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喧嘩両成敗という、考えれば実に奇妙な論理が日本人のエトスを時として説明不能にする。この
原則に則らねば、場合によっては四十七士の討ち入りともなる。忠臣蔵は未だに日本人のメン
タリティに深く刻印されているのだ。
喧嘩両成敗であるならば、足を踏まれて足を踏み返すわけには行かぬ。ひとこと言いたいのを
ぐっとこらえて「いやいや、こちらこそあい済まぬ」。かくて成敗は免れて自己保身は全うされる。
被害者が加害者に謝罪する超論理はかくて日本人の特異な文法となった。
しかし、それでも疑問は残る。先に中国が日本の足を踏んだのか。それならば宮沢の謝罪は
この日本文法の正則である。しかしそうではない。発端は日本の一記者の妄想だった。忖度
するに、日本側の妄想と誤報によって中国が怒った。しかし、その怒りの原因が虚構であるな
らば、彼の怒りにはまことに虚に吼える犬のごとく、もの笑いの種ともなりかねぬ。
そこで宮沢は考えた。虚構を事実にしてしまおう。そうすれば中国様のお怒りはごもっとも、
彼の面子はかろうじて立つではないか・・・。いかにも「秘書官」の発想である。いや茶坊主とで
も言うべきか。
かつて自民党のニュー・ライト(新保守)、後にニュー・リーダーと称された一群の政治家に、
まるで本家返りしたような卑屈な封建的メンタリティを見出すのは不気味だ。それは精神的
鎖国に他ならない。
考えて見れば、先の大戦の後始末は条約レベルで解決済みだ。言い換えれば外交の文法に
沿って未解決の問題は大方消滅している。
ところが、宮沢「秘書官」の謝罪によって状況が一変する。