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作家の井上ひさしさんのお子さんが「球場に行って、プロ野球が怖くなった」という話をうかがったのは
3、4年も前になるだろうか。応援の大音量におびえたという。楽天の本拠のような原則鳴り物禁止の
球場も出てきたが、さほど状況は変わっていない。
応援を含めた全体の雰囲気を楽しむ人もいる。けれども野球には静寂が必要だ。特に硬式野球は
音も含めた五感のスポーツだと確信する。
中学時代だから、戦後3、4年もたったころだろう。水戸でオール水戸と早大が対戦すると聞いた私は
小遣いをためて、2時間汽車に乗り、茨城県北部の大子(だいご)から、水戸に出た。
前は軍隊の用地だった水戸に近づくとざわめきが聞こえ、矢もたてもたまらず駆け出していた。思えば
昔の少年は球場がみえると、条件反射的に走ったものだ。
左翼のライン際に、やっと立ち見の場所を得た私のところにも「カキーン」という音が響いてきた。打席に
いたのはのちに王貞治ソフトバンク監督を指導する早大・荒川博さん。日常にない硬質な音。理屈ぬきに
スカッとする音だった。
ドキドキして周りを見渡すと「ホームランだ」と顔面を紅潮させていた。あの胸の高鳴りは半世紀以上
たっても忘れない。広場に縄を張り巡らしただけの球場だが、だからこその臨場感だった。
今は縄一本で仕切られた球場の臨場感は望むべくもない。しかし、せめて静かであったなら……。
ざわめく観客席も、投手がモーションに入った瞬間、シーンと静まったあの頃が懐かしい。
あの音に誘われて私は硬式野球の道に入った。荒川さんに打たれた桑名重治投手(後に東急)とは
不思議な縁があり、西鉄入団1年目に満塁弾を打たせてもらった。
「何もホームランを打つことはあるまい。」水戸の先輩はそうぼやいたのだった。あの時の「ガシャ」という
ものが壊れたような手応えは荒川さんの快音とないまぜになって記憶に残っている。
野球など、音がなければちょっと手のこんだすごろくという程度の競技だ。耳に届く音がラッパ、太鼓の
リズムだけでは球場に駆け寄る少年も減るはずだ。
(12月29日 日本経済新聞)
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