08/12/23 13:22:26 fNHUg0sn
いじめの有無、というと確かに、いじめられた側がいじめられたと感じたかどうか、という
定量しがたい、つまりは非科学的な感じの指標しかないのは確か。
だが、いじめの有無の証明となれば診断書などである程度は可能だし、学校の役割
の一つが勉強である以上、保健室登校などは学校から得られる利点を諦めてでも
避難しているという意味で定量的証明の一つと言えるでしょう。それでも苦しい面はあります。
たしかに「いじめている側」からしたら、いじめているという意識は皆無か、極めて希薄
だから、それについて指摘されても容認しがたいかもしれない。
いじめられたと称する側が単純に弱いだけだったりする場合も多々あるわけだし。
これらの方向から見たら、いじめという現象そのものを認めるのが難しいのは確かです。
では別の方向から見てみましょう。
いじめられた人が、心が癒えていじめから解放される一番良い方法はなんでしょうか?
いじめた人、と被害者が指摘する相手が、確かにこりゃ辛いことをしてしまったようだ、
悪かった、もしも立場が違ったらさぞ辛かっただろう、よくわかった。ごめんなさいと、
そう心から理解し、謝罪してくれること。これが一番だしこれ以外ないんじゃないかと
思います。
金銭的な保障とか、刑事罰や行政罰など、そうした報復的なものは本当のところは、
被害者の心を癒すことはありえません。どうしてもいじめた側とされる人々が認めない
から、社会的に包囲してでも認めさせたいという手段にすぎないのですが、それも
手段が有効でなければ効果は半減以下でしょう。
解決法がこのように明白かつ唯一なのだ、というところから「いじめ」を再考してみては
いかがでしょうか。そうすると、保障だの罰則だのに囚われない、もっと明るい認識として
いじめはある、しかし正していくことが可能で、しかもそれはたやすいのだ、という共通理解
を生み出していくことができるのではないでしょうか。