09/02/21 04:34:47 Q3wyWc1r
他者への著しい不寛容さ、弱者攻撃の感情を持つ彼らは、
「負け組」「弱者」「マイノリティー」がとことん不幸になることを望んでいる。
彼らの理想の体制は「負け組」「弱者」「マイノリティー」を奴隷化し、虐殺することができる体制である。
『人格的自由』『基本的人権』『平和』『平等・公正』なんてものは存在してはならない。
自分の暴力と我欲だけは全面的に正当化されなければならない。
俺を優遇する以外の改善はいっさい認めない。
そんな自己厨で陰惨な欲望を満たす国家体制を望んでいる。
「愛国心」を唱えながらも、その心には愛の欠片さえもない。
では、彼らのぞっとするほどの酷薄さは、いったいどこからやってくるのだろうか。
その前に、ネット右翼と反ネット右翼が望む社会をそれぞれ対比してみよう。
ネット右翼が望んでいる社会が、以上のような陰惨な社会であるのに対して、
反ネット右翼(リベラル派=社会自由主義者や社会民主主義者など)が望んでいる社会は、
人間の絆(きずな)、愛情、思いやり、連帯感、相互理解が重んじられる社会、
夢と希望に満ち溢れている社会、
すべての人々が安心して暮らせる社会、
将来不安の少ない社会、
そして、何よりも個人の尊厳が確保される社会である。
さて、ネット右翼の異常な酷薄さについてであるが、
そのような輩が台頭する背景には、貧困社会化(格差社会化)がある。
絶望した負け組・敗者は劣等感の塊となり、自分より弱者を探してイライラをぶつける。
弱者が弱者を、負け組が負け組を、貧乏人が貧乏人をバッシングするのである。
とくに、弱肉強食の社会経済原理と差別主義・排外主義が結びつくとろくなことはない。
それは歴史が示す通りである。
時の権力者は、二極化で“分裂”した国民を統合するために“敵”を作り出し、自民族の優秀性を観念的に注入する。
(この場合、国内のマイノリティー・弱者や他国が“敵”とされる)
搾取されたと感じる人々は、敵と教え込まれた者に対して憎悪を強め、
他方で、自分自身を政府や政権与党と同一視するようになる。
そのような人々は、たとえば、政府や自民党を批判する国内勢力の存在に我慢できず、
抑圧的な国家体制を望むようになるのである。
そうなると、富の再分配権を握る狡猾な支配層の思う壺である。