大河ドラマ「風林火山」Part151【BShiで再放送中】at NHKDRAMA
大河ドラマ「風林火山」Part151【BShiで再放送中】 - 暇つぶし2ch687:日曜8時の名無しさん
10/06/20 10:47:58 DPJqdbuc
山本勘助の名は(戦後に発見された市河文書を除き)『甲陽軍鑑』以外の戦国時代から江戸時代前期の史料には見えない。
勘助の生涯とされるものは全て『甲陽軍鑑』およびこれに影響を受けた江戸時代の軍談の作者による創作であると考えられている。
各地に残る家伝や伝承も江戸時代になって武田信玄の軍師として名高くなった勘助にちなんだ後世の付会である可能性が高く、
武蔵坊弁慶の伝承・伝説と同様の英雄物語に類するものとするのが史家のあいだでは通説である

元禄年間作成の松浦鎮信(天祥)の武功雑記によると、山本勘助の子供が学のある僧で、
わが親の山本勘助の話を創作し、高坂弾正の作と偽って甲陽軍鑑と名付けた作り物と断じるなど、
早くから世上に流布された名軍師としての存在を疑われることがあった。
ここでは、山本勘助という人物の存在は認めながらも、甲陽軍鑑は偽作であり、
軍鑑にあるような信玄の軍師ではなく、山県の家臣であると論じている。

明治24年(1891年)、東京帝国大学教授田中義成は論文『甲陽軍鑑考』を発表して、『甲陽軍鑑』の史料性を否定。
『甲陽軍鑑』のみに登場する「軍師山本勘助」の実在を否定して、勘助は山県昌景配下の身分の低い一兵卒がモデルであろうとした。
田中は『甲陽軍鑑』は軍学者小幡景憲が高坂弾正に仮託して書いた創作物であるとし、
『武功雑記』(肥前平戸藩主松浦鎮信著、元禄9年(1696年)成立)の記述を根拠として、
『甲陽軍鑑』は勘助の子の関山派の僧侶の覚書を参考にして書かれ、
この僧侶の覚書では顕彰の意味で父を誇大に活躍させており(この時代の家伝の類では通例である)一兵卒に過ぎない勘助が武田家の軍師とされてしまったと断じた。

実証主義歴史学の大家である田中義成の見解は権威あるものとされ、
田中の高弟渡辺世祐などもこれを支持して、以後は『甲陽軍鑑』を歴史学の論文の史料として用いることが憚られるような風潮となる。
活動はおろか名前自体がその他の史料での所見が無い山本勘助の活動もまた史実とは考えられなくなり、
更に進んで架空の人物と考えられるようにさえなった。

『甲陽軍鑑』に記された”山本勘助”と『市河文書』の書状に残された”山本菅助(やまもとかんすけ)”とを直接結びつける記録は発見されていない。
『甲陽軍鑑』の作者が実在の”山本菅助”をモデルにしているとの説も可能性の域を出ず、
架空の人物を創造した可能性とともに、今後の検証が必要である。



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