09/04/22 15:45:18 7+pzG17l
>>688
その見方は浅薄であろうと思います。
酷使以前は単純に、どちらが知的に見えるか夢があるかということ。
「私たちの、『あるべき』国家とは社会とは思想とは?」
新しい段階に飛び立つためには、自己検証自己検討自己批判自己否定から始まる。
しかし時に、夢を見過ぎたり、あまりに過剰な思い入れ自己否定を表明してしまう者が多かった。
その傍ら、日本独自の左翼思想というものがしっかりと根を張って育たなかった。
そして、右と左を見比べて「左であることは、格好悪く見える」という相対比較のみで
酷使は右寄りの味付けを好む。
「『今ここにある』私を、『今ここにある』国家政府を、あるがままに全力で自己肯定する。」
そこでは、知的であることも論理思考も問題にはされない、
ただひたすら「誰にでも通じる、見せかけだけの分かりやすさ」が求められるのであって。
知的触発や知的衝突や思考実験とは無縁であり、
そもそもそういうものを面倒くさがって敬遠している。