08/11/30 13:02:33 eyccJffL
さて、『現』=あらわれる 『幻』=まぼろし
において一体何がどう困るのか、さっぱり分からない。というか、文脈を
無視して単に「音」が同じということだけから問題をでっち上げているだけにしか
思えない。趣味でやってるなら、それはそれで結構なことかもしれないが、
実はそのことで重大な問題が隠蔽されてはいないのか。
くだらんこと、瑣末なこと、枝葉、そういうことにこだわるということは
重大なことに気づかないようになってしまっていることの裏返しである。
演劇やってて、コンテクストを無視してムニャムニャする理由が知りたい。
「ことば」にどんな意味でも込めるのが演劇なのではないか。そのための
コンテクスト作製を目指すのが演劇なのではないか。演技とか、そんなものだけじゃー
ないだろ?観客を巻き込んだ次元であるはずだ。そして、もちろん、その向こうにある
時代や社会という全体性を後景にしたり、あるいはその全体性を転倒させたり、いろんな
手口でコンテクストを作り上げ、「ことば」の意味を創造させていくのではないのか。
「ことば」はもちろんnonverbalにまで延長されることだろう。
一体、どう考えているんだろうか。