09/11/24 23:08:58 enUCubvo
昇華する讃美歌
「そういえば……」
私は右手に持ったエナメルバッグを置いて、事務所に置いてきてしまった携帯電話を思い出した。
「取りに、行くのかな」私は私に聞いた。否定。
疲れているから。
夕陽が地平線に滑り込み、地球のほかのところに太陽がその生命を落としかけているこの時に、私は家に向かって歩いていた。
着ているのは学校指定のブレザー、ダッフルコート。
野暮ったいと不評らしい。私には興味がないが。
家に帰ってから事を考えながら、今日のことを思い出す。
髪留めを取ってレッスンをしていたら、彼が部屋に入ってきた。
彼は私に向かってタオルを投げた。
「どうも……」
「うん」
彼は壁際にあったパイプイスに座る。
何も言わない。
「どうしました?」私は首を拭く。シャツの中は後にしよう。
「いや、なに。ただ単に精神が動揺しているだけさ」
そう言って、彼は口にくわえたチュッパチャプスをかみ砕く。
「動揺?」
「うん」
ちょっと待ってみるが、話すつもりはないようだ。
私は少々困惑しながらも、当たり障りのないところを拭く。
「プロデューサー、私はシャワーを浴びに行きますが……」
彼は手をふった。私はそれを了解の意ととった。
スタジオを出て、扉を後ろ手で閉める。
その目の前を影が走り過ぎた。
その姿は十メートル先で角に隠れた。
おそらく千早か。
「千早!」
答えはない。
聞こえてなかったのか。それとも無視されたか。
私はシャワー室に行く前に、事務室を覗く。
そこには春香がいた。
「春香、千早がさっき走って行ったけど、何かあったの?」
春香は言いにくそうに「あー……」とだけ言う。
「そう、ですね。あったと言えば、あった、んですよねえ」
「……千早がプロデューサに告白でもしたの?」
春香は顔をへこんだスポンジのようにゆがませる。
「……う。なんで分かりました?」
「千早からプロデューサのことが好きだって言われていたから」
「うそっ!?」
「嘘じゃないよ」
私は春香に笑いかける。
春香は私から目線をわざとらしく外す。
「そうそう、春香」
春香が振り向く。「なんですか?」
「千早は春香のことは好きよ。だから言わなかったの」
彼女の表情が変わる前に私は彼女の顔を視界から除く。
私はシャワーを浴びて、誰にも会うことなしに社屋を出た。