09/07/26 06:52:33 NEDgXJv40
大学区制だった札幌オリンピック以前の頃の話を書こう。
当時の公立普通高校は、戦前からの東西南北に戦後間もなく開校した月寒、昭和三十年代からの旭丘開成啓成の八校しかなかった。
入試難易度で言うと、①南 > ②北=西=旭=啓(理) > ③東=月=開=啓といった感じで、地下鉄の無かった時代で南以外は国道12号沿線ならば東、36号沿線ならば月寒と普通は交通の便で選択したと思う。
要は公立高校ならばどこでも私立よりは上ということで、どこに行こうとそれなりの優越感に浸れた。
三越デパートなどは他との差別化を図るために、女子店員は公立卒からしかとらなかった。そういう時代だった。
公立実業高校もすべからくどんな私立よりも上だった。大学進学率の低かった頃で、③クラスが十分合格可能でも、啓北商業に行く女子や札幌工業に行く男子は普通にいた。特に札工の建築科なんかは相当高レベルだったように記憶している。
あと意外に思われるかもしれないが、市内公立普通八校時代には恵庭南もそこそこのレベルだった。その後72年北陵73年藻岩74年手稲と新設されていくが、74年時少なくとも国道36号線田舎寄りに住んでいた奴らは、手稲よりも恵南を選択していたように思う。
希望学園札幌第一から北大にたくさん入るとか、隔世の感がある。その頃第一には自動車科通称ブーブー科というのがあって、高校進学を嫌う息子を車で釣って無理やり押し込んだものだったが、それでも普通科とどっこいの難易度だった筈だ。