08/08/06 23:00:12
落ちこぼれの法律家、君じゃないのか?
法律や法律家に対する悪口は、数え上げたらきりがない。「ローマ法大全は悪魔の聖書」、
「良き法律家は悪しき隣人」である。概念法学批判の先駆キルヒマンの「立法者が三つの
言葉を改正すれば、一切の蔵書は反古になる」という文句は有名だが、そこでは、「実定
法は健やかな木を見捨てた虫けらが巣くってうごめく病める木」で、うごめく「虫けら」
とは法律家にほかならない。それというのも、法律家の仕事の大部分は「実定法の欠缺や
曖昧さや矛盾、虚妄や古臭さや恣意にかかわり」、つまりは「立法者の無知や怠慢や興奮
を対象として、秀才までもが暗愚に仕えることをいとわず、その弁明に智慧と学識を振り
しぼっている始末」だからである。
いわれてみると、思いあたるふしがないではない。それどころか、キルヒマンの指摘には、
身につまされる思いの法律家も少なくないに違いない。その心情を吐露しないのが法律家
の徳とされるようだが、異例な制定過程から誕生した日本国憲法ともなると、その条文の
解釈とつじつま合わせに秀才たちが費やしてきた労苦は察するに難くない。さすがの智慧
も学識も及ばぬ段になれば、進歩派は理念に、保守派は現実に訴えざるを得ず、こうして、
憲法解釈は護憲から改憲かの信仰告白すら余儀なくされる羽目になる。
それはともかくとして、右のような悪口はそれほど深刻に受け止めるに及ばない。病める
木を健やかにする手立て制度的にも学問的にも整っているし、法律家には枝振りを剪定す
る腕前もあるからである。もともと「法律は善と衡平との術」であり、「法律学は神事と
人事に関する知識、正と不正の科学」とされていたことを思えば、「虫けら」や「悪しき
隣人」は、実のところ、法律家としても落ちこぼれなのである。