10/05/17 19:17:34 TYE2uqij0
逃げるも逃げないも力を入れるも入れないも、他の事に気をとられるも自由だ。
その後、人生の機会において差別を受けなくてはならないなんてありえない。
どのようにも機会が開かれていることが社会の多様性のためには必要なことだ。 それによって社会の活性が維持され、いろんな衝撃に際しての強力な重層構造の社会を保てる。
早い話、小学校から高校・大学前期まで、教育の初期から中期過程での学問・技芸の水準でプロとしての基礎課程としてあり得るだろうか。
音楽にしろ、数学にしろ、絵画・工作にしろ、小説にしろ、コンピュータにし、縫い物にしろ、料理にしろ、デザインにしろ、 漫画にしろ、スポーツにしろ、その他学芸・手仕事にしても、公教育は初等中等のそれらの修業に替わりになることができるだろうか。
それぞれに、別のルートを通じなければ、プロとしてのあるいは個人が必要に応じて求める一人前の成長のための、初期の準備と修練はかなわない。
学校というその程度の領域での出来がよいとか悪いとかに固執するなんて臍が茶沸かす。
単なる極めて限定された範囲での人の選別みたいなものに過ぎない。
近代国家の成員となるためのわずかな知識の伝授にすぎない。
だから、人生の芳情、社会の豊かさを保つためには、いろいんなコースのダイナミックな交錯ができる社会システムでなくてはならない。
差別的な不公平な運用がなければ派遣制度というのも、その豊かさに一枚を加えることになるのだが、それに関連する人間のあまりものさもしい心根、素寒貧な社会性がそれを台無しにしてしまった。
もともと、その出自が悪るすぎる。
この際、人生と労働、人の職業、人の生業、人と技芸、ライフサイクルの可変性、人生の機会、それの受け皿になるべき社会制度について、根本から考え直す必要があるだろう。