09/09/12 15:56:09
第四段階
こうした取引は、正規の証券取引所ではなく居酒屋で行われた。
取引において現金や現物の球根は必要なかった。
「来年の4月に支払う」「その時に球根を渡す」という手形ですませることができ、
わずかな内金で売買できた。
内金といっても現金とは限らず、家畜や家具など換金できそうなものなら何でも通用した。
その手形が取引をくりかえすうちに幾人かを経由していき、
債権者や債務者がどこの誰だかわからないという状況になりつつあった。
この先物取引システムによって元手がない者も投機に参加できた。
パン屋や農民までチューリップ市場に参加し、それによって需要がふくらみ、
安価な品種でさえ急騰した。
しかし価格の上昇に伴って、本来の買い手である植物愛好家が買わなくなっていった。
特に民衆が取引していた安価な球根は愛好家に見向きもされなかった。
第五段階(崩壊)
1637年2月3日、突然の暴落が起こった。
価格が下がったというよりも、むしろ買い手がまったく見つからない状態だった。
手形は不渡りとなり、支払いきれない債務を負った者は3000人ともいわれる。
オランダ各都市は混乱の淵に叩き込まれ、そこかしこで払え払わぬの押し問答、債務者の雲隠れがおこった。
いまやあらゆる債権者が同時に債務者となっていた。債務履行を求めて裁判を起こす者もいたが、
債務者に履行能力がないことは明らかであり、事態の解決に有効な手だてとはならなかった。