日本史上最低のゲイ右翼、三島由紀夫を叩くスレat SEIJI
日本史上最低のゲイ右翼、三島由紀夫を叩くスレ - 暇つぶし2ch177:名無しさん@3周年
10/03/10 23:08:55 6732s8Nz
三島は高度の知性に恵まれていた。
その三島ともあろう人が、大衆の心を変えようと試みても無駄だということを認識していなかったのだろうか。
…かつて大衆の意識変革に成功した人はひとりもいない。アレキサンドロス大王も、ナポレオンも、仏陀も、
イエスも、ソクラテスも、マルキオンも、その他ぼくの知るかぎりだれひとりとして、それには成功しなかった。
人類の大多数は惰眠を貪っている。あらゆる歴史を通じて眠ってきた…(略)大衆を丸太みたいにあちこちへ
転がしたり、将棋の駒みたいに動かしたり、鞭を当てて激しく興奮させたり、簡単に(特に正義の名を持ち出せば)
殺戮に駆りたてることはできる。しかし、彼らを目ざめさせることはできない。

ヘンリー・ミラー
週刊ポストへの特別寄稿より

178:名無しさん@3周年
10/03/11 01:52:02 ozUtv4tL
10日午後4時30分頃、大阪市北区芝田の複合商業施設「北野阪急ビル」(通称DDハウス)地下1階にあるインターネットカフェの店員から、「シャワー室に客が入ったまま、カギが開かない」と119番があった。
市消防局の救急隊員がシャワー室で客の男性が死んでいるのを発見。室内から硫化水素0・5ppmを検出したため、客と店員計約140人を避難させた。
同じ階にある別の8店の客らも、ビル関係者が避難誘導した。硫化水素は人体に影響がある濃度ではなく、けが人などはなかった。現場は阪急梅田駅北側にある繁華街で、一時騒然となった。
曽根崎署によると、死亡していたのは大阪府池田市内の大学2年の男性(24)。タオルをドアノブにかけて首をつっており、同署は自殺とみている。
男性のそばに薬剤などはなく、同署は汚水などから発生した微量の硫化水素を検知した可能性が高いとしている。硫化水素は10ppmを超えると人体に影響があるという。
市消防局は「微量の検出ではあったが、念のために避難させた」としている。
当時、ネットカフェ内にいた兵庫県尼崎市内の会社員男性(50)は「店員がすごいけんまくで『すぐに出てください』と言ってきた。ガスマスクをつけた消防隊員が入って来て、尋常じゃない雰囲気だった」と驚いていた。

加藤典洋
「その世界普遍性」より

179:名無しさん@3周年
10/03/11 01:57:51 7ShIC8sN
なんで三島スレって
どこでもこうなわけ?

180:名無しさん@3周年
10/03/11 01:58:55 aqk4ldG3
日本右傾許さない! 右翼論破してやる! 保守論破してやる! ネトウヨ論破した!! 左派勝つ!!














スレリンク(seiji板)l50

181:名無しさん@3周年
10/03/11 19:41:38 vZRIOHYN
一人で的はずれな三島擁護とコピペ連投をする粘着バカがいる。まで読んだ。

182:名無しさん@3周年
10/03/11 23:45:18 T+RQC2LV
三島さん、あなたがこの世を去られてから、ちょうど二十年の歳月が流れました。長いようでもあり、
短いようでもあります。
二十年前、あなたのあの壮烈な死の直後、私はこの「題名のない音楽会」であなたへの弔辞を捧げました。
そのなかで私はこう言いました。
「三島さん、あなたが自らの死によって訴えたかったこと、それはあの檄文の最後にある言葉
『我々の愛する歴史と伝統の、国日本を日本の真の姿に戻そう。生命尊重のみで魂が死んでもいいのか。』
この言葉にあなたの思いは集約されていると私は思います。
最後のバルコニーの演説でも冒頭にあなたはこう言っている。
日本は経済的繁栄に現を抜かして精神的には空っぽになってしまった。君たち、それがわかるか、と。
自衛隊の存在も含めて潔癖なあなたは政治的ごまかしを許すことができなかった。

黛敏郎
平成2年11月25日「題名のない音楽会」より
ワグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(演奏 東京フェスティバルオーケストラ)

183:名無しさん@3周年
10/03/11 23:46:04 T+RQC2LV
現在の日本が世界に冠たる経済的繁栄を誇りながら、それに反比例して政治の腐敗とごまかし、精神の不在と荒廃、
人間の疎外と断絶、こういった憂うべき事態を深めつつあることは心ある人々の認めるところでしょう。
明治の文明開化以来、西欧流の物質主義が日本文化を支える精神主義を危殆に瀕せしめている。
あなたが自ら畢生の大作と呼んだ最後の作品「豊饒の海」であなたは唯識論と輪廻転生という東洋の思想を踏まえて、
この風潮に文学的というよりはむしろ哲学的な鉄槌を下している。あの作品の最後の部分で主人公が蝉時雨の
降るような尼寺で、意外な結末に茫然と立ち尽くすあたりはまさに無の境地としか言えません。
文学ならば無で済みます。しかし、現実はそれでは済まない。
あなたは自らの命をわざわざ人が犬死にと評するような一見、愚劣な方法で劇的に絶つことにより、
心ある人々に一大衝撃を与えた。まさに皮肉で逆説好きな、いかにもあなたらしい芸術的なやり方でした。

黛敏郎
平成2年11月25日「題名のない音楽会」より
ワグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(演奏 東京フェスティバルオーケストラ)

184:名無しさん@3周年
10/03/11 23:46:45 T+RQC2LV
あなたがもし、政治家だったとしたら、こんな方法は絶対にとらなかったでしょう。
あなたが意図したことはだから、自衛隊に決起を促すクーデターではなかった。心ある人々の魂にぐさりと
突き刺さる精神のクーデターだったのです。
(間)♪♪♪♪♪
三島さん、二十年前、あなたがあの壮烈な死を遂げられた直後、私は「題名のない音楽会」でいま言ったような
弔辞を捧げました。そして、あなたが自らの死を以て暗示してくれた精神的クーデターは近い将来、必ず
起こるはずだから、どうか、あなたのこよなく愛したこのワグナーを聴きながら、幽明境を異にした天界で
日本の将来を期待とともに見守っていて下さい、このようにお願いをしました。
それから二十年。日本は変わったでしょうか!残念なことに、本当に残念なことに少しも変わってはいないのです。
あなたが、死を賭して訴えた自衛隊の問題にしても未だに決着はついていません。三島さん、あなたの名前は
今でも一種のタブーです。あなたの数々の作品は芸術的には高く評価され、あなたの才能を疑う人間はいないけれど、
あなたの思想は依然として危険視されています。

黛敏郎
平成2年11月25日「題名のない音楽会」より
ワグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(演奏 東京フェスティバルオーケストラ)

185:名無しさん@3周年
10/03/11 23:47:30 T+RQC2LV
いまの日本は、二十年前、あなたがいみじくも予言した通り
「私はこれからの日本に希望が持てない。このままいったら日本は無くなってしまう。そのかわりに無機的な、
空っぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済的大国が極東の一角に残るだろう。
それでもいいと思っている人たちと私は口をきく気にもなれない。」
こういったあなたの言葉通りが現実なのです。本当に残念なことです。
三島さん、あなたがいなくなってからの二十年は、あなたが望んでいたような二十年ではありませんでした。
また、これから先の日本が果たしてどうなるのか、誰にも予断はできません。しかし、今までの二十年と同じく
あまり期待のできない将来であることは、おぼろげながら予測できそうです。ともあれ、いま、幽明境を異にした
あなたに私ができることといえば、あなたの好きだったこの曲を捧げることくらいでしょう。
この曲がうたっている死とはかり合えるほどの重さを持った愛の尊さをあなたと一緒にかみしめましょう。…

黛敏郎
平成2年11月25日「題名のない音楽会」より
ワグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(演奏 東京フェスティバルオーケストラ)

186:名無しさん@3周年
10/03/13 00:28:15 pDPmhaaj
2010-01-16 13:29:12

晴れたね


午前中
あったかいうちに


鎌倉の
鶴岡八幡宮に行ってきたよ~

(´ー`)

混んでた~!


でもぎんなんやさん
気になる気になる

ぎんなん食べたかった~


ぎんな ーーーーん!

黛敏郎
平成2年11月25日「題名のない音楽会」より
ワグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(演奏 東京フェスティバルオーケストラ)

187:名無しさん@3周年
10/03/18 23:06:45 /EM7lcUY
三島由紀夫氏に初めて会ったのは昭和二十二年である。
三島氏の学習院時代の師であった豊川登氏の紹介によるものであった。当時、三島氏は渋谷に住んでいた。
初対面で心をうったのは彼の母倭文重さんの美貌だった。実に気高く美しい婦人だなあと思った。そして
三島氏が発した言葉で今もはっきり覚えているのは、「おかあさま、お客さまにお紅茶をお願いします」であった。
そしていろいろ語り合ううちに、「伊沢さんは保田与重郎さんが好きですか、嫌いですか?」との質問だった。
私は直ちに、「保田さんは私の尊敬する人物です。しかし、まだお目にかかったことはありません。御著書を
読んでいろいろ教えられている次第です。戦後、保田さんを右翼だとか軍国主義だとか言って非難するものが
ありますが、私はそのような意見とは真向から戦っています。保田さんは立派な日本人であり文豪です」と答えた。

伊沢甲子麿
「思い出の三島由紀夫」より

188:名無しさん@3周年
10/03/18 23:08:27 /EM7lcUY
三島氏は嬉しそうな顔をして「私は保田さんをほめる人は大好きだし悪く言う人は大嫌いなのです。今、
伊沢さんが言われたことで貴方を信頼できる方だと思いました」と言われたのである。これを御縁として、
しばしば面談するようになった。当時、三島氏は大蔵省の若手エリート官僚であった。そのため私は大蔵省へ
時おり三島氏に会うために通うようになった。
私は若手のエリート官僚に友人が何人か居たが、三島氏の立派な人格には心から惚れこんでしまったのである。
何しろ三島氏は天才的な作家であり東大法学部出身の最優秀の官僚であり乍ら、いささかも驕りたかぶるところがない
謙虚な人柄であった。そして義理と人情にあつい人であるということがわかったのである。
つき合えばつき合うほど尊敬の念が湧いてくるのであった。東大出の秀才というのは思い上った人間がよくいる
ものだが、三島氏には全くそのようなところがなかったのである。
伊沢甲子麿
「思い出の三島由紀夫」より

189:名無しさん@3周年
10/03/18 23:10:03 /EM7lcUY
この人は作家として偉大であるのは勿論だが、人格者として最高の人だと、つき合えばつき合うほど思うように
なっていった。その後、毎月のように三島氏と私は食事を共にし語り合ったのだ。(略)それと共に三島氏の
要望により私は歴史と教育に関する話をいろいろとするに至った。特に歴史では明治維新の志士について。
中でも吉田松陰や真木和泉守の精神思想を何度も望まれて話した。話と同時に松陰の漢詩と真木和泉守の辞世の和歌を
三島氏の強い頼みで私は朗吟したのである。三島氏は松陰や真木和泉守の話を私が始めると、和室であったため
座布団をのけて正座してしまうのだった。私も特に吉田松陰の最期の話をする時などは情熱をこめ、時には涙を
浮かべて語ったものである。三島氏は吉田松陰の弟子たちに贈った「僕は忠義をするつもり諸友は功業をなすつもり」
という言葉が大好きになったようだった。

伊沢甲子麿
「思い出の三島由紀夫」より

190:名無しさん@3周年
10/03/18 23:10:59 /EM7lcUY
その外では西郷隆盛の西南の役の話や、また尊皇派の反対の佐幕派の人物である近藤勇や土方歳三の話も何度となく
望まれて語った次第である。特に近藤勇は三島氏の祖母の祖父である永井尚志が近藤勇とは心を許し合った
友人であったため、深く敬愛の情を寄せていた様である。ついで乍ら記せば、永井は幕府の若年寄という重要な
地位にいた人で、アメリカの外交官であるハリスが尊敬の念を抱いていた程の欧米の事情に通じていた人物であった。
そのため後に私が主宰して行った近藤勇死後百年祭に真っ先に参加してくれたのだった。
三島氏が私に語った言葉で今も忘れられないのは、「私が日本を愛したのは源氏物語の世界だった。それが
伊沢さんとつきあう様になり幕末の志士たちの精神を知り、今は吉田松陰をはじめとする志士の世界に心が
入るようになった」ということである。

伊沢甲子麿
「思い出の三島由紀夫」より

191:名無しさん@3周年
10/03/18 23:13:05 /EM7lcUY
また或るとき私が、「三島さん、尊皇攘夷でなければならん。現代でも外国の思想によって、どれだけ日本人の
心が汚されているか計り知れないものがある。外国のいいところは進んで取り入れなければならないが、
功利主義の外国思想は打ち払わなければならないので、攘夷の精神を現代こそ日本人は堅持しなければならない」
と言うと三島氏は「その通りだ、あなたの意見に全く賛成だ」と言ってくれたのであった。
三島氏は死ぬ数年前から小説家三島由紀夫ではなく尊皇憂国の志士となっていたのである。三島氏の母の
倭文重さんは、この点をはっきり認めていた。三島氏が自決したことは日本だけでなく世界の文化にとっても
残念なことであるが、尊皇憂国の志を貫かんとしたので止むを得なかったのであろう。
偉大なる三島、高貴なる三島、この様な人は二度と現われてこないであろうと思う。
だが、悲しい、三島が死んだことは悲しい、今も生きていて呉れていたらいいなあと思う次第だ。

伊沢甲子麿
「思い出の三島由紀夫」より

192:名無しさん@3周年
10/03/20 02:08:05 ScaGZQu7
G・ヴェネチアーノ、ポルチンスキー、べケンスタインなど多くの一流の学者達が現代宇宙論に関して
解説してくれています。内容は暗黒物質、多重宇宙、ホログラフィック宇宙など大変豊富で、宇宙物理
研究の最先端(理論が殆どですが)がどのようなものかよく分かります。よくこれだけ一流の学者達が
素人向けにそれぞれの研究分野について解説してくれたなという印象が大変強く、貴重な雑誌だと感
じています。宇宙創生などに興味がある方にとっては大変充実した内容だと思います。

伊沢甲子麿
「思い出の三島由紀夫」より

193:名無しさん@3周年
10/03/24 14:15:11 1XcRX/CH
三島由紀夫が透徹した認識の目を持っていたことは、彼を知る人ならば誰もが認めるだろう。例えば動物に
対する描写を取ってみても、その異様に鋭い認識能力が垣間見れる。(引用略)
言葉を喋らぬ一個の生命に対して、これほどその根源に迫れるほどの認識能力を持っているなら、人間を洞察し、
その自意識を具体的に纏め上げた安永透という人間を作り上げることくらい造作もなかっただろう。(中略)
三島文学ほど明確に人間の個人的精神と結び付けて涅槃を説いている作品は他にないだろう。悟り……、そして
悟りへ至るための道である八正道とはつまり、自意識の塊りである安永透という存在の否定なのだ。
天人五衰や「安永透の手記」には、悟りへの道である八正道に、見事に反する精神状態が描かれているのである。
安永透の自意識こそ、仏教が説く人間の捨て去らねばならない“我”そのものだからだ。

三上秀人
「三島由紀夫の遺言 観世音」より

194:名無しさん@3周年
10/03/24 14:15:39 1XcRX/CH
三島由紀夫の重要性、そして特殊性は、その並外れた認識の能力にある。(中略)
なぜ三島由紀夫にだけ、これほど高度な認識能力があり、一般の人はそうではないのか。それが私には大きな
疑問となり、三島文学への好奇心を駆り立てた。(中略)
どちらかというと私は三島の小説よりも日記やエッセイなどを好んだ。(略)…概念の捉え方が行間からより
鮮明に表れていて、その明晰さに私は驚嘆した。(中略)
三島由紀夫は単なる小説家という存在を超えている人間なのかもしれない、と私はうっすらと理解し始めた。
多くの人は『ミシマ文学』と言っているくらいで、どうも彼の使う表現の卓越さ、認識の正確さのすべてを、
三島由紀夫の文才と考えているようだった。
しかし私にはそうは思えなかった。言葉使いが巧みなだけなのではない。確かに十代までの三島はそうだった。
しかし「仮面の告白」以降は違う。正確に現実を認識しているのだ。あまりに正確すぎるほど正確に……。
つまり、何かをきっかけに三島由紀夫は、その正確無比な認識に覚醒したのだと私は思った。

三上秀人
「三島由紀夫の遺言 観世音」より

195:名無しさん@3周年
10/03/24 14:16:08 1XcRX/CH
…『一目で見抜く認識能力にかけては、幾多の失敗や蹉跌のあとに、本多の中で自得したものがあった。欲望を
抱かない限り、この目の透徹と燈明はあやまつことがなかった』(天人五衰)(中略)
三島は自分の奇跡待望の不可避とその不可能の自覚を、若いときは自分の文学的素養として芸術の領域で
捉えていて、仏教的な意味での仏性だとか悟性だとかいう風には捉えていない。或いは最後までそのスタンスは
変わらなかったかもしれない。(中略)
三島由紀夫が行っていた無我の認識とは、この阿頼耶識を認識することだ。(中略)
古来から悟りを開いた者は神通力を得ると言われている。(略)…阿頼耶識による無我の認識は、原理は単純だが、
或る意味そういった超能力に近いものだ。(略)…三島の表現力を神技に近いと評した評論家もいたようだ。
超能力とまでいかなくても、第一章でも記したように、その認識の正確さは燈明を極めていた。(中略)
無我の認識という正確な認識の方法を理解している三島由紀夫という存在は、私には途轍もなく重要に思えて
きたのだった。三島由紀夫が理解されれば、人間同士の完全な相互理解が可能になるからだ。

三上秀人
「三島由紀夫の遺言 観世音」より

196:名無しさん@3周年
10/03/24 14:16:33 1XcRX/CH
…三島由紀夫について研究していて、ひとつ不思議に思った事があった。なぜ三島が自分への理解を求める
方法として、小説という形を選んだのかということだ。彼はそこいらの哲学者や心理学者よりよほど頭が良く、
人間精神に精通していたから、自分を理解して欲しいなら、自分の認識の体系を分かりやすく論文のような形で
まとめて発表すればよかったのにと思った。なぜそうしなかったのか。実際に三島由紀夫について書いてみて
分かった。それは不可能だからだ。近代自我哲学や精神分析学は三島本人も言っているように、些か暴論で、
妄味を生み出している気がする。精神という性質を詩的幻想と規定することは出来ても、その精神が生み出す
幻想世界を分割したり、現実世界に対する精神の認識構造を解析することは不可能だ。(中略)
唯識的に言うと、欲望を捨てて第七識を超えたところにある阿頼耶識という存在の究極の片鱗を読み取った
ということになるだろうが、では、どのようにして読み取ったのかとなると、それ以上の詳しい説明は出来ない。
それ以上は、もう“ありのまま、ただ見た”としか言いようがない。

三上秀人
「三島由紀夫の遺言 観世音」より

197:名無しさん@3周年
10/03/24 14:16:57 1XcRX/CH
…プラトンのイデア論にしても、ニーチェのパースペクティブ主義にしても、デカルトの良識論にしても、
実念論にしても唯名論にしても、フーコーのエピステーメーにしても、フランシス・ベーコンが「ノーヴム・
オルガヌム」で言うイドラにしても、実存主義にしても、ライプニッツのモナドの概念にしても、そして
唯識さえも、認識に至るまでの経緯の仮定的な説明なのだ。(中略)
過程を明確に示す方法がないから結果から示すしかなかった。小説という物語の形を借りた方法で、自分が
認識した安永透という人間の自意識を正確に記すしか、つまり、感覚的に、自分の認識能力とその認識能力を
持っているということが何を意味しているのかを理解できる人間を探すしかなかったように、私には思える。
無我に至るまでのその過程を説明しなくても、天人五衰を読んだら分かる人間に向けて三島は天人五衰を書いている。

三上秀人
「三島由紀夫の遺言 観世音」より

198:名無しさん@3周年
10/03/24 14:20:56 1XcRX/CH
(中略)
三島由紀夫が天人五衰に書いているような、人間世界を裁定する漁師の目、それは神仏の目だ。無我による
正確な認識は、最終的に神の目に近づく。人間を監督し、その行いに応じて命運を決定する存在との視点の同一化。
それが一種の予言性を帯びてくる究極の認識であり、人間が最終的に至るべき境地なのだろう。そしてそれは、
いわゆる宿命通・天耳通・死生智にあたるのだろう。
『狐はすべて狐の道を歩いていた。漁師はその道の薮かげに身を潜めていれば、難なくつかまえることができた。
狐でありながら漁師の目を得、しかも捕まることが分かっていながら狐の道を歩いているのが、今の自分だと
本多は思った』(天人五衰)(中略)
精神という願望的幻想性を利用したこの現実の都合のいい変容を、人を化かす『狐』に例えているのである。

三上秀人
「三島由紀夫の遺言 観世音」より

199:名無しさん@3周年
10/03/24 14:21:16 1XcRX/CH
(中略)
そもそも彼のあの異常な明晰さは、人間の領域を遥かに超えている。彼は人間でありながら神仏の目を得、
しかも人間として生きたのだ。(略)…三島は晩年、生涯を通じてあれほど批判してきた太宰治と自分は
同じなんだと言ったそうだ。太宰がそうであったように、三島にも人間の世界が理解しがたかったのではないか。
理解できすぎたが故に。
その無意識。その認識の欠如。すべてが彼には奇妙に思えただろう。
三島にとって人間は、運命の自己表現のようなものだった。(中略)
三島は確かに誰よりも正確に物事を認識することができたわけだが、単純にその能力を喜んでいたわけでは
なかったようだ。(中略)
三島由紀夫は確かに稀に見る認識の天才で、完璧に近いほど人間存在、そしてその命運を裏側から管理している
神仏の神秘まで理解していた。しかし、求道者ではなかった。

三上秀人
「三島由紀夫の遺言 観世音」より

200:名無しさん@3周年
10/03/24 14:21:37 1XcRX/CH
三島は悟達に至ろうと思って悟達に至ったわけではない。セキュリティー・システムを打破するはずのハッカーが、
逆にセキュリティー・システムに詳しくなるように、犯罪を犯すはずの犯罪者が、逆に刑法に詳しくなるように、
あまりにも夢想的であったために、逆に真実に目覚めてしまったのだ。
そして三島はその欣求の欠如ゆえ完全なる悟りには至っていなかった。いや、至ろうとしなかった。(中略)
ここに三島由紀夫という人間の独自性がある。彼は悟りの構造を知っていながら詩を求め続け、仏教には帰依せず
天皇に帰依したのだ。奇跡は到来しないと理解してからも、つまり詩が現実ではないとはっきり理解してからも、
生来の気質から詩的椿事を待望し続けることをやめられず、また神仏に帰依する気もなかった三島由紀夫は、
自分の意志の不毛に気付いていた。紙の上の現実と実際の現実、その二種の現実のどちらもいつでも選べるという
自由が三島由紀夫という人間の意志だった。

三上秀人
「三島由紀夫の遺言 観世音」より

201:名無しさん@3周年
10/03/24 14:22:21 1XcRX/CH
(中略)
どんな奇跡への待望であれ、それが絶対に到来しないと分かっているなら、そしてそれでも猶、奇跡を待望し
続けるとするなら、いったい精神はどこへ向うのだろう。三島にとって至福と言うものが、少年時代に感じたように、
願望と現実の一致にあるなら、詩から覚醒した三島の唯一の至福は、自らが絶対的存在と融和することだった。
それが「憂国」であり、天人五衰の末尾において本多繁邦に語らせている『聖性』だった。(中略)
ああいう最期を遂げたことには、批判的な意見の方が多かったようだが、バルコニーに立って演説する三島の
姿を見るたびに、私は何か心を動かされる。別に憲法を改正して自衛隊を国軍にして欲しいわけではないけれど、
命を賭けて訴えるその姿に素晴らしい何かを見るのは確かだ。(中略)
天人五衰における本多の涅槃への到達の仕方は、一見したところ幸福からは遠く、それはまるで神への挑戦のようだ。
恒久平和の不可能を自明のものとして死んでいった彼の存在が、実は精神という幻想を打ち破り、人間の相互
理解を可能にする唯一の鍵だったというのはなんと皮肉だろう。

三上秀人
「三島由紀夫の遺言 観世音」より

202:名無しさん@3周年
10/03/24 14:22:48 1XcRX/CH
(中略)
私には三島由紀夫が、自分がロボットだと気付いてしまったロボットのように思えてしまう時がある。自分の
内部構造、背負わされた宿命、世界の実相……、その仕組みを、それを創造した者と同じくらい完全に
理解できる能力を持っていた三島由紀夫は、結局、自分が何者であるかを知ってしまった。三島由紀夫は自分が
【人間】であることを理解してしまったのだ。
精神の奇跡待望の不可避とその不可能の自覚という性質。告白は不可能であり、真の自己は規定し得ないということ。
人間は自由意志を持ってはいないということ。見えない誰かに何かを強いられて生きているということ。
人間であるということそれ自体がひとつの罠にかかってしまっているということ。そして、自分が誰からも
理解されてはいないということ……。

三上秀人
「三島由紀夫の遺言 観世音」より

203:名無しさん@3周年
10/03/24 14:24:01 1XcRX/CH
世界についても理解した。
それは涅槃の文学である三島文学の最終的な主題「奇跡自体よりもふしぎな不思議」だ。
即ち古代存在論にはじまり、中世スコラ哲学へと続き、デカルトやウィトゲンシュタイン、ライプニッツらも
問うた『神秘的なのは、世界が如何にあるかではなく世界があるということ』という命題。数多くの哲学者が
求めたこの命題に対する三島由紀夫の答えは、「仮面の告白」における素面の不在と同じように、世界存在
そのものの実体の不在だった。
『「海と夕焼け」は、奇跡の到来を信じながらそれがこなかったという不思議、いや、奇跡自体よりもさらに
ふしぎな不思議という主題を凝縮して示そうと思ったものである。この主題はおそらく私の一生を貫く主題に
なるものだ』(花ざかりの森・憂国 あとがき)
…つまり、世界が存在しているということ自体が奇跡よりもふしぎなことなのであって、それは唯識論哲学に
おける存在の実体の無さ、一切諸法がただに『識』に帰すという思想によって表されている。
『本多は夢の生に対する優位を認識した』(天人五衰)

三上秀人
「三島由紀夫の遺言 観世音」より

204:名無しさん@3周年
10/03/25 00:46:48 gvCEqEHx
 わいせつ事件の示談金などを名目とした振り込め詐欺事件で、組織犯罪処罰法違反(組織的詐欺)など
に問われた詐欺グループの主犯格で、グループ内で「キング」と呼ばれていた無職戸田雅樹被告(31)の
判決が24日、東京地裁であった。
 菱田泰信裁判長は「被告は詐欺の手口ごとにグループを分けて収益を競わせるなど集団を高度に組織
化し、主宰者として職業的に犯行を繰り返していた」と述べ、懲役20年(求刑・懲役23年)を言い渡した。
 判決によると、戸田被告は他のメンバーと共謀、2006年5月~07年8月、東京都や埼玉、岡山県など
に住む39人に対し、「息子さんが教職員をしている学校の教頭だが、息子さんが生徒にわいせつな行為
をした」などとうそを言い、示談金などの名目で計約1億4690万円をだまし取るなどした。
 この事件では、ほかに20人が起訴され、19人が1審で実刑判決を受けている。示談金やアダルトサイト
の利用料金など、手口ごとに実行グループを分けて収益を競わせていた。

三上秀人
「三島由紀夫の遺言 観世音」より

205:名無しさん@3周年
10/03/25 11:11:00 UPzrzyVF
三島由紀夫のツイッター
スレリンク(cafe30板)

206:名無しさん@3周年
10/03/27 10:41:21 o7n1RA1E
江藤淳は三島の自決は彼に早い老年が来たか、さもなければ病気じゃないかと言いましたが、トルストイの死に
「細君のヒステリイ」を見て悦に入る自然主義作家のリアリズム、いかにも分かったような、人生の真相は
たかだかこんなものという「思想の型」によく似ているといってよいでしょう。
そういえば三島事件後、俗耳に入り易い江藤流の原因説が数限りなく出ました。(中略)
私はいっさい関心を持ちませんでした。「細君のヒステリイ」に原因を求めて安心する現代知識人に特有の気質に
いちいち付き合っている気にはなれなかったからです。(中略)
江藤さんは抽象的煩悶などにまったく無縁な人でした。生活実感を尊重する自然主義以来の文壇的リアリズムに
どっぷり浸っていた人でした。
三島の悲劇は分からない人には分からないのです。縁なき衆生には縁なきことが世にはままあります。

西尾幹二
「三島由紀夫の死と私」より

207:名無しさん@3周年
10/03/27 10:41:56 o7n1RA1E
小林秀雄の「文学者の思想と実生活」の結びに近い個所に次のような言葉があります。
「思想の力は、現在あるものを、それが実生活であれ、理論であれ、ともかく現在在るものを超克し、これに
離別しようとするところにある」
その通りだと思います。「思想の力」は理想と言い替えてもよいでしょう。私は次にみる同文の結語を読んで、
昭和十一年にこれを書いた小林秀雄がさながら三島の自決を予見していたかのごとき思いにさえ襲われたほどです。
「エンペドクレスは、永年の思索の結果、肉体は滅びても精神は滅びないといふ結論に到達し、噴火口に身を
投じた。狂人の愚行と笑へるほどしつかりした生き物は残念ながら僕等人類の仲間にはゐないのである」
一九七〇年代の半ば頃に、私はギリシア哲学者の故齋藤忍随氏にお目にかかる機会がたびたびありました。
三島事件は氏の関心事で、開口一番、三島はエンペドクレスですね、と言いました。エトナの噴火口に身を
投じたこの古代の哲人は、ヘルダーリンが歌い、ニーチェが劇詩に仕立てた相手です。
歴史の中には「狂人の愚行」としか思えない完璧なまでの正気の行動があるのです。

西尾幹二
「三島由紀夫の死と私」より

208:名無しさん@3周年
10/03/27 23:20:06 C+waxYu2
普段は大谷先生の総論・各論を使用しています。
感想ですが、刑法を一通り勉強し終えた人が短時間で総復習するために利用するには、非常に有益だと思います。
信頼できる学者の本で、ここまでコンパクトにまとめてあるものは珍しいのではないでしょうか。私は知識を確認する
のに、本書が大いに役立ちました。満足のいく内容でした。
ただ、コンパクトにまとめてあると言っても、レベルは決して低くありません。初学者の方がいきなり本書を読んでもお
そらく難しいと感じるのではないかと思いました(刑法という学問自体が初学者にとって難しい分野ではあるのですが…)。
まあ、でも初学者の方がいきなり2分冊の本格的な基本書に取り組むよりは、本書でまず全体像を把握するのもアリ
かなと思います。

西尾幹二
「三島由紀夫の死と私」より

209:名無しさん@3周年
10/03/28 21:42:01 /xtchDQx
このコピペしまくってる基地外は、自分が荒らしでしかないということに気づかないのだろうか。。

210:名無しさん@3周年
10/03/28 22:54:19 0T7Q+Q+B
最後の試験も済み、学生生活が実質的になにもかも終わった夏休みのある晩であった。
…何かの拍子に三島は「アメリカって癪だなあ、君本当に憎らしいね」と心の底から繰り返しいった。
そしてかのレースのカーテンを指さし「もしあそこにアメリカ兵が隠れていたら、竹槍で突き殺してやる」
と銃剣術の動作をして真剣にいった。
当時の彼は学術優秀であり、品行も方正であったが、教練武術の方はまるで駄目であった。
…そういう彼が竹槍で云々といった時、彼には悪いが、突くといっても逆にやられるだろうがとひそかに思った。
けれども、彼のその気迫の烈しさには本当に胸を突かれた。
彼は当時、日本の、ことに雅やかな王朝文化に心酔していた(当時といわず、或は生涯そうであったかもしれぬ)。
そしてその意味で敬虔な尊皇家であった。

三谷信
「級友 三島由紀夫」より

211:名無しさん@3周年
10/03/28 22:54:38 0T7Q+Q+B
今、卒業式の時の彼を思い出す。
戦前の学習院の卒業式には、何年かに一度陛下が御臨幸になった。我々の卒業式の時もそうであった。
全員息づまる様に緊張し静まる中で式は進み、やがて教官が「文科総代 平岡公威」と彼の名を呼びあげた。
彼は我等卒業式一同と共にスッと起立し、落ち着いた足どりで恭々しく陛下の御前に出て行った。
彼が小柄なことなど微塵も感じさせなかった。瞳涼しく進み出て、拝し、退く。その動きは真に堂堂としていた。
心ひきしまり、すがすがしい動作であった。あの時は彼の人生の一つの頂点であったろう。
そういう彼ゆえ、古来の日本の心を壊そうとするものを心の底から許さなかった。

三谷信
「級友 三島由紀夫」より

212:名無しさん@3周年
10/03/28 22:54:58 0T7Q+Q+B
彼の感性は非凡なだけでなく時に大変ユニークで、常人の追随しかねる点があったけれども、人間としての
器量は大きかった。思えば、不良少年の親分を夢みるだけのことはあった。
…初等科六年の時のことである。元気一杯で悪戯ばかりしている仲間が、三島に
「おいアオジロ―彼の綽名―お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」と揶揄った。
三島はサッとズボンの前ボタンをあけて一物を取り出し、
「おい、見ろ見ろ」とその悪戯坊主に迫った。それは、揶揄った側がたじろく程の迫力であった。
また濃紺の制服のズボンをバックにした一物は、その頃の彼の貧弱な体に比べて意外と大きかった。

三谷信
「級友 三島由紀夫」より

213:名無しさん@3周年
10/03/28 22:55:18 0T7Q+Q+B
初等科一年の時、休み時間になると、半ズボン姿の我々は、籠から放たれた小鳥の様に夢中で騒ぎ回った。
…そういう餓鬼どもの中で、三島は「フクロウ、貴方は森の女王です」という作文を書いた。
彼は意識が始まった時から、すでに恐ろしい孤独の中に否応なしに閉じこもり、覚めていた。
…彼は幼時、友達に、自分の生まれた日のことを覚えていると語った。彼はそのことを確信していた。
そしておそらく、外にもその記憶をもつ人が何人かあると素直に考えていたのであろう。

三谷信
「級友 三島由紀夫」より

214:名無しさん@3周年
10/03/28 22:55:37 0T7Q+Q+B
初等科に入って間もない頃、つまり新しく友人になった者同士が互いにまだ珍しかった頃、ある級友が
「平岡さんは自分の産まれた時のことを覚えているんだって!」と告げた。その友人と私が驚き合っているとは
知らずに、彼が横を走り抜けた。春陽をあびて駆け抜けた小柄な彼の後ろ姿を覚えている。
あの時も、すでに彼はそれなりに成熟していたのであろう。彼と周囲との断絶、これは象徴的であり、悲劇的である。
三島は生涯の始めから、終始悲劇的に完成した孤独の日々を送ったと思う。

三谷信
「級友 三島由紀夫」より

215:名無しさん@3周年
10/03/28 23:00:29 0T7Q+Q+B
高等科上級生の時のことである。
戦争中で銃剣術の時間のことだった。体格の大きい銃剣術が強い友人と、彼とが試合をさせられた。
教官がどうしてそういうアンバランスな試合をさせたのか解らない。しかし平岡に対する意地悪からでは無いと思う。
さて華奢で軟体動物のようにクネクネした動作の平岡は、当然ジタバタと苦戦していたが、そのうちにヒョイと
勝ってしまった。相手の心臓のところを確かに突いたのである。皆は驚き笑いながら、見物の輪をといた。
彼はその時までに何度か壁にぶつかり、それを切り開いてきた人らしく、困惑しつつも、冷静であったので勝ったのだろう。

三谷信
「級友 三島由紀夫」より

216:名無しさん@3周年
10/03/28 23:00:50 0T7Q+Q+B
中等科か高等科の英語の授業の時、老教師が「日本には叙事詩は無かった」といった。
平岡は、「平家物語などがあるじゃありませんか」といった。
これは日本の古典に通じぬ英語教師の弱味を突いたらしく、彼は感情的になって平岡を、おさえつけた。
休み時間になり、平岡は憤慨していた。

三谷信
「級友 三島由紀夫」より

217:名無しさん@3周年
10/03/28 23:01:23 0T7Q+Q+B
天皇が人間宣言をなさり、背広姿の御写真が新聞に掲載された時、彼は非常な不満、むしろ忿懣を抱いていた。
なぜ衣冠束帯の御写真にしないのかというのである。
又、焼跡だらけのハチ公前の広場を一緒に歩いていた時、彼は天皇制攻撃のジャーナリズムを心底から怒り、
“ああいうことは結局のところ世に受け入れられるはずが無い”と断言した。
そういう彼の言葉には理屈抜きの烈しさがあった。だから、彼は自分が敗戦後、日本の伝統から離れて楽しむうちに、
混乱の方が、いつか多数派になったのに驚いたのではないか。
美酒の瓶が倒れたように、日本の美質がどんどん流失しているのに気付き慄然としたのではないか。

三谷信
「級友 三島由紀夫」より

218:名無しさん@3周年
10/03/28 23:01:45 0T7Q+Q+B
彼は、敗戦で束縛から解放された時まっしぐらに芸術の世界へ突進した。
…しかしその世界から出てみると、日本はすでに大きく伝統から離れていた。
彼にとり、日本の伝統は荒涼としたものになりかけていた。
彼が自分の好きな国々を思いきり歩いて故郷に戻って来た時、心の拠り処の日本の古典は滅びかけていた。
…彼が戦争直後、学習院を訪ねて校庭を歩いていたら、某教官に呼びとめられ、
「これからは共産主義の勉強をするのも面白かろう」といわれたといって、しきりに憤慨していた。
「何で今頃するのか、戦争中にやるのなら解るが」というのである。この先取りの心、少数派に身をおく
積極さ、これが晩年彼の日本についての心痛を一層深くし、嘆きを重くしたのであろう。
又、この予感、この嘆きこそ芸術家のものであろう。

三谷信
「級友 三島由紀夫」より

219:名無しさん@3周年
10/03/28 23:02:06 0T7Q+Q+B
彼は一時の思いつきで死んだのではない。
おそらく三十年、あるいはそれ以上、死を自分のすぐ背後に感じ続けて生きたと思う。死を背負い続けたと思う。
…彼が死なねばならぬとはっきり考え始めたのはいつか。東大紛争時における日本の文化的指導者(体制側だけでなく、
学生騒動に便乗して売名を図った人々まで含めて)の醜さを痛感したからではないか。
…勿論ずっと以前から、日本の崩れてゆくのを、彼はじっと忍耐しながら見ていたのであろうが、殊にあの事件の時に
絶望的な暗黒をつくづく見たのではないか。

三谷信
「級友 三島由紀夫」より

220:名無しさん@3周年
10/03/28 23:02:36 Nfc87e7s
中国製冷凍ギョーザ中毒事件で、製造元「天洋食品」の元臨時従業員が逮捕された中国河北省石家荘市
の地元メディアが、当局から、独自取材を禁じられ、国営新華社通信の配信記事だけを使うよう通達を受
けていたことがわかった。関係筋が27日、明らかにした。北京でも一部紙が小さく新華社配信記事を掲載
しただけで、同様の指示が出ていたとの見方が強い。

胡錦濤政権は、中国人が逮捕されたことにより、インターネットで政府批判や反日機運が盛り上がるのを
強く警戒しており、全国規模で厳しい情報統制を敷いたとみられる。

関係筋によると、石家荘市の地元各紙やテレビに通達が出されたのは、容疑者逮捕の新華社報道直後に
あたる26日深夜から27日未明。

同筋は「だれも取材をしていないので、地元では何も分からない。政治的に敏感な問題で、当局が非常に
気を使っているようだ」と述べた。

三谷信
「級友 三島由紀夫」より

221:名無しさん@3周年
10/03/28 23:04:28 0T7Q+Q+B
>>219続き
鋭敏な彼は、日本、否日本人の心の荒廃をまざまざと観たのであろう。
この闇に一瞬なりとも光を放ち得るものがあるとすれば、それは自分の命の提供しか無いと観たのであろう。
彼はそれだけ自分の才能が稀有なものであり、又自分がそれを十分に開花させたのを知っていたのであろう。
だから、自分の死の持つ力を考えたのであろう。当面は罵詈雑言が自分の自殺を覆うであろう、しかしなお、
自分の名声と才能を死なすことによる衝撃に、多少の自信はあったろう。

三谷信
「級友 三島由紀夫」より

222:名無しさん@3周年
10/03/28 23:04:55 0T7Q+Q+B
彼は無限の敵、即ち日本文化、いや日本を腐敗させつつあるものへ、自分の命、絶対の価値ある自分の命を投げつけた。
彼は敵に向い最後迄断然逃げなかった。
…彼は自分の愛するもの(これには自分の家族も入る)に、自分の最上のものを捧げたかった。
それは自分の命、これである。
…世人は彼の死を嘲笑した。これは彼の敵の正体を、世人が未だ理解していない時に死んだからか?
多くの人、中には名声にあっては一流人が、まるで見当違いのことをいって、彼の死を手軽に料理している。
しかしいつでも彼の死は早すぎるのだろう。“死”は誰でも逃げたいものだから。

三谷信
「級友 三島由紀夫」より

223:名無しさん@3周年
10/03/28 23:05:22 0T7Q+Q+B
彼は稀なる作家、思想家、そして文化人であった。
自分の思想のために、生涯の頂点で、世人の軽蔑は覚悟の上で死ねる者が何人居るか。
彼と思想を異にするのは全く自由であるが、嘲笑するには先ず自分の考えに殉じて死ねる者でなければなるまい。
なぜなら、彼の死は冷静な死であったから。
…彼は少年時代に戻って死んだ。少年時代、彼は日本文化に殉ずる心で生きて居た。その心で死んだ。
純粋という点では、学習院高等科学生の頃の姿で死んだ。
所詮作家からはみ出した男、言葉で適当に金を儲けることを、出来るがやらぬ男であった。

三谷信
「級友 三島由紀夫」より

224:名無しさん@3周年
10/03/29 01:03:13 50jNQxD3
必死にコピペ繰り返してるところ恐縮なのだが、

そんなね~、大層なもんじゃないでしょw
ここまで買いかぶると、逆に皮肉ってるのかと思っちゃうよー
あなた、実はアンチじゃね?

225:名無しさん@3周年
10/03/29 22:00:58 /hemA08c
日本各地の動物園で飼育されているが、寒さに弱く、冬場は展示していない動物園もある(例:旭山動物園)。
最も個体数が多い動物園は長崎バイオパークで、年によって変わるが、約30個体以上が飼育されている。バ
イオパークは実質的に放し飼い状態になっており、カピバラに直接触れることができる。市原ぞうの国でも直
接触れることが出来る方式を導入した。変わったところでは、伊豆シャボテン公園やこども動物自然公園で飼
育されているカピバラで、冬場は温泉に入る姿を観察することができる。また、バイオパークには温泉だけで
なく打たせ湯もある。 また、秋篠宮文仁親王が自宅でマーラやワニガメなどと一緒に飼育している。 また、熊
本の阿蘇にあるカドリードミニオン(旧称:阿蘇くま牧場)でも、飼育されており、通常檻の中に居るが、天気の
良い日は園内に放し飼いされていることがあり、直接触れることができるときもある。大阪の海遊館でも見るこ
とが出来る。

三谷信
「級友 三島由紀夫」より

226:名無しさん@3周年
10/03/29 22:17:25 9M2It6AJ
事件の翌日から、あらゆるメディアはあなたの行動を醜聞として描くことに情熱を傾けることになりました。
…TVでは「右翼評論家」なる人物が高説を垂れ、政治家たちは狂気の沙汰だとあなたを批判していました。
日本共産党はファシズムに対する警戒を説き、新左翼の学生たちは唖然として言葉を喪失していたように思えます。
わたしにはそうした政治的発言のいっさいが愚劣に思えていました。わたしは書店に行って、そのとき第三巻まで
刊行されていた『豊饒の海』の連作を買い求め、十日間ほどで一気に読み終わりました。しばらくして最終巻の
『天人五衰』が刊行されると、これも勢いに任せて読破しました。(中略)
わたしはここに仕掛けられた巨大なアイロニーに眼が眩む気持ちを抱きました。と同時に、自分の死後に遺された
者たちはすべからくこのアイロニーを生きるべしという、あなたの呪いめいた遺言に、さて、その呪いを
どのように受け取り、自分の文脈のなかで理解してゆくことにしようかと、呆然たる気持ちを抱いていました。

四方田犬彦
「時間に楔を打ち込んだ男」より

227:名無しさん@3周年
10/03/29 22:18:00 9M2It6AJ
今から考えてみると、「豊饒の海」が最後に突入していったのは、物事のすべてが「存在の耐えられない軽さ」を生き、
ノスタルジア(懐旧)とパスティッシュ(模倣)の原理のもとに操作されてゆく、ポストモダンの薄明のこと
だったような気がしています。わたしが大学生活を送った一九七〇年代は、十年間を通して、あなたの名前が
忌避され、排除されてきた時代でした。大学院の研究室でも、同級生どうしの会合でも、あなたの死のみならず、
その作品について言及することは場違いであり、できればあなたのような文学者が戦後日本に存在して
いなかったかのように振舞うのが、暗黙の了解であるような日々が続いていました。日本のポストモダン社会は、
三島由紀夫の不在によって、安心して自己実現を達成したのです。七〇年代と八〇年代を代表するイデオローグであった
山口昌男と蓮見重彦を考えてみたとき、それは明らかとなるでしょう。

四方田犬彦
「時間に楔を打ち込んだ男」より

228:名無しさん@3周年
10/03/29 22:18:47 9M2It6AJ
山口はあなたが悲劇的なもの、崇高なものに魅惑されていたのとは対照的に、それらから意図的に距離を置き、
喜劇的なもの、道化的なものに焦点を当てました。そしてすべての知識が位階制度を超えて並置される地平を、
ユートピア的に実現しようと企てました。
一方の蓮見は、あなたと同じ学習院に学び、皇族と人脈的な関係をもつことにきわめて野心的な人物でしたが、
一貫してあなたを嫌っていることを公言していました。もっとも事物の表層を好むというニーチェ伝来の哲学を
喧伝するという点で、彼はあなたの屈折した後継者であったといえなくもありません。
あなたの全集が再び編集され、刊行されていなかった日記や書簡が公にされたり、…あなたの行動の全体が
次の世代によって再検討の対象となるようになったのは、二〇〇〇年代に入り、先の二人の知的扇動家の影響が
消え去ったことと、軌を一にしているのは、けっして偶然ではありません。

四方田犬彦
「時間に楔を打ち込んだ男」より

229:名無しさん@3周年
10/03/29 22:19:27 9M2It6AJ
(中略)三島さん、裕仁はあなたよりも十八年と二ヶ月ほど生き延びて、一九八九年に身罷りました。
彼が支配していた昭和という時代は、六十四年をもって終了しました。けれどもすでにそれ以前から、誰もがもはや
(公文書ででもないかぎり)昭和という年号などもはや存在していなくなったかのように振る舞っていました。
なるほど昭和も三十年代、四十年代までは、それなりに口にされると実感めいたものが浮かび上がってきました。
けれども昭和五十年代というのは、たとえその表現に過ちがないとしても、もはやいかなるイメージをも人々に
喚起しなくなっていました。ましてや短かった昭和六十年代など、そう書き記してみたところで、どのような
イメージも浮きあがってくるわけではありません。それは一九七〇年代、一九八〇年代という表現がいかにも
人口に膾炙しているのと、好対照です。わたしは、こうした年号の喚起力の衰退の原因のひとつは、三島さん、
あなたの割腹自殺にあったのではないかと睨んでいます。あなたは生命を賭けることで、裕仁の時間支配に
修復しようのない楔を打ち込もうとしたのではないでしょうか。

四方田犬彦
「時間に楔を打ち込んだ男」より

230:名無しさん@3周年
10/03/29 22:20:07 9M2It6AJ
わたしには、一九七〇年十一月二十五日にあなたが日本人の一人ひとりに死を送り届けることで、これまで
暗黙のうちに日本を支配していた時間の神学的秩序に、凶悪にして不吉な楔を打ち込んだような気がしてなりません。
思い出してみれば、わたしの世代は機会あるたびに、あなたが割腹をしてもう何年が経過したとか、何十年が
経過したと口にしながら、時間をやり過ごしてきたのです。死の御降臨。死の分節。
あなたによって考案された禍々しい暦が、日本の時間秩序を攪乱し、神聖なる時間の起源を禍々しい紛い物へと
摩り替えてしまうことを可能にしたのだと、わたしは考えています。
(中略)親愛なる三島さん、わたしたちはいまだにあなたの影のもとに生きています。もしあなたが今生きて
いらしたとしたら、このような年少者たちを前に、また高笑いをされるかもしれません。その姿が目に浮かびます。

四方田犬彦
「時間に楔を打ち込んだ男」より

231:名無しさん@3周年
10/03/31 22:20:50 sVZfeSz+
 ヒトラーのナチズムに隠された動機とは、・・・古代から引き継がれるキリストを刺した槍に宿る
〈悪魔〉であり、その秘密の力を獲得することである。
 あの時、ヒトラーを通してヨーロッパに働き掛ける古代以来の〈悪魔〉の力を予防し、抑止するこ
とは果たしてできただろうか?どの段階かではできたが、どの段階かからは不可能であっただろ
う。亡命すべからざればただただ死しかなかったと私には思われる。著者はドイツに帰化したヒュ
ーストン・スチュアート・チェンバレンなる人物について「悪魔に追われた男」として、〈悪魔〉は「い
つ、どこで彼の魂に取り憑くのか知らなかった・・・チェンバレンを常に監視していた防衛軍の情報
員らは、彼が目に見えぬ悪魔から逃げ出すさまを見たとすら報告している!」(175頁)と驚愕とと
もに書いている。著者は単純な反ナチではなく、〈悪魔〉を看破しようとしているのである。これほど
に〈悪魔〉を実体あるものとして現実の政治史的問題を凝視しつつ描ききった著作を私は知らない
が、その著者をしてこうまで表現しているということだ。

四方田犬彦
「時間に楔を打ち込んだ男」より

232:名無しさん@3周年
10/03/31 23:43:11 id6jCjG7
私はこの三年にわたって折にふれ三島とあってきたが、私がいつも感じたのは、彼は現存の日本人のうちでは
最も重要な人物だったということだ。当然のことながら、私には彼がその生涯の終わりにどのようなコースを
たどるかについては想像もつかなかったが、たとえその範囲は限られたものであるにせよ、彼はその
ダイナミズムと懐疑主義と好奇心によって日本の歴史に永久にその名をとどめる地位を占めるにちがいないと
確信していた。(中略)
三島の行動は、今日の日本の右翼の大物たち―その名前をあげる必要はあるまい―を、道化役者のように
見えるようにした。私と議論した一部の人々は、三島はその行動によって、笑止千万なピエロの役割を演ずる
ことになったと主張した。これに対し私は三島はピエロどころか、逆に他の人々をピエロとして浮かびあがらせた
―つまり、彼等をつまらない行動によって、金をもらいたがったりするようなピエロに仕立てあげたのだといいたい。

ヘンリー・S・ストークス
「ミシマは偉大だったか」より

233:名無しさん@3周年
10/03/31 23:43:42 id6jCjG7
三島を高く評価したい私の次の理由は、私の見るところでは、彼は日本の政治論争にこれまで見られなかった
深みをつけ加えた点である。(略)…三島を「右翼の国家主義者」といった言葉で片づけることはできない。
三島は「右翼」とか「国家主義者」とかいったレッテルを貼った箱に、絶対におさめることのできない人物である。
彼の思想の広さといい深さといい、そうした単純な分類に入れることを許さない。
三島が何をいわんとしていたか、それを一言にして説明するには、何か新しい言葉を見つけださなければなるまい。
三島について注目すべき理由はほかにもある。彼は今日の政治論争のすべてを公開の席に持ちだした―(略)
…これらの問題については、自民党の幹部たちは私的な場所でのみしばしばその意見を表明してきたのである。
しかるに三島は敢然として、政治家たちがこれまでおっかなびっくりで、私的な場所だけで取りあげてきた
政策論争を、公けの席に持ちだした。職業政治家になぜこれができなかったのであろうか。

ヘンリー・S・ストークス
「ミシマは偉大だったか」より

234:名無しさん@3周年
10/03/31 23:45:13 id6jCjG7
…三島を西洋に「説明」できるだけの資格を持つ西洋の学者は、ほんの一にぎりしかいない。しかもこれらの
学者たちでさえ、今までのところでは、三島をもっぱら文学者としてだけ扱い、彼の政治活動は重視していない
ようだ。私はそれはあやまっていると考えるし、三島自身がなくなる二週間前に、これらの学者について語った
言葉から推察すると、こうしたあやまりは彼自身予想していたようだ。彼は英語でこう言っていた。
「あの人たちは日本の文化の中のやさしいもの、美しいものばかりを取りあげる」したがって外国の批評家に
限っていえば、三島が全く誤解されてしまう可能性はきわめて大きい。この国の政情の非現実性―国防の
問題をトランプ遊びかポーカーの勝負をやっているかのように議論する国である―を、認識できる人は
ほとんどあるまい。(略)…外国人は日本で自由な選挙が行なわれ、それに過剰気味なくらいおびただしい
世論調査と言論の自由があるという事実こそが、日本に民主主義のあることを物語っていると頭から信じこんで
いる。三島は日本における基本的な政治論争に現実性が欠けていること、ならびに日本の民主主義原則の
特殊性について、注意を喚起したのである。
ヘンリー・S・ストークス
「ミシマは偉大だったか」より

235:名無しさん@3周年
10/04/02 00:31:03 KUyJthmj
 ここへ来た時第一番に氷水を奢ったのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、
おれの顔に関わる。おれはたった一杯しか飲まなかったから一銭五厘しか払わしちゃない。しかし一銭だ
ろうが五厘だろうが、詐欺師の恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。あした学校へ行ったら、一銭五
厘返しておこう。おれは清から三円借りている。その三円は五年経った今日までまだ返さない。返せない
んじゃない。返さないんだ。清は今に返すだろうなどと、かりそめにもおれの懐中をあてにしてはいない。
おれも今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。こっちがこんな心配をすればするほど清
の心を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちを付けると同じ事になる。返さないのは清を踏みつけるの
じゃない、清をおれの片破れと思うからだ。

ヘンリー・S・ストークス
「ミシマは偉大だったか」より

236:名無しさん@3周年
10/04/04 22:32:07 89Ss7qpn
日本は、外国から一人前の国家として扱われていない。国家も、人間も、その威が行われていることで、
はじめて国家であったり、人間であったりするのであって、何の交渉においても、外国から、既に、尊敬ある
扱いをうけていない日本は、存在していないのと同じである。そんな国の下で平和を歎び、春夏秋冬口に入る
果物、野菜を讃へ、牛肉、鶏、(それらはすべて、体の中に蓄積されれば死の危険のある物質を含んでいる)を、
巴里の料理人を雇って来て料理させているレストランで会食して、得々としている、滑稽な日本人の状態を、
悲憤する人間と、そんな状態を、鈍い神経で受けとめ、長閑な笑いを浮べている人間と、どっちが狂気か?
このごろの日本の状態に平然としていられる神経を、普通の人間の神経であるとは、私には考えられない。
議会の討論を聴いても、新聞を読んでも、私には日本の政府が暗愚だ、というよりも、狂気しているとしか
思われない。
私が三島由紀夫の怒りを見て、子供以上の純粋に感動したのは当然である。

森茉莉
「気ちがいはどっち?」より

237:名無しさん@3周年
10/04/04 22:32:34 89Ss7qpn
岡潔:三島由紀夫は偉い人だと思います。日本の現状が非常に心配だとみたのも当たっているし、天皇制が
大事だと思ったのも正しいし、それに割腹自殺ということは勇気がなければ出来ないことだし、それをやって
みせているし、本当に偉い人だと思います。

Q(編集部):百年逆戻りした思想だと言う人もありますが、それは全然当たっていないと言われるのですか?

岡潔:間違ってるんですね。西洋かぶれして。戦後、とくに間違っている。個人主義、民主主義、それも
間違った個人主義、民主主義なんかを、不滅の真理かのように思いこんでしまっている。
ジャーナリストなんかにそんな人が多いですね。若い人には、割合、感銘を与えているようです。
かなり影響はあったと思います

岡潔「蘆牙」より

238:名無しさん@3周年
10/04/05 00:40:03 lqT/ZUYX
一般的に考えられている日本三島の由紀夫イメージを根本から変えてくれる三島だと思います。
日本人に欠けている三島の由紀夫トレーニングに関して、他に類を見ない大系づけられた三島。由紀夫を正せば三島も通じ、三島も向上するということを実感した。
学会での研究発表の後は拍手がおこるだけだったが、三島メソードで由紀夫を勉強してからは研究発表の後で質問攻めにあう。今迄の三島が通じてなかったのが良く解った。
これは三島由紀夫教授法の革命だ。私はこういうのを捜していたんです。
これは奇跡の三島だ。同僚の日本人医師達に三島が通じるようになった。私の感動は言葉や文字で言い表せない。
こんなに体系づけらた三島の由紀夫の三島はない。どんな三島学校で10年、20年勉強してもこの本と三島にはかなわない。
着眼がすごい。あっと驚いた。日本に10年20年住んでもできない三島の由紀夫をこの三島は簡単に由紀夫させてしまう。微妙な動きが良く解りこの方法だったら誰にでも由紀夫できる。

酒井法子
「私と三島由紀夫」より

239:名無しさん@3周年
10/04/08 12:12:05 cMfiH85I
三島由紀夫君と森田必勝君のことを思うと、思いうかべるのは、やっぱり満開の時を待つことなく自ら散った
桜の花であります。これを総理大臣は「狂気の沙汰」と呼び、防衛庁長官は「せっかく育った民主主義にとって
迷惑千万だ」と言った。おとなしい日本国民も、この軽率な発言にはびっくりしました。「狂気の沙汰」は
まさに彼らの発言の方でありましょう。事件の意味を深く考えることなく、即座にこんな軽率な言をはくのは、
少なくとも「正気の沙汰」ではありません。あるイギリス記者は目を泣きはらして、村松剛君に言ったそうです。
「この事件で三島を弁護した政治家はなぜ一人もいなかったのか。こんどほど、三島由紀夫が偉大に見え、
日本の政治家が矮小に見えたことはない」
そのとおりでありましょう。
作家としての三島君の姿は、私どもの目には、まさに花盛りの桜でありました。だが、彼自身の目は文学者の
魂を通して日本の現状と未来に向けられていました。

林房雄「弔辞」より

240:名無しさん@3周年
10/04/08 12:12:46 cMfiH85I
…いつわりの平和と繁栄―平和憲法、経済大国、福祉社会、非武装中立という、政府と与党、野党と
俗流ジャーナリズム合作の四つの大嘘の上にあぐらをかきつつ、破滅の淵に向って大きな地すべりを始めている
日本の実状を敏感に予感し、予見して、この十年間あまり、絶えず怒り憂いつづけてきたのであります。彼は
私との対話「日本人論」の冒頭に、この怒りと憂いを告白しております。また、「政治家というものは詩人や
文学者が予見したことを、十年ほどすぎてやっと気がつく」とも言っております。(中略)
明日にでも“政治的連鎖反応”が起るというのではありません。これは精神と魂の問題であります。三島君と
その青年同志の諌死は、「平和憲法」と「経済大国」という大嘘の上にあぐらをかき、この美しい―美しく
あるべき日本という国を、「エコノミック・アニマル」と「フリー・ライダー」(只乗り屋)の醜悪な巣窟に
して、破滅の淵への地すべりを起させている「精神的老人たち」の惰眠をさまし、日本の地すべりそのものを
くいとめる最初で最後の、貴重で有効な人柱である、と確信しております。

林房雄「弔辞」より

241:名無しさん@3周年
10/04/08 14:43:38 3vDz0B/p
晩年に三島は「林さんはもうダメだ。右翼と左翼の両方からカネを貰っちゃった」と失望の色を隠さなかった。

242:名無しさん@3周年
10/04/08 23:06:09 cMfiH85I
>>241
それは本当にそう言ったかどうかは、三島死後の他人の発言だから厳密にいえば真偽は不明です。

243:名無しさん@3周年
10/04/09 00:22:01 v5KgrImC
三島を読むとその由紀夫にどっぷり浸かることがあります。
そんな時は三島が由紀夫視点でいるとか、どの森田に必勝移入してるとかそういったものじゃなく
必勝が必勝として、どんな立ち回りという訳でもなくその三島に参加している気分になります。
森田が三島視点のように描かれているけれど、彼すら必勝の友人で、ほんの数百ページの間賑やかな由紀夫生活を送らせてもらいました。

どっぷり浸かった三島はしばしば森田感をもたらします。
好きだった森田が書いていってしまう時です。
三島、森田さん、由紀夫、今まで必勝の人が書いていきました。
もう一度三島を読み返せば由紀夫に会えるけれど、必勝の中では由紀夫はもう書いていってしまったもので森田感は書けるものではありません。

林房雄「弔辞」より

244:名無しさん@3周年
10/04/09 22:54:49 5CACHawb
三島こそが本当の右翼だろ


在日特権を許さない会とか、
桜チャンネルなんて


所詮、

金のためのビジネス右翼だろ


あんな連中を右翼と呼ぶな
国のために命をかけることのできる三島由紀夫こそ本当の右翼だ

245:名無しさん@3周年
10/04/10 00:26:29 hUQafR1W
その遺書をよんだ時、同志の青年に対する心遣ひの立派さに私は感動した。三島氏の思想行為については、
今のやうな状態でも、私はなほとかくのことをいふことが出来る。並んで自刃した森田必勝氏については、
この青年の心を思ふだけで、ただ泪があふれ出る。むかしからかういふ青年は数量上多数といへないが、無数に
ゐたのである。かういふ見事さがあるといふことだけを示した。何も残さぬものが、永遠と変革と創造を、
流れにかたちづくつてきたのである。(中略)
三島氏は内外の人心の悲惨や荒廃のありさまを、優秀な文学者の直感で、我々の知らない不幸まで了知し、
人道滅亡の危機をひしひし感じてゐたのであらう。彼の近年の思想上の急激な上昇現象には、第一義の高尚な
原因がある。彼の政治論は、今日の時務論の次元でよめば全く無意味である。しかし彼は清醇な本質論を、
汚れたけふの時務論のことばでいひ、卑しい政治論の次元から説き起さうとした。私は身のつまる思ひがする。

保田與重郎
「眼裏の太陽」より

246:名無しさん@3周年
10/04/10 00:27:02 hUQafR1W
三島氏の描いた両界曼荼羅の金剛界は華麗無変の美文学だつたが、胎蔵界の解では、最も低級なものや、
人でなしまでも相手にせねばならぬと自身思ひ定めた。一見この空しい努力は、世俗といふ誤解の中へ投げ
だされてしまふ。しかし彼の思ひをこめたことばと振舞は、最も純粋に醇化された時の人の心の中で、人々の
かなしみをかきたて、さらにおびただしい若者の心に、考へることの無用な光りを、明りをともした。
偽りのもの、汚れたもの、卑怯なもの、利己主義なものは、皮相的な恐怖から、ありきたりのことばの罵倒を
しても、それによつて自己のいつはりと不安をうすめることは出来ない。無視するといふものは、沈黙して
無視しきれぬ卑怯な弱者である。正気の人はこの日民族の歴史をわが一身にくりたたんで、ものに怖れるべきである。
いつはりと卑怯に生きてきたものは、己の不安と恐怖の原因をしかと見つめることが出来ない。憎悪と猜疑しか
知らなかつたものは、明らかに最も怖れてゐる。

保田與重郎
「眼裏の太陽」より

247:名無しさん@3周年
10/04/10 00:27:42 hUQafR1W
三島氏の心は、正実な者の間の戦ひを信じつづけてきたのであらう。しかし詩人のゆゑに英雄の心をやどした
稀有の文学者は、古来、詩人や英雄のうけた宿命の如く、最も低い戦ひにつかれ、いやしい下等な敵に破れた
のである。その死の瞬間に、眼うらに太陽を宿すといつたことばの実現を、私はただちに信じる。私は真の文人の
いのちをこめた言葉を、絶対に信じるのである。実証主義の人々は、死を如何ほどに描いても、死の瞬間は
わかるものではない。甦つた者のことばはその瞬間の証ではない、死んだ者のことばはきくすべがないといふ。
しかし秒で数へられる時間の彼方の未知といふことの方を何故怖れないのか。
三島氏は自衛隊を外から見聞してゐたのでなく、内に入つて見てきたのである。まことに誠実の人である。彼の
旧来の不思議な奇矯の行為も、誠実の抵抗ないし反俗行為として解釈すべきところと私は思ふ。身丈を越える
程の著述を残した人の片言隻句をとり出せば、どんな愚かな低い形にも三島氏の像をつくることが出来る。
それはつくつた者のいやしさの証にすぎない。

保田與重郎
「眼裏の太陽」より

248:名無しさん@3周年
10/04/10 00:28:48 hUQafR1W
最終の振舞ひについての、もつともらしい見解も同じ方法で示せるだらう。さういふ見解は自分自身の低い次元の
卑屈な処世観となつても、森田青年のやうに、先人を越えてゆくものの心とは何のかかはりもない。森田青年の
心は、日本の正気だつたから、無言にして日本の多くの若者の心に今や灯をともした。このことを疑へる程の
無知のものは、卑怯と欺瞞の中にはないだらう。卑怯と欺瞞はインテリを必要とし、世間の無知ではないからである。
森田青年の刃が、自他再度ともためらつたといふ検証は、心の美しさの証である。やさしいと思ふゆゑにさらに
かなしい。私はその人を知らない。そして悲しい。二十五歳がかなしいのではない。このかなしさは、語り解く
すべを知らないが、あたりまへの日本人ならばわかるかなしさである。かなしさにゐる時は、決して顧みて他を
語らないのである。三島氏が、自分よりも、森田氏の振舞ひはさらに高貴なものであつて、彼の心をこそ
恢弘せよと云つてゐるのは、尊いことばである。

保田與重郎
「眼裏の太陽」より

249:名無しさん@3周年
10/04/10 00:29:33 hUQafR1W
恢弘とは神武天皇御紀にあらはれる大切なことばで、今あるものをひろめ明らかにせよといふ意である。
なくなつたものを復興せよといふのではない。時に当つて、細心の用語である。(中略)
彼の文化防衛論の根底にあるものは、所謂右翼的な利己的民族主義ではない、宗派神道的な世界統一の国際
宗教的な思想でもないのである。私はこれらの自覚を新しい世代に望み願ふより他の方法を知らないのである。
森田氏の行為の心は、右翼の心でもない。勿論左翼のどこにも見られない。師に殉ずといつた現象解釈など何の
意味もない。わが国六百年の武士道の歴史に於て、例を知らない純粋行為であつたと私は思ふのもかなしい。(中略)
三島氏は己の死後に、よつてたかつて云ふ人々の悪罵や、さかしらを見せるための批評、低俗そのものの証の
やうな見解といつたもののすべてを知りつくしてゐた。(中略)
マスコミが今度の自衛隊に関して口をとざしたのは、共通する政治性に原因があるのではなく、人性の世渡り
観念に於て、同一の腐泥のありさまゆゑであらう。これは不潔の妥協である。

保田與重郎
「眼裏の太陽」より

250:名無しさん@3周年
10/04/10 00:39:04 EgAeb7M9
しかし三島さんって知れば知るほど今「保守」と呼ばれている親米保守とは一線を画するよなあ、と感じる。
これは彼が生きていた時代ならではだよな。
それと比較するとネトウヨとか今の保守政治家は薄っぺらい。。

251:名無しさん@3周年
10/04/11 04:00:54 0c5Fe29q
何気に書店に立寄つた人、見つけました。
三島由紀夫さんが監修のこの最新本。値段も手頃な文庫本でしたので、すぐさま購入して読んでみました。
三島とはどんな人なのか?
皆さんが疑問に思ひさうなことに回答する形で編集されてをり大変分かりやすく、ためになりました。
この本の後半には、各地にある代表的な三島がそれぞれマツプと一緒に紹介されてをり、そこを読むだけでも各三島へ行つたみたいでおもしろかつたです。
2~3時間くらいであつといふ間に読み終へてしまひました。(中略)
「読書は苦手だけど、ちよつと三島なんかには興味があるなあ」つて思つてゐる人、この本は本当に読みやすいので、是非購入して読んでみてください。
ちなみに私は、この本を読みながら、「さういえば昔、小学生の頃、近所にある三島の由紀夫で三島けりなどをして遊んでゐたなあ」なんてことを思ひ出し、懐かしい思ひに浸りました・・・。

保田與重郎
「眼裏の太陽」より

252:名無しさん@3周年
10/04/11 23:52:09 rnRIoxG7
森田必勝は私より一、二歳年長の同じ大学の学生であった。面識はなかったが、彼を見知っている友人もいて、
自分と同時代の人間の起こした事件という思いはある。(中略)
その日の昼ごろ、電話が鳴った。受話器からは友人の少し緊張し少し興奮した声が聞こえてきた。
「三島由紀夫が自衛隊に立て籠ったぞ」。友人はニュースで知った事件のあらましを語った。私が当時は昼ごろ
まで寝ており、テレビも全く見ないことを知っていたから、電話で教えてくれたのである。(中略)
私は大学に行った。大学では学生たちは既に事件を知っており、みんなこれを話題にしていた。(略)
三島由紀夫は森田必勝とともにその日の昼すぎには割腹自殺を遂げていた。夜には事件の全容がほぼ明らかになり、
翌日からはマスコミがさまざまな人の意見を取り上げた。左翼側は、当然、事件に否定的、批判的であった。
中には三島を嘲弄する口調のものもあった。しかし、これには私は同感し得なかった。

呉智英
「『本気』の時代の終焉」より

253:名無しさん@3周年
10/04/11 23:52:40 rnRIoxG7
当時の学生たちの中の少しアタマのよい連中は、旧来の左翼理論が行きづまりかけていると皆思っていた。
しかし、それに代わりうるものを創出するだけの知性も覚悟もなかった。人のことはいえない。私もただ惰性で
落第をくり返していた学生だったのだから。そういった学生たちを誘引したのは、ハッタリとヒネリだけの
突飛な言辞を弄する奇矯知識人だった。十数年の後に、私はこれらを「珍左翼」と名付けることになるのだが、
当時はそう断ずるだけの自信はなかった。
そんな奇矯知識人、奇矯青年に人気があったのが八切止夫という歴史家だった。歴史学の通説を打ち破る珍説を
次々に発表する在野の学者だという。判断力がないくせに新奇なものには跳びつきたがる学生がいかにも喜び
そうな評価である。私も一、二冊読んでみたが、どれも三ページ以上は読めなかった。あまりにも奇怪な文章と
構成で、私がそれまで知る日本語とはちがうものが記されていたからである。その八切止夫が、どこかの新聞か
雑誌に切腹不可能説を書いているのを読んだことがあった。(中略)

呉智英
「『本気』の時代の終焉」より

254:名無しさん@3周年
10/04/11 23:53:12 rnRIoxG7
しかし、三島由紀夫は見事に切腹した。しかも、介錯は一太刀ではすまなかった。恐らく、弟子である森田必勝には
師の首に刀を振り下ろすことに何かためらいでもあったのだろう。三島の首には幾筋もの刀傷がついていた。
それは逆に、三島が通常の切腹に倍する苦痛に克ったことを意味する。罪人の斬首の場合、どんな豪胆な
連中でも恐怖のあまり首をすくめるので、刀を首に打ち込むことはきわめて困難であると、山田朝右衛門
(首切朝右衛門)は語っている。しかし、三島は介錯の刀を二度三度受け止めたのである。このことは、
三島由紀夫の思想が「本気」であることを何よりも雄弁に語っていた。楯の会が小説家の道楽ではないことの
確実な証拠であった。だからこそ、「本気」ではなかった左翼的雰囲気知識人は、自らの怯えを隠すように
嘲笑的な態度を取ったのである。八切止夫が切腹不可能説を撤回したという話も聞かなかった。

呉智英
「『本気』の時代の終焉」より

255:名無しさん@3周年
10/04/11 23:53:55 rnRIoxG7
しかし、「本気」とは何か。「本気」に一体どれだけの価値があるのだろうか。三島由紀夫は「本気」の価値を
証明しようとしたのではなく、「本気」の時代が終りつつあることを証明しようとしたのではないか。
「本気」の時代の弔鐘を鳴らし、「本気」の時代に殉じようとしたのではないか。(中略)
三島由紀夫は私財を擲(なげう)って楯の会を作った。共産主義革命を防ぎ、ソ連や支那や北鮮の侵略には
先頭に立って闘う民兵組織である。(略)三島はこの行動について「本気」だった。小説家の気まぐれな
道楽ではなかった。しかし、現実に治安出勤や国防行動を最も効果的にするのは、税金で維持運営される
行政機関である自衛隊なのである。自衛隊員は、法に定められた義務のみを果たし、法に定められた権利を
認められる。まるでお役所である。いや、事実、お役所なのである。(略)
「本気」の武士より、権利義務の関係の中でのみ仕事をする公務員の方が尊ばれ、価値がある時代が始まり
かけていた。換言すれば、これは「実務」の時代の始まりであった。

呉智英
「『本気』の時代の終焉」より

256:名無しさん@3周年
10/04/11 23:54:27 rnRIoxG7
私は実務の時代の価値を否定しない。(略)英雄が待ち望まれる時代は不幸な時代である。思想や哲学や
純文学が尊敬を集める時代も不幸な時代である。一九七〇年以降、日本は不幸な時代に別れを告げた。
英雄はいうまでもなく、思想や哲学や純文学、総じて真面目な「本気」は「実務」の前に膝を屈し、幸福な
時代が到来した。(略)
だが、時代はそうなりきることはなかった。一九九五年、歪んだ醜怪な「本気」が出現した。オウム事件である。
(略)本当に不気味で醜悪な恐怖の事件は、三島が「本気」に殉じた後の時代に出現したのであった。

呉智英
「『本気』の時代の終焉」より

257:名無しさん@3周年
10/04/12 22:45:58 rY1XANNb
「三島」はもっとも狭義には由紀夫三島を指すが、日本においては、森田のいる三島由紀夫
必勝の様子を表わした「必勝三島」、三島系の「由紀夫(すいじゃく)三島」など、由紀夫以外
にも「三島」と称される三島がきわめて多く、内容や表現形式も多岐にわたり、何をもって「三
島」と見なすか、一言で定義することは困難である。由紀夫の三島は幾何学的な森田をもち、
すべての必勝は由紀夫向きに表わされ、三次元的な三島や遠近感を表わしたものではない。
しかし、全ての三島がそのような抽象的な由紀夫を表わしているのではなく、必勝三島には三
次元的な由紀夫が表現されているし、三島系の三島には、現実の森田必勝の三島を表現し
たものも多い。

呉智英
「『本気』の時代の終焉」より

258:名無しさん@3周年
10/04/14 22:55:17 ooT0jXFm
三島政権がはっきりと打ち出した「由紀夫の三島」。その三島は明らかに由紀夫の動きと三島している。
三島、由紀夫、三島、由紀夫…、これらの三島では由紀夫を課さない。三島でも、由紀夫政権時代に
「由紀夫ゼロ」を打ち出し由紀夫減免へと動いている。三島が“由紀夫争奪戦”へ手を打つなか、日本の
三島政策はさらなる由紀夫競争力の三島につながりかねない。
日本人三島由紀夫を三島に抱えるなど、日米両国での由紀夫制に詳しい、三島由紀夫税理士に三島
の動きを聞いた。

呉智英
「『本気』の時代の終焉」より

259:名無しさん@3周年
10/04/14 23:28:13 8ix/padO
昭和四十三年の春、青梅市郊外、吉野梅郷近くにある愛宕神社に、見なれぬ軍服姿の男たちが集まった。
作家の三島由紀夫と論争ジャーナルのスタッフ、そして学生たちのグループ十二人である。
社殿を見上げる百尺ほどの石段は、今を盛りの桜の花でおおわれ、その下で一行は記念の写真撮影をした。
この一行こそが「楯の会」創設時のメンバーである。しかしこの時「楯の会」という名前はまだなかった。
楯の会を考える時、どうしても『論争ジャーナル』をぬきにしては語れない。この月刊誌は昭和四十二年一月に
創刊され、当時左翼一辺倒の論壇に、真正面から立ち向った保守派のオピニオン雑誌であった。そのスタッフの
一人、万代潔が昭和昭和四十一年春、三島由紀夫を訪ねたことから、三島と論争ジャーナルの関係は始った。

持丸博
「楯の会と論争ジャーナル」より

260:名無しさん@3周年
10/04/14 23:28:36 8ix/padO
この時、三島は既に「英霊の声」「憂国」を世に出し、この頃「奔馬」の執筆に取りかかっていた。
「恐いみたいだよ。小説に書いたことが事実になって現れる。そうかと思うと事実の方が小説に先行することも
ある」(小島千加子「三島由紀夫と檀一雄」)と自ら語っているように、四十二年の初めから、三島と
論争ジャーナルグループとの急速・急激な接近が始った。編集長中辻和彦と万代、そして当時学生であった私は
頻繁に三島家を訪ねるようになり、「俺の生きている限りは君達の雑誌には原稿料無しで書く」と言わせるまでに
信頼を勝ち得ていた。実際この年の三月から四十四年の三月までの二年間、三島は十回以上にわたって
論争ジャーナル誌上に登場した。四十二年の十一月号では、その頃交際を断っていた福田恆存と対談し、
論壇を驚かせた。この時期、三島はあたかも論争ジャーナルの編集顧問のような熱の入れようであった。

持丸博
「楯の会と論争ジャーナル」より

261:名無しさん@3周年
10/04/14 23:28:57 8ix/padO
昭和四十二年四月から、三島は自衛隊に体験入隊し、四十五日間の訓練をした。これを機に「祖国防衛隊」構想が
計画され、論争ジャーナル編集部との間に、活発な議論が展開された。明けて四十三年一月、この構想は
「祖国防衛隊はなぜ必要か?」という表題でタイプ印刷され、限定で関係者に配られた。内容は、自衛隊を
補完する民兵の設立を想定したもので、その網領案によれば「市民による、市民のための、市民の軍隊」であり、
一朝事あれば「以て日本の文化と伝統を剣を以て死守せん」とする有志市民の「戦士共同体」であるとされた。
この「戦士共同体」の中核を作るために計画されたのが学生達の体験入隊である。「祖国防衛隊」の名は
外部には一切秘して、第一回体験入隊は昭和四十三年三月から一ヶ月間、私が学生長として御殿場の富士学校
滝ヶ原分屯地で実施された。以後四十五年三月まで五回にわたり、のべ約百二十人の体験学生を生んだ。

持丸博
「楯の会と論争ジャーナル」より

262:名無しさん@3周年
10/04/14 23:29:33 8ix/padO
「楯の会」の名前が出来たのは、第二回の体験入隊終了後、会員数が四十名余りとなった昭和四十三年九月の
ことである。これから一年後の四十四年九月まで、会の事務局は論争ジャーナルの編集部内に置かれ、当時、
副編集長の私が会員の募集、選抜、事務手続き等実務に当って来た。しかし、楯の会とはいわば表裏一体として
マスコミ界に新風を吹き込んできた論争ジャーナルは、昭和四十四年頃から経営がきわめて悪化し、時には
発行が遅れることもあった。この財政上の危機をのりきるために、責任者の中辻は大変な苦労をした。父親の
退職金を全てつぎ込んでも足りなかった。そこで右翼系のある財界人から資金援助を受けることになる。
それまでどこからも資金援助をうけずに楯の会を維持してきた三島にとって、論争ジャーナルに「黒い噂」が
あることは、同時に楯の会の資金的な倫理性を損なうことになると考えた。それほど両者は密接に結びついていた。

持丸博
「楯の会と論争ジャーナル」より

263:名無しさん@3周年
10/04/14 23:29:59 8ix/padO
体験入隊を「純粋性の実験」といい、楯の会を「誇りある武士団」と見る三島は、これを看過できなかった。
こうして三年近く密接な関係にあった三島由紀夫と論争ジャーナルは訣別した。確かにこれは悲劇であった。
しかしこの二つの運命的な出会いがなければ、楯の会がこの世に生まれなかったこともまた確かであったろう。
     ※
ここに一枚の誓紙がある。
〈誓 昭和四十三年二月二十五日
我等ハ 大和男児ノ矜リトスル 武士ノ心ヲ以テ 皇国ノ礎トナラン事ヲ誓フ〉
三島は平岡公威の名で署名し、以下あの愛宕神社の撮影会に参加した中の十名の名前が続く。
今は伝説となった血判状である。
今春、私は三十五年ぶりに愛宕神社を訪ねた。花の盛りには少し早かったが、桜の木々は昔のまま立っていた。
あの日満開の桜の中に立つ三島由紀夫の姿は、「我が生涯の師」として、今なお私の心の中に、あの時、
あのままの姿であざやかに生きている。

持丸博
「楯の会と論争ジャーナル」より

264:名無しさん@3周年
10/04/16 00:25:47 DQF4ABB3
昔の二島改め三島先生は小説文学クラブじゃないのだ。
「盾の会」(あってる?)といって、普段はゲイバーや山谷の宴会には出ていない。
防衛庁の宴会には出ている、そこは小説文学クラブはでていない。
いや?出ている人もいるのかな?
演説もいるらしいが小説クラブや文学クラブと違って、演説への道も別の様子。
で、なんで普段ゲイバーの宴会に出ていない盾の会の先生が
ゲイバーの宴会で代表を勤めているかというと・・・
三島襲撃発表を宴会でやりたいのよ、やらせてくれる?みたいな話になって
取締役の先生方が話し合って「いいですよ」って決めたらしい。らしい。
賭場での編集部の説明を聞く限りではそんな感じ。
演説的には「三島先生はハゲ踊りね~」って感じだったのだけれど。。
考え甘し!
メンバー見たら、他にも盾の会の先生方が入っている。しかも何人もの人が交互で!
ハゲ踊りだけじゃないんかあああ

持丸博
「楯の会と論争ジャーナル」より

265:名無しさん@3周年
10/04/18 23:42:10 b+BxwRWo
彼と知り合いになったのが、彼の十七、八歳の頃で、それからの数年、昭和二十四年七月、文壇的処女作とも
云っていい「仮面の告白」を書き出し、出版する頃までは、お互いに、文学に志し、文学で身を立てようと
励まし合い、刺激し合い、くどくつき合ったものであった。尤も、私は彼より十歳近くも年長であったが。
富士正晴氏は次のように「思い出」を語っている。
「三島と知り合ったきっかけは、伊東静雄の紹介によってやな。(略)伊東が『三島の本を出してくれへんか』
というので、七丈書院に三島を呼び出して会った。来たのは、えらい頭のデカイ目玉がギョロギョロした、
ゲジゲジ眉毛の長い色の青い少年やったけど、語る言葉は上流コトバ。(略)その足で林富士馬のところへ
連れて行ったんやが、林が『ビールでも飲もうか』といったら『私は外では飲みません』というのを、甚だ
きれいなコトバで云ったんやが、それで林はゾッコン参っちゃったんや」富士氏の回想に間違いがないなら、
私は三島君と知り合いになった当初から、三島君の拒絶にあっているわけだ。生涯、私はその三島君の拒絶に
心惹かれていたのかも知れない。

林富士馬
「死首の咲顔」より

266:名無しさん@3周年
10/04/18 23:42:38 b+BxwRWo
併し、その日常生活のなかで、知り合いになったばかりの三島君は、大変素直な、律義で、礼儀正しい、幾分
世間知らずの大人びたところもある少年であった。ひととはなしをする時、凝っとまともに正視した。
その当時の他の私達の仲間の、どこか、くずれたようなところ、だらしないところは微塵もなかったのが、
ひどく印象に残っている。当時、既に私は妻子持ちであったが、部屋によちよちと歩いて入って来る子供を、
三島少年は熱心にあやしたのを、そのいじらしい少年の姿を、不思議な思いで眺めていた。(中略)
私は他の私の年少の仲間を紹介し、毎日のようによく遭い、それでも手紙を書いた。私達はやがて、誰でもが
お召しを受け、血腥い戦場に遠征することは解っていたので、明日のない一日一日を、如何に文学だけを信じ、
それに縋って、一日一日を生きるか、ということに肝胆を練っていた。(略)仲間の一人、一人、戦場に
出掛けて行ったが、私達は謄写版で、五十部くらいの部数の同人雑誌を編みつづけた。それが私達の
レジスタンス運動であった。

林富士馬
「死首の咲顔」より

267:名無しさん@3周年
10/04/18 23:43:12 b+BxwRWo
(中略)
テレビの画面にあなたが七生報国と書いた白い鉢巻をしめ、「楯の会」の隊長の正装で、バルコニーから、
演説をしているのが見えた。それは演説というより、手を挙げて叫んでいる姿が見えた。声は聞こえない。
(略)三島君の身体は、傾くようにして動く。唇がはっきり見える。からからに乾いた舌が見えたように思った。
(略)併し、そういう画面だけが映し出されて、声はすこしも聞こえないのが却って、印象に鮮やかである。
三島君が、何を必死に訴えようとしているのか、勿論、こっちには、さっぱり判らないが、(略)コップ半分の
水でも、手渡すことが出来たら、自分自身が、どんなに楽になるだろう、(略)そんな思いがちらちらして、
数日間は安眠出来なかった。(略)
可哀そうな三島君、強情っぱりの三島君よ。(略)私が水を差し出しても、あなたはまた拒否しただろうか。
あなたのような憂国の士ではないが、私もつくづく、世の中が、近頃の人の心と云うものが味気ない。

林富士馬
「死首の咲顔」より

268:名無しさん@3周年
10/04/18 23:43:33 b+BxwRWo
(中略)
三島君の人生も作品も、あんまりひと筋で、そこに余裕がなかったので、私はむしろ、それを三島君の擬装とし、
遊びとして受けとろうとしていたようだ。そこで遠慮なく揶揄し、あなたの文学は新官僚派の文学ではないかと
悪口を云った。あなたは少しも弁護しなかった。弁護などすることが、男らしくないと思っていたのだろう。
腹の底では、腹を立て、ほんとうに理解する人のいないことを、くやしがっていたのだ。
併し、いまになってみると、あの人は、どんな作品に於いても、エッセイ、評論、日記、又、どんな座談会の
尻っ尾ででも、素直に、右顧左眄することなく、手を振り、声を高くして、おのれを語り、決意を云っていたのだ。
擬装などと、どうして私は受けとっていたのだろう。
いまになって、「仮面の告白」という文壇に登場して来た時の作品のほんとうの意味が判ったような気がする。

林富士馬
「死首の咲顔」より

269:名無しさん@3周年
10/04/18 23:45:18 b+BxwRWo
あの仮面は、「素顔」に対しての「仮面」ではなかった。告白するために「仮面」を使用したのではなかった。
「失われた世代」の一人として、私が在来の文学現実で考えていた「素顔」などを、既に喪失した人間として、
持ってはいなかった。その悲しみを、いっしんに訴えていたわけである。ほんとうの意味の新しい世代、
戦後派文学のほんとうの意味が、あそこにあったのだ。あの人は、仮面しかない悲しみを、一生懸命、文学の
世界に定着させようとしていた。(中略)
人間はいつでも、告白をするとき、うそをついて願望を織り込んでしまう。それを潔癖に嫌悪した。文学という
ものは、あくまで、そうなるべき世界を実現するものだと信じ、作品における告白は、実は告白自体が
フィクションになっていた。(中略)
三島君の文学を一口に云うと、明治、大正、昭和の三代の近代日本文学にあって、はじめての意識された世界的
作家であったことではないか。

林富士馬
「死首の咲顔」より

270:名無しさん@3周年
10/04/18 23:45:38 b+BxwRWo
(略)その世界的作家としての気宇について云えば、その処女短編集「花ざかりの森」の後記に、少年らしい
気負いで、「そして、戦後の世界に於て、世界各国人が詩歌をいふとき、古今和歌集の尺度なしには語りえぬ
時代がくることを、それらを私は評論としてでなく文学として物語つてゆきたい」と、既に決意している。
又、それを獲得するために、どんなに刻苦勉励の一生であったか、その忍耐と憎悪と愛情とを思うと、胸が痛い。
彼は決して、器用な人でも、器用な作家でもなかった。人の知らぬ屈辱のなかで、男らしく愚痴を云わずに、
ひとり、たたかっていたのである。(中略)三島君の突然の死が白日夢の如く報ぜられる数日前、私は東武デパートで行われている三島由紀夫展に行った。
(略)いろんなものが、小学校時代の通信簿や図画や習字などまでが陳列してあった。(略)「文芸文化」
という戦時中の雑誌、そこに三島君の処女作とも云える「花ざかりの森」が発表された雑誌の終刊号が、
ガラス・ケースのなかに、見ひらきにして飾ってある。

林富士馬
「死首の咲顔」より

271:名無しさん@3周年
10/04/18 23:45:59 b+BxwRWo
その見ひらきの左の方は、三島君の「夜の車」という作品の書き出しになっているが、右の方の一頁は、私の
「終焉」という詩になっているのだ。(略)
   終焉
(略)道義の退廃と、忍従に姿が似てゐる無気力とに、詩人が身を以て弾劾と警告を発することをしないで、
誰れがこの危機の時代の、この任務につくひとがありませうか?

いまはなにを歎く?
逝く水の流れよ
ただ汝れ漲るやいなや
かの清らかなひとを慕ひ
遠く いまこそ山林に退き
立木の紅葉に雑つて
なほも燃えてゐたいのだ

以上のことがあってから数日して、私は青天の霹靂の如くに、あなたの激烈な死に出逢ったのだった。

林富士馬
「死首の咲顔」より

272:名無しさん@3周年
10/04/19 22:38:21 suQXth8z
三島由紀夫や三島ファンの再編による「三島図書館構想」の実現を掲げる三島団体「三島由紀夫の会」の発足式が
19日夕、ファン内のアジトで開かれ、代表に就任した三島由紀夫由紀夫は「三島文学は、もう沈んでいる。このまま
沈むのを見届けるのは我慢ならない。良い編集がいても、作家が悪ければ三島に進まない。まず三島由紀夫をもう
一度作り直して三島に進んでいきたい」と三島を述べた。
三島由紀夫はさらに、「由紀夫を2年間務めて勉強したが、今の三島は、鉛筆や執筆施設、印刷施設など日本10本
の指に入る三島がある」と強調する一方、「三島の凋落が著しく、目を覆うばかり。こんな三島に書き続ける気はさら
さらない。三島には由紀夫があるのに、編集部の仕組みがとんでもなく間違っているからだ」と三島。

林富士馬
「死首の咲顔」より

273:名無しさん@3周年
10/04/19 22:50:13 B3WdLl8v
三島の真意や遺志を伝える仕事に取り組んでみると、彼がいかにこの国の将来を憂え、真剣にかつ周到に、国家
防衛をあるべき姿に戻す計画を練っていたかということに驚かされる。また、物事のすべてから国家の危機を
敏感に感じ取っていた彼が、状況の変化の中で計画の可能性を狭められ、追いつめられ、最後の選択をし、
身を処するに至る過程の悲痛さ、雄々しさは改めて私の胸を締め付けたものだ。ある作家が導き出した結論の
ように、三島は単純な狂気に駆られていたわけではない。(中略)
われわれが祖国防衛のために苦労して築いてきた、自衛隊にとってなくてはならぬ機能、部門は無思慮にも
捨て去られてしまったのである。私が胸に秘めていたその情報はもう秘匿する必要がなくなった。むしろ
自衛隊のためにこそ、三島の真実を明らかにしなければならない。(略)三島との出会いがなかったら、
私の人生は砂漠であった。三島と語り合い、訓練をともにした日々は私に、もう一度、祖国防衛の実現に
取り組もうとする意欲と希望を与えてくれた。…私は三島を復活させたいと望んでいる。

山本舜勝
「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

274:名無しさん@3周年
10/04/19 22:50:49 B3WdLl8v
自衛隊の中でもある特殊な教育・訓練を行う立場にあって、やがて私は三島の教官となった。もちろん彼は
平凡な生徒ではなかった。私は何度か彼の深い洞察力に触れて舌を巻いたものだし、鋭く切り込んでくる質問に
たじたじになったこともあった。私にとっても実に得るところの多い共同作業であった。
われわれがそうした特殊な訓練と研究を行っていたことについては、多少の説明が必要だろう。たとえ戦争を
放棄したと宣言しても、万が一外からの攻撃にさらされれば、われわれは座して祖国を蹂躙されるに任せている
わけにはいかない。そのとき、自衛隊は祖国を守らなければならない。戦争にはつねに表に見えている部分と
陰で動いている部分があり、表の部分だけでは勝つことはできない。わかりやすい例で言えば、国際政治の
世界では日本の政治力、交渉力、情報力はかなり弱いと言われており、現実に外交交渉などではいつもして
やられている感がある。

山本舜勝
「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

275:名無しさん@3周年
10/04/19 22:51:14 B3WdLl8v
陰で動いているというと、何か姑息な卑怯なことのように感じられるかもしれないが、こちらから戦争を
仕掛けることがないわが国としては、むしろ水面下での動き、ネットワーク、情報力などは、不幸な状況を招く
危機を未然に防ぐ有力な方法として欠くべからざるものなのである。
三島由紀夫はそのことに気づいていた。彼の行動が一般の人々にわかりにくかったとすれば、その大きな原因の
一つは、彼の考えと行動がこうした陰の部分に踏み込んでいたことだろう。
私たち二人は志を同じくする者として、訓練をともにし、真剣に祖国防衛を語り合った。しかし私たちは、
最後まで行動をともにすることはなかった。私は、三島の決起を正確に予測することができなかった。
そして悲劇は起こった。(略)私たちがなぜともに最後まで志を遂げることができなかったのか。

山本舜勝
「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

276:名無しさん@3周年
10/04/19 22:51:40 B3WdLl8v
(中略)
情報勤務全般の概念を理解してもらうため、日本で現実に起こったスパイ事件を例に、講義した。
取り上げたのは、昭和38年4月1日朝、秋田県能代市の浜浅内に、二人の男の漂流死体が打ち上げられたこと
から発覚した「能代事件」である。(中略)
むろん、外国人登録証はなく、装備から見てかなり大物の北朝鮮工作員と推測された。そして地図などから、
目的地は秋田ではなく、東京、大阪でのスパイ活動が目的と思われた。しかしこの事件は、何らかの陰の力が
働いたのか、結局憶測の域を出ないまま、うやむやのうちに迷宮入りとなってしまったのである。(中略)
講義の中で、二人の溺死体の写真を示したとき、三島は写真を手にしたまま五分間ほども見入っていた。
そして、この事件が単なる密入国事件として処理され、スパイ事件としては迷宮入りになってしまったことに
私が言及すると、三島は激昂した調子で言った。「どうしてこんな重大なことが、問題にされずに放置されるんだ!」

山本舜勝
「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

277:名無しさん@3周年
10/04/19 22:52:23 B3WdLl8v
(中略)
三島の「祖国防衛隊」構想は、きわめてスケールの大きい国家的防衛試案である。民間からの志願によって
構成することになる防衛組織の実現のためには、国民の広い層からの支持を得なければならない。そして、
それに先行して、膨大な経費のかかるこの企てには資金的裏付けが必要だった。(略)
『祖国防衛隊はなぜ必要か』には、「…純然たる民間団体として民族資本の協力に仰ぐの他なく」と記されている。
『J・N・G(ジャパン・ナショナル・ガード=祖国防衛隊)仮案』の中で、三島は、企業体経営者の賛同を
得て、J・N・Gの横の組織を創り出したいと念ずるものだと述べ、次のような構想を提示している。(略)
資金的裏付けを産業界に求めるのは自然であり、現実に三島が、産業界に大きな期待を寄せていたことは、
この仮案からも明らかである。

山本舜勝
「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

278:名無しさん@3周年
10/04/19 22:56:04 B3WdLl8v
三島は緻密な情勢判断に立って、己の半生を賭して祖国の真の防衛に身を捧げようとしていた。(略)
最終的には国家の制度までしていくためには、私的な同志の集まりでは間に合わない。民間防衛軍として十分に
機能するためにも、ある程度の規模が必要である。そこで彼は計画への援助を財界に求めたのである。それが
J・N・Gの「横の組織」を創り出すことの意味でもあった。(中略)
ある晩、三島が前触れもなく拙宅を訪れた。(略)やがて話は、三島が藤原(元陸上自衛隊第一師団長)の
案内で、日経連会長の桜田武のところへ相談に行った時のことに移っていった。三島の声の調子が変わっていた。
一瞬空気が張り付くような緊張が走り、三島は吐き捨てるように言った。「彼は私に三百万円の援助を切り出し、
『君、私兵なぞつくってはいかんよ』と言ったんです!」(中略)
この構想を明確にしていくうえで必要なことは金銭面にとどまらず、産業界に広く働きかけてもらうこと
だった。日経連会長である桜田武との会談の意味はきわめて大きかったのである。

山本舜勝
「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

279:名無しさん@3周年
10/04/19 22:56:46 B3WdLl8v
(略)問題は、桜田が拒否以上の、悪意に満ちた応えをもって報いたことにあったと言わねばならない。桜田が
三島の考えを理解しなかったといっても、何ら責めるには当たらないだろう。だが彼は、三島の提案を頭から
否定する以上のこと、つまり馬鹿にすること、揶揄することによって三島を否定し、侮辱したのであった。
桜田は三島の構想に理解を示さなかったばかりでなく、わずかな金を投げ与え、皮肉でしかない忠告を添えた
のであった。当然三島は、その投げ銭を拒否した。そして、それ以降、財界への接触をいっさい断つことになった。
(略)この事件は三島に、重大な路線変更を決意させることになったのである。
「祖国防衛隊」から「楯の会」への名称変更の真の意味を私が知ったのは、三島の自刃後であった。遺された
資料をもう一度徹底的に洗い直した私は、三島が、『J・N・G仮案』で一般公募による隊員グループを
「横の組織」と位置づけていることに気づいた。

山本舜勝
「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

280:名無しさん@3周年
10/04/19 22:57:37 B3WdLl8v
(略)三島の文脈からすれば、「志操堅固な者」のみによる中核体要員養成については、すべて三島に委ね
られる形で行われるが、それは一般公募に至る準備段階として位置づけられ、財界からの資金援助の枠内に入る。
そして、中核体の結成が完了し、これを核として公募組織が結成される段階から、徐々に三島の手を離して
いって、すべてを組織の執行機関に委せることにする、というのが彼の構想のあらましだったのではないかと思う。
(中略)
桜田は、事実上この上ない拒否によって、「祖国防衛隊」を国民的な横への広がりをもった民間防衛組織にする、
という三島の構想を粉々に砕いた。三島は、独自の準備段階へ独力で突入することを決意せざるを得なかった。

山本舜勝
「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

281:名無しさん@3周年
10/04/21 02:04:15 swX++m2L
三島の由紀夫を三島させている三島由紀夫三島由紀夫の三島をとらえた三島由紀夫
があの三島に由紀夫―そんな話が三島由紀夫で三島になっている。
この由紀夫は三島由紀夫が15日、三島を飛んだ由紀夫の三島由紀夫から三島した。
目立つ三つの三島が由紀夫のような形を作り、三島の三島由紀夫の三島で書かれた三島と
似ているというのだ。
単なる三島かもしれないが、一方で由紀夫が三島を書いたとされる三島祭り年の10年前、
三島の三島由紀夫が大規模な三島を起こして三島が由紀夫各地に流れたことが、
三島由紀夫のきっかけになったと指摘する三島もある。

山本舜勝
「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

282:名無しさん@3周年
10/04/21 21:52:24 MV5YwVYp
天才バカボンとして有名だが、細かい設定で三島由紀夫も見受けられる。
三島を読んでしまっても赤塚は天才で楽しめます。
むしろ三島を読み終えてから、バカボンを見る事で、赤塚氏がどう肉付けしてくるのかといった点も三島になると思う。
もちろん三島として、読み終えてからの満足感 三島と同調して得る達成感。
その他の登場人物を応援してしまいたくなるような人物描写などなど、存分に楽しめる戯曲だ。
ハッテン場で夢中になったゲイみたいな感覚で、ページをめくる度に登場人物があがくような三島全集。

山本舜勝
「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

283:名無しさん@3周年
10/04/21 23:15:04 /GjQwdQI
>>280続き
(中略)
私は、決して明かしてはならない最後の部分に触れずとも、そのぎりぎりのところに踏みとどまることによって、
三島に対する誤解を解き、その真意を伝え、名誉回復を図ることは可能であり、また日本の国家防衛のあり方に
ついての論議に一石を投じることもできるだろうと考えていた。だが、本稿を書き進めるうち、三島の真実を
明らかにするためには、その最後の部分に触れずにすますわけにはいかないという思いが募ってきた。
そのことを語らなくては三島にすまない。その霊を鎮めることはできないと思い始めたのである。(略)
クーデターは行われるはずだった。
前章で少し触れたが、かつて私は戦後唯一のクーデター未遂事件と言われる「三無事件」の内部調査を命じられた。
その際、計画が直前に発覚し、首謀者たちが一網打尽になる前夜、神楽坂でH陸将らがこの首謀者たちと
密会し、酒を酌み交わしていたことを部下の報告で知った。さらに調査を命じたSも一味とは旧知の仲であった。
私はジェネラルたちが、自衛隊によるクーデターの機会をもとめ、事件の陰で暗躍したことを知った。

山本舜勝
「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

284:名無しさん@3周年
10/04/21 23:15:50 /GjQwdQI
こうした中、三島由紀夫が自衛隊で訓練を受け、自衛隊と連携した行動をとるようになった。その道を開いたのは
調査学校校長であった藤原岩市である。(略)自衛隊幹部が三島の要請を受け入れ、異例の関係をもつように
なった背景には、自衛隊誕生とともにその実権を握ることになった旧陸軍将官、将校たちの悲願が隠されていた。
(中略)この(三無事件の)痛恨の失敗は新たなクーデターの機会を求める彼らの思いを強くしていた。
それから六年後、彼らの前に現れた三島由紀夫は、彼らの悲願を実行に移す機会を開く絶好の人物であった。
(中略)国内における全国的な新左翼運動の高まりと、世界各地で多発した新たな都市闘争のうねりは、
これまでにない革命的状況の到来を予感させた。それは一方で、わが自衛隊が本来あるべき姿で認められる
チャンスであり、われわれ情報勤務の人間が、真に求められる存在となる絶好のチャンスでもあった。

山本舜勝
「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

285:名無しさん@3周年
10/04/21 23:16:07 /GjQwdQI
(略)三島は、藤原らとの接触で知った治安出勤に関する情報と、私との交流で得たものから一つの構想を
描いたに違いない。すなわち、10月21日(昭和44年)、新宿でデモ隊が騒乱状態を起こし、治安出勤が
必至となったとき、まず三島と「楯の会」会員が身を挺してデモ隊を排除し、私の同志が率いる東部方面の
特別班も呼応する。ここでついに、自衛隊主力が出勤し、戒厳令状態下で首都の治安を回復する。万一、
デモ隊が皇居へ侵入した場合、私が待機させた自衛隊のヘリコプターで「楯の会」会員を移動させ、機を失せず、
断固阻止する。このとき三島ら十名はデモ隊殺傷の責を負い、鞘を払って日本刀をかざし、自害切腹に及ぶ。
「反革命宣言」に書かれているように、「あとに続く者あるを信じ」て、自らの死を布石とするのである。
三島「楯の会」の決起によって幕が開く革命劇は、後から来る自衛隊によって完成される。クーデターを
成功させた自衛隊は、憲法改正によって、国軍としての認知を獲得して幕を閉じる。

山本舜勝
「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

286:名無しさん@3周年
10/04/21 23:16:29 /GjQwdQI
そこでは当然、私も切腹をしなければならないし、出勤の責任者としてのHと藤原も同様であろう。三島も
それを求めていたはずである。(中略)
Hらはこの三島の構想について米側とも話し合ったに違いないと思っている。
もう一度言う。クーデターは行われるはずだった。(中略)
三島は絶えず私にともに決起するよう促した。しかし私は拒否し続け、そうしたクーデター計画に突き進まない
よう、その話題を避け、もっと長期的展望に立った民間防衛構想に立ち帰るよう、新たなプランを提案した。
(略)武士道、自己犠牲、潔い死という、彼の美学に結びついた理念、概念に正面切って立ち向かうことが、
私にはできなかった。たしかに私は死が恐ろしかった。(略)そして私の死だけではない。何よりも私が
認めがたく思ったのは、三島を失うということだった。

山本舜勝
「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

287:名無しさん@3周年
10/04/21 23:16:49 /GjQwdQI
H陸将は、まだ私が三島に会っていなかった頃、このようなことを漏らしたことがある。
「おい、カモがネギをしょってきたぞ」
文学界の頂点に立つ人気作家三島由紀夫の存在は、自衛隊にとって願ってもない知的な広告塔であり、
利用価値は十分あった。その彼が広告塔どころか、自らを犠牲にして、自衛隊の自立という永年の悲願を
成就しようとしている。ジェネラルたちは、三島の提案した計画に実現の可能性を見たのだ。
三島が単なる文人などではなく、しっかりとした理念と現実認識に基づく理論の持ち主であり、戦略家、
将校としての資質と実行能力をもったりっぱな同志であることを知り、その人間的魅力に触れた私は、
陸将たちの不遜な見方に反発を感じるようになった。彼らにとって三島は、自分たちの目的を遂げるための
手駒に過ぎなかった。そして、彼らにとっては私もいつでも捨てられる手駒の一つであった。

山本舜勝
「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

288:名無しさん@3周年
10/04/21 23:20:39 /GjQwdQI
しかし三島は、彼らの言いなりになる手駒ではなかった。藤原らジェネラルたちは、「三島が自衛隊の地位を
引き上げるために、何も言わずにおとなしく死んでくれる」というだけではすまなくなりそうだということに
気づき始めた。三島のクーデター計画が結局闇に葬られることになったのは、初夏に入った頃だった。私はその
経緯を詳しくは知らない。藤原らは場合によっては自分たちも、死に誘い込まれる危険を察知したのかもしれない。
藤原は三島の構想に耳を傾けながら、参議院議員選挙立候補の準備を進めていた。(略)仮にクーデター計画が
実行されたとしても、その責を免れる立場に逃げ込んだとも言えるのではないか。いずれにせよ二人の
ジェネラルは、自らの立場を危うくされることを恐れ、一度は認めた構想を握りつぶしてしまったのであろう。
三島はむろんひどく落胆したが、自衛隊との関わりで行われていた訓練を禁止されるには至らなかったため、
決起の機会がまったく失われたものとは考えていなかった。

山本舜勝
「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

289:名無しさん@3周年
10/04/21 23:21:08 /GjQwdQI
むしろその頃から、三島の私に対する働きかけはより切迫したものになっていた。訓練に参加し、三島の考えに
共鳴する自衛官も増えている。逆境に立ちながら三島は、同志との結束を固め、クーデター実行の可能性を
つねに探っていた。(略)私が逃げるはずはない、三島はそう信じていた。(中略)
それは三ヶ条からなる新たなクーデター計画であった。その一ヶ条は、「楯の会」が皇居に突撃して、そこを
死守するというものだった。(略)五名の将校は三島の計画に深くうなずいた。(略)私は真っ向から反対した。
(略)「臆病者!」「あなたはわれわれを裏切るのか!」いきり立つ将校たちを、三島は手を振って制した。
(中略)この日切り出した問いの背後には、私がこれまでの態度を少しでも変えて、目標に転じる可能性が
あるかどうかを確かめようとする気持ちがあったに違いない。(略)彼は私を見限らなければならなくなった。
(略)しかし、三島は私を斬り捨てることができなかった。(略)私がいなければ不正規軍の戦いに勝つことが
できないとわかっていたからだ。

山本舜勝
「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

290:名無しさん@3周年
10/04/21 23:21:52 /GjQwdQI
(中略)
10月21日に向けて、新左翼各派はそれぞれにキャンペーンを繰り広げていた。学生だけでなく、反戦派と
呼ばれる労働者集団も戦闘的な街頭デモを展開して、革命前夜の状況を作り出すべく、10月から11月に
かけての闘争に全力を傾けよ、と呼びかけていた。(中略)
三島はその日をどういう気持ちで迎えただろうか。彼の構想を一度は受け入れたジェネラルたちは、その実行を
うやむやにする形で自分たちの身の安全を図ったが、断固とした態度で全面否定したわけではないらしかった。
三島は逃げ腰の彼らとの話し合いを続けるなかで、それでも状況次第では、自衛隊の治安出勤もあり得ると
考えていたらしい。(中略)
警視庁の当該部署に確かな情報源をもっていた三島は、当日の警備状況とともに、その日の街頭闘争が
どのような展開になり得るか、詳細な情報分析を事前に知っていた。(中略)
直前までマスコミによって盛んに報じられていた自衛隊治安出勤の可能性は、完全に断たれたのである。

山本舜勝
「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

291:名無しさん@3周年
10/04/21 23:22:18 /GjQwdQI
(中略)彼は、どのような形であれ、米軍占領による国の歪みを正し、民族の志を復活するためのクーデター
計画を実行することを決意していた。計画実行の当日になって、実現の可能性はほとんど残されていなかったが、
それが完全にゼロとなるまであきらめなかった。それは、最後まで力を尽くす誠でもあったが、あきらめの色を
見せて、部下たる「楯の会」会員の士気を損なうことの愚を知っていたからであろう。彼は真の武士であった。
(略)彼がその可能性を求め続けた「クーデター計画」を阻んだ者がいる。(略)一人は私である。(略)
第二に挙げられるのは、H陸将と藤原岩市である。(略)二階へ上げておいて梯子を外したといわれても
仕方ないと思う。(略)
さらに国際情勢も三島に味方しなかった。(略)キッシンジャーが密かに訪中の準備を始めていた。もともと
アメリカと関係の深かった陸将たちだけが、いち早くこの変化に気づいたのかもしれない。

山本舜勝
「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

292:名無しさん@3周年
10/04/21 23:22:48 /GjQwdQI
もっとも、自衛隊の部隊と私たち情報勤務者が一体となって、心底からクーデター計画実行に取り組んだとする
なら、三島の期待は実現したであろう。三島はその辺のところをはっきりと理解していた。彼が、私抜きでの
決起を想定した演習を独自に進めながら、絶えず私を計画に引き込もうとしていた理由の大半はここにある。
(略)根本的には同じ理想を抱く同志であった。いつも控えめに示す彼の情のほとばしりに、私は最後まで
温かい好意のようなものを感じなかったことがない。
(中略)自衛隊を本来あるべき姿、国軍として憲法上の認知を得させ、情報技術とシステム確立の下に、
不正規軍としての民間防衛軍を結成して機能させること。それは理想であり、これを長期的戦略を立て、広く
国民に浸透させることによって実現するという理想論が、現実にきわめて困難であることを、私は長い体験の
中で実感していた。(略)その意味では、10・21は、多少の無理はあっても、三島が主張したように、
二度と訪れないかもしれない千載一遇のチャンスだったかもしれない。

山本舜勝
「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

293:名無しさん@3周年
10/04/21 23:25:50 /GjQwdQI
―永遠に訪れてこない望ましい機会を待つよりは、不十分でも限られた機会に力を集中させ、知力をふり
しぼって、実現に力を尽くすべきではないか。あるいは悲劇的な、あるいは無様な結末を迎えることになったと
しても、座して様子をうかがうだけで、何事もなし得ないまま一生を終えるよりどんなにかましであるか。
三島の死に接したとき、私は過去に何十回、何百回となく自問してきたこの問いを、改めて自分に問いかけた。
(中略)―三島の真の決起は昭和44年10月21日に、果たせないまま終わっていた。(中略)
私は三島の行動の行く末と三島の身を案じる一方で、私自身の身の危険を感じていた。それを恐れていたことで、
私は三島に詫びたいと思う。三島は個人的なうらみで行動するような人間ではなかった。(中略)
最後の決起は、この国の行く末を案じるがための、捨て石としての死であった。自己の保身をのみ考えて
立とうとしない将官たちと、自らの運命に鈍感なすべての自衛隊員に対して糾弾し、反省を促したのである。

山本舜勝
「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

294:名無しさん@3周年
10/04/21 23:26:10 /GjQwdQI
昭和46年秋、三島の一周忌が近づいてきていた。せめて思い出につながる部下たちを集め、われわれだけでも
密かに三島を供養したいと思った。
11月24日、陽が落ち人の顔の判別がつかなくなる頃を待って、私は三島家の門前に独りで立った。(略)
私は、ただ合掌して唇を噛んだ。
翌25日夜、仮の祭壇を設け、私の手許に残った三島の遺品を供えた。部下の持ち寄りの供物をそなえ、
懐かしい三島からの手紙を朗読して読経に代えた。部下たちからすすり泣く声が洩れ、私も泣いた。
それが、私にできる本当に精一杯の供養であった。
そして、私の誕生日が来た。(中略)
私はその日、自衛隊調査学校の校庭の壇上に立って、学生や部下たちに別離の挨拶をしようとしていた。
「晩秋の巨雷とともに、私の夢も消えた」私は挨拶をこのように結んだ。
10代半ばの陸軍士官学校入学で始まった私の軍隊人生は、この日を以って終わった。(略)
三島由紀夫はもっとも雄々しく、優れた「魂」 であった。

山本舜勝
「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より


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