬で交歓し、またその朝鮮通信使船団・朝鮮通信使行列は多くの民衆に熱狂的に迎
えられるなど、日本の各階層の人々に多大な影響を与えた。
ネット弁慶は朝鮮通信使の偉大な功績を認めたら?
また朝鮮通信使は日本だけではなく友好的な琉球とも交流があったといわれている