09/11/01 20:55:28 PRCpcFZF
>>370
直江勝吉が加賀に仕官する時は、利長や仕官を斡旋した藤堂も直江安房と呼び、
自身も利常からの知行宛行いに対する覚に直江安房と署名している。
当初は直江勝吉として加賀藩に仕えた。
幕府の隠密などと言うのは秀忠の乳母(春日局に限らず当時の乳母の力
は大きい)の子を斬ったことの重大性を軽視している。本人も加賀藩で
は「両御所様から勘気を蒙る者」「公儀日かげ」を理由に藩政トッ
プ就任を断り続けた。
兼続は政重には自分を補佐して藩を取り仕切る役、実子の景明には江
戸で対幕府交渉の要の役割を期待した。
加賀藩での本多家臣団は本多譜代、広島召抱、加賀召抱などさまざま
だが、中核は直江一族で与板衆筆頭の篠井ら米沢召抱衆からなる。
米沢時代の彼等の知行は計七千石に上る。景勝は本庄充長が没すると、
再三にわたって長房の帰参を求めるようになり、景勝の、他家に仕官
した者への帰参要求には抵抗感が感じられない。
藩財政の厳しい上杉家にとっては、政重の加賀仕官は禄減らしの効果
もあったと見ることができる。
『直江兼続の新研究』 「直江勝吉」に関する一考察 本多俊彦