04/07/09 11:14 WNuzBn8o
>>370
麒麟さんご苦労様です。『還ってきた台湾人日本兵』から恩給等にまつわる部分を引用します。
「もっと早く来てくれたらよかった」「もっと早く来てくれたらよかった」
帰り際にその男は、私の姿が見えなくなるまで、何度も何度もこう叫んだ。防犯用に金網
がはまっている自宅の土間のなかから、両手で金網をしっかりつかんで。さも囚人が鉄格子
のなかから娑婆に向かって叫ぶがごとく。
2001(平成十三)年六月十八日。台北駅から南北に伸びる都市鉄道MRTの南の終点、
新店駅から車で一時間ほど山のなかに入った烏来の村で、村人に誰か高砂義勇兵だった人は
いないか、と聞いて回り、運よくタイヤル族のその男に会うことができた。
名前を蔡江漢(民族名・ダイシタンガ、日本名・立山信吉、78)といった。第二回の高
砂義勇隊でニューギニア島のポートモレスビーとニューブリテン島のラバウルに従軍したと
いう。突然の来訪者が日本人だと知って、蔡はこう切り出した。「一円も返ってこないじゃ
ないか」。
(従軍時の給料などで)軍事貯金に何百円もあった。でも戦争終わって一円も返ってこな
い。(日本政府に)何度も申請したがだめだった。(敗戦時に)日本人の隊長に言われて(
高砂義勇兵はみな)通帳もなにもかも書類、一円、二円の札(軍票)も焼いた。分かったら
捕まると言われてね。(家にあった書類も)戦後、国民党にみつかったら危ないと思って、
焼いてしまった。日本なくなってしまって。貯金何もなくなった。
考えても面白くない。ちゃんと日本が調べてくれればよかった。軍歌?もう全部忘れてし
まったな。戦後そんなの歌ったら命危ない。勲章もらえるばずだ。貯金だめなら勲章ほしい。
あんなに勇敢に戦った。この村では男全員が志願した。あるものは片目(目が不自由)でも
志願して訓練いった。勇ましい男だと。誰も置いて行かれたくない。
島では迫撃戦。ニューギニアでアメリカ兵とぶつかった。蕃刀と三八式歩兵銃と弾八十発
だけ。見事にやっつけた。イモやサトウキビ、サトイモ、島にはなんでもあった。山ブタや
鳥を銃で撃って捕って、日本兵に食べさせた。食べ物探すの(高砂義勇兵の)仕事。日本兵
(食糧の現地確保は)できなかった。
ソロモンのあと、東京に着いた。宮城崇拝して本当に涙流れた。そこで休んで台湾に戻っ
た。もう役目終わったと言われて。でも二十歳のとき。何もしない寂しいでしょ。(まだ戦
争中だというのに若い自分が村にいるのは)重苦しい。もう一回、志願したら、巡査に「上
等だ」と誉められた。陸軍志願兵で訓練のために台中に送られた。そこで半年訓練受けたら
終戦(になった)。勲章もらえるはずだ。
~中略~
今の日本?そりゃいい気持ちでないよ。そのとき(従軍を志願したとき)はそのとき。今
は今でしょ。終戦で戻ってずっと農業してた。水牛使って田んぼでお米ね。苦しかった。食
べるだけ。
もう遅いよ。もっと早く来たら(書類など)何でもある。もう遅いよ。
家を辞して坂道を下りながら蔡の叫びが遠くなっていくのを聞いた。ほんとうの囚人は鉄
格子のこちら側にいた。