04/07/06 11:54 Q4pfrUk/
>>271
>義に恩給で報えねども、せめて心で報いる。
おっしゃる通りだと思います。なんとか心を伝えたいですね。
午後来られないかもしれないので、ちょっと長めのを2つ連続で行きます。すいません。
『還ってきた台湾人日本兵』 河崎真澄:著 文春新書:発行 から引用
アミ族出身の中村輝夫も、この時代の高砂義勇兵の隊列の
なかにいる。
中村とともに日本陸軍特別志願兵に選ばれ、アミ族の高砂
義勇兵になった高昌敏(タケオ、宮田武男、七八)(引用者
注:高昌敏は戦後につけられた中国名、タケオは民族名、台湾
原住民には民族名も日本風の名前にする人が多かった。宮田
武男は日本名)は、太平洋を間近に望む台東県都蘭村の自宅の
倉庫から、従軍答辞に使ったという蕃刀と呼ばれる高砂族の刀
を出してきた。
~中略~
台東の自宅の庭で陳徳儀(ハパプリン・クラサイ、岡田耕治、
八十)とともに高砂族自慢の蕃刀を腰にすると、背筋をぴんと
伸ばして高は言った。
「そのころは広報からの物資補給も絶えがちでね。バナナや
モッカ(パパイア)や、いよいよ(食糧が)ないときは木の根
っこも蕃刀で掘って、日本兵に食わせました」
迫りくる死の極限を切り抜けてきたはずなのに、高はまるで
順風に帆を上げるような笑顔で話し続ける。
かつては差別待遇を受けた高砂族に生まれながら、戦地では
将校から一兵卒に至るまで正規の日本兵に頼りにされたという。
「そのときは、もう日本(人)も高砂(族)もない。上官、戦友よ。
おい宮田君、助けてくれと言われておぶった上官が背中で死んだ
こともある。
同じ釜の飯を食べた中村へも、戦友として格別な思いがある。
「中村さんは荷物を担ぐのがうまくて百キロぐらいの荷物をかつ
いでも、しっかりと歩いたな。もくもくとよく働いた。ハラが
減ったときは首にぶら下げていた靴の革を煮てかじったよ」