09/07/13 04:21:35 m6peBlSS
エス氏は変わった人物だった。生まれてこのかた人前で怒った事がない、とても
珍しい男だった。
もし私を怒らせるような人がいれば、その時はどんな命令でも従うよ。約束する。
まあ私を怒らせるだなんて所詮無理な話だよ。エス氏は日ごろからそう断言していた。
会社の帰り道だった。
ほろ酔い気分のエス氏は自宅に向かって歩いていた。
「やあ、久しぶり」
突然男の声がした。
自宅まであともう少し。そんな時に背後から声をかけられて、S氏は一瞬ドキリ
とした。聞き覚えのある声だったのだ。
「誰だい?」
声をかけてみたが返事はない。歩き出してしばらくすると、再び背後から声がした。
「やあ、久しぶりだね」
「君は誰だい?いたずらなんだろ?一体何が目的なんだい?」
声の主に問いかけてみたが、やはり誰もいない。相手は結局姿を見せなかった。
おおよその見当はついていた。しかし彼が生きているはずもない。一年前に
死んだ男。怒りに震えた友人の顔を、エス氏は思い浮かべていた。
自宅の玄関前に辿り着いた時、酔いはすっかり醒めていた。ドアを開けて中に
入ると、耳障りな声はもう聞こえてこなかった。
家の中ならもう大丈夫だろう。風呂から上がったエス氏は再び飲み直すことに
した。冷蔵庫からビールを出した時だった。
「やあ、久しぶり。君はトンマだね。しかもとてもマヌケな男だよ」
まただ。怒りをあらわにしたエス氏は反撃に出た。
「さっきから一体なんなんだ。腹が立つったらありゃしないよ」
「そう怒るなよ。一年前君に殺されたぼくだよ」
「え?じゃあ君は幽霊なのかい?」
驚いたエス氏は声の主に向かい何度も頭を下げた。
「いいさいいさ、仕方のない事さ。生き返るわけじゃないしね」
「じゃあ君は私を許してくれるのかい?君ってやつは寛大な男だね」
「許すとも。ただ約束は守ってもらうよ。どんな命令にも従う例の約束さ」
「あ!しまった」
エス氏は会社で我慢している怒りの全てを自宅で吐き出していた。