10/04/01 17:40:19 bJJXB4kC
wikiの記述だけどこんな感じらしい。
だが、翌文久2年(1862年)2月、久坂の元へ送った吉村虎太郎から薩摩藩国父島津久光が精兵2,000をもって率兵上京するとの報がもたらされた。
久坂ら攘夷派はこれを攘夷のための挙兵であると解釈しており、吉村は半平太に脱藩して薩摩の勤王義挙に参加すべしと説くが、
半平太はあくまでも挙藩勤王の実現を目指すべきだと自重を促した。
吉村はこれに納得せず、宮地宜蔵とともに脱藩して長州へ向かい、次いで沢村惣之丞と坂本龍馬も脱藩してしまった。
龍馬の脱藩について半平太は後に「龍馬は土佐の国には収まりきらぬ奴。広い処へ追い放してやった」と語っている[25]。
半平太は東洋の専横を憎む守旧派の連枝山内大学・山内兵之助・山内民部、家老の柴田備後・五島内蔵助らと気脈を通じるようになる[26]。
半平太は穏当な手段での東洋排斥を彼ら連枝家老に説くが、山内民部の
「一人東洋さえ無ければ、他の輩は一事に打ち潰すこともできよう」との言葉を暗殺の示唆と受け取り決断した[27]。
これには来る4月12日に藩主山内豊範が参勤交代のため出立することが決まり、
東洋ら佐幕派に囲まれた藩主豊範が江戸へ上ってしまえば、久坂らとの三藩藩主勤王上洛の密約は水泡に帰すとの情勢の切迫もあった。