10/06/07 00:00:57 UaQXht7d
個人的には練馬営業所が残っていれば今の板橋区や練馬区の
バス路線(他社含む)もまた違った感じになったのでは?
927:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 00:08:25 UaQXht7d
つい最近知ったのですが、かつては草加でも
西武バスが走っていたそうですよね。
恐らくですが、昔エリア分けと言った名目で
バス事業者間の移管があったものと思われますが。
意外だったのが、国際興業バスが川越から撤退した事。
もし撤退してなければ、やもすれば今の東武バス川越営業事務所
が国際興業に移管されてたかもしれないな?とは思いましたね。
熊谷営業所が国際ハイヤー(現・国際十王交通)に移管される際
多くの利用者が国際興業がやるのか?と言った問い合わせが
殺到したと言った逸話もありましたね。
エリア分けと言えば、茨城県内の路線で
茨城県西部は東武系(朝日・茨急等)・東部は関東鉄道で
運営する事で決着を付けた話も耳にした事はあります。
928:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 07:02:07 RBCxPuQp
ぶっちゃけ東武バスのみの地域が東武じゃなかったら
こんなにも路線は廃止されてなかったと思う。
929:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 17:36:22 soYSQGA5
>>927
>かつては草加でも
>西武バスが走っていた
西武バスのルーツは昭和初期に浦和~鳩ヶ谷間の路線を運営していた事業者だったと聞く。
その絡みで草加まで乗り入れていたようだ。
930:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 21:22:24 VfVW3XmK
>>926様
このことについては時折耳にすることですが、当時はこの地域では基本的にこの事業者、という棲み分けが今以上に強かったこともありまして、各地で事業者間の路線調整というものが行われておりました。
そういった棲み分けや路線調整がなかったとしたら練馬の存続はあったかもしれないとは先輩から聞いたことがあります。
一度は他社局さんへ成増発着分の路線調整譲渡も検討されていただけに、東武新座管轄の成増駅発着分が今なお残っているのは当時の貸切配車地域関係のこともあったと記憶しております。
931:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 21:23:41 VfVW3XmK
>>927様
西武バスさんは>>929様が仰せの通りもともと現在の東浦和地域を主体とする「東浦自動車」として設立されました。
そのため鳩ヶ谷方面などにも多数西武さんの路線がありました。
草加、鳩ヶ谷~浦和地区の路線は1973年に国際興業さんと行われた路線調整により西武さんの路線ではなくなります。
仰せの「昔エリア分けと言った名目でバス事業者間の移管」ですね。
丁度この時代には東武でも一部地域において国際興業さんとの路線調整をいくつか段階的に行っております。
国際興業さんの川越廃止に関してですが、慢性的な渋滞に悩まされたのみならず、川越線の電化が大きな打撃を受けたようです。
さらに、もともと路線の規模は小さく、路線・貸切ともにそれぞれ10台程度配置されていただけで、傘下におさめていた志木分車庫の方が規模が大きかったことで立場が逆転してしまったそうです。
(志木は確か当時乗合だけで30台程度あったと思います)
一時は乗合部門を東武に移管する案も浮上しましたが(貸切だけは残すという話しもありました)やはり路線調整、エリア的なこともありまして川越駅・高萩・高麗川駅発分は西武さんに移管となりました。
川越-神明町間は実質的に東武へ統合された形ですね。
932:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 21:28:51 QxvTToNA
最近、北川辺に越してきたのですが、昔々はこの辺りにも東武が走っていたとか(今では旧町域にはバスは全く走っていませんが)。
路線・担当営業所はどんな感じだったのでしょうか?
その名残か、国道沿いに日野/帝国と思しき廃車体がありますね。
933:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 21:33:55 VfVW3XmK
訂正します
×=一時は乗合部門
○=一時は川越の乗合部門
余談になりますが国際興業さんの貸切バスですが川越ではかなり稼働率が高かったと記憶しております。
もう国際興業さん時代の名残というものはほとんどなくなりましたね。
あるとすれば水上公園線ぐらいでしょうか。
霞ヶ関団地(現かすみ野)方面、三光町などに停まっていた時代を懐かしく思い出します。
おっと、東武バスの話題から国際興業さんの話題になってしまいました。
934:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 21:44:33 VfVW3XmK
>>932様
私の知る限りでは東武ですと柳生駅~館林線、柳生駅~新古河駅線を思い出します。
また新古河駅からは境、山田、岩井、沓掛、下妻、土浦、さらには野田市方面まで伸びていた時代もありました。
担当営業所・出張所は館林、境、幸手、岩井、古河の各所だったと記憶しております。
935:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 22:31:55 QxvTToNA
>>934
ありがとうございます。
うはw
下妻!土浦!野田!!!
境とか岩井は、どっかで聞いたことがあるけど、まさか土浦とは…国鉄の南筑波線の上を行きますね。一体何時間かかるんでしょう?乗りてー!
しかし、こんな田舎の小駅からなぜこんな長距離路線が…古河からなら分かりますが。
ちなみに、これらの路線はいつ頃まであったのですか?
936:名74系統 名無し野車庫行
10/06/08 00:24:05 DsrnmVK9
話はずれますが
川越営業所志木分社庫は何時だったか忘れましたが
(1994年ごろ?)西浦和営業所開設に伴い閉鎖になったと記憶しています。
志木は今でも大宮地区同様群雄割拠状態にありますが
かつての練馬営業所(新座営業所練馬出張所等)を語る上では
重要なファクターになってくるのではないでしょうか?
932さん>
恐らくその廃車体は東武博物館にあるやつと同じ
もう一つの「蔑称(べっしょう)」である「囚人カラー」ってやつ
だったと思います。
935さん>
いずれの路線も1980年代後半には姿を消しているはずです。
そういえば、館林営業所は今どーなってるんでしょうね?
937:名74系統 名無し野車庫行
10/06/08 02:32:54 eUkGiIC3
選手のバスイベントに現れたこの車、
URLリンク(halfzero.sakura.ne.jp)
この画像車の方向幕は(新島車庫)となってるが、
問題はこの車がこの塗装で熊谷車庫に導入されていたかは?の疑問符が付きます。
確かに熊谷営業所はいすゞ車が主体の車庫だったが、この塗装の車を熊谷地区で見た記憶が無い。
この仕様車だと確か、西柏・沼南・越谷・野田・新座あたりの各車庫に導入され、
一部車両は当時のつくば85、科学博覧会(いわゆる万博車)のシャトル路線にも活躍していた。
確かこの車が出た後、東武バスでは現行カラーのオレンジ色が採用され、一挙に新塗装車の同型車が大量導入された。
因みに前中扉の旧塗装のLV314は確か存在しなかったと思った。
もし当時の路線車に詳しい人がいらっしゃったら、追筆をお願いしたい。
938:名74系統 名無し野車庫行
10/06/08 06:10:17 vny5MnWU
>>937
LV314は東松山には新製配備されていた。
東松01で東松山~熊谷の運用があるので、それに付随して入出庫用の熊13表示があっても不思議ではないと思うが。
当時、熊谷駅で東松山所属の5Eを見て「東松山は新車が入ってていいなあ」と思った記憶がある。
939:名74系統 名無し野車庫行
10/06/08 07:29:39 dN+YCABm
>>937
確かこの車は新製時からオレンジ塗装で、画像の青塗装は経験していないと思います。
5E銀サッシグループの最末期の車ですよね。
ちなみに方向幕と車は別物ですよ。
しかし側面の広告枠を撤去するだけで印象だいぶ変りますね。
(と思うのは私だけかな・・・)
熊谷に5E前中扉で青塗装の車は居ましたよ。
幼い頃の記憶なのであいまいですが、たぶんCJMじゃなくてLVだったかと思います。
間違ってたらすみません。
940:名74系統 名無し野車庫行
10/06/08 09:27:35 5PKTfUK3
平成元年頃に都内から熊谷に転属したLVは新塗装の初期グループばっかだったような。
クリーム色がちょっとくすんでるやつね。
941:名74系統 名無し野車庫行
10/06/09 18:10:22 A8q8C8wu
久喜在住の者ですが、最近、幼い頃に走っていた東武バスのことが気になってしまって…
いろいろ調べては見たんですが、分社化や個人サイト閉鎖等でなかなか昔のことが乗っているサイトは見つかりませんね。
そこで、S61年発行の『久喜市総合振興計画』なるものを見つけてきたんですが、これによると、
久喜駅西口~清久駐在所(停留所数12)という路線がS57年まであったようですが、ルートや停留所等ご存知でしょうか?
ちなみに久喜駅西口~菖蒲上町線は市内停留所数14となっています。
(現在は久喜上町・西浦が増えて16ですが、『統計くき』では15になっています)
それと、付録の経路図(駐在所ゆきは載っていません)に青葉団地~幸手駅線が書いてありますが、
現在と違って、団地を経由せず、直接幸手・久喜線方面に向かっています。いつ頃までこの経路だったのでしょうか?
ご存知の方、ご教授いただければ幸いです。
942:名74系統 名無し野車庫行
10/06/09 20:42:57 4bozDO+K
>>941
久喜駅西口~清久駐在所は[久01]扱いで、[久01]本線の久喜駅西口~菖蒲上町の折返系統相当だった。
昭和55年現在では以下の通り。
久喜駅西口-中央4-本町2-中学校入口-橋戸-上早見-清福寺-高木医院-谷田向-橋場-清久駐在所
終点停留所名だけ違うが、今の朝日バスと同じ経路だったのでは?
943:名74系統 名無し野車庫行
10/06/09 23:28:15 A8q8C8wu
>>942
細かいことまでありがとうございます! ところで、清久駐在所って現在の場所(市内循環バスの停留所もありますが)と同じですよね?
そうすると、駅から来て、橋場で折り返して駐在所ということでしょうか?
私は駅から来て谷田向のすぐ先で曲がるものだと思っていましたので、どうも停留所数が合わないなと思ったわけです。
で、お教えいただいた昭和55年時だとまだ1つ足りませんが、55年~57年の間に清久農協前ができたのでしょうかね?
そうだとすれば停留所数は合います。
944:942
10/06/10 02:30:46 +wmWNZzl
>>943
清久農協を書き忘れてました。
-谷田向-清久農協-橋場- が正解。
折り返し場の位置は正確なところは不明・・・
あとは、本町2は本町1の誤記かも。
945:名74系統 名無し野車庫行
10/06/10 20:52:56 1tEovVnO
>>943
URLリンク(w3land.mlit.go.jp)
折り返し場が見当たらないので、すぐ上の工場で折り返していた?
清久駐在所折り返し便が朝夕のみの運転なら説明がつくが…
946:943
10/06/11 00:22:22 +sVNEtmC
>>944>>945
↓ここは違いますかね? ただの駐車場?
URLリンク(map.yahoo.co.jp)
947:名74系統 名無し野車庫行
10/06/11 06:20:55 DRmyDJmq
>>934さん
948:名74系統 名無し野車庫行
10/06/11 06:44:09 DRmyDJmq
失礼しました。
>>934さん
新古河の件ですが、いつ頃のお話なんでしょうか。
私の知る限りでは、新古河には大町(栃木)の車が待機目的で乗り入れしていた位しか知らないのですが・・・
当時、古河には境の古河出張所がありましたが、古河の車は、車庫から野木明神を回り東口から栗橋に向かう路線と西口から下妻、結城、自衛隊方面の路線を持っていたかと思います。
東口は現在と異なり、駅前までバスが入れず手前の操車場にてターンテーブルで転向していました。
この為、長い時間待機が出来ない事情があり比較的スペースに余裕がある新古河に逃がしていた経緯があります。
栃木(大町)~部屋~古河線と、館林~古河線、小山~間々田~古河線などが新古河に逃げていたようです。
あと土浦ですが、北条~土浦間の路線があった事は聞いておりますが、古河周辺からと言うのは初耳ですね。
949:名74系統 名無し野車庫行
10/06/11 10:22:31 YGO4iR87
西口と東口が逆
950:名74系統 名無し野車庫行
10/06/11 13:20:19 DRmyDJmq
>>949
> 西口と東口が逆
寝呆けてました。
すいません。
951:名74系統 名無し野車庫行
10/06/11 20:38:19 hc6AXLFp
>>932様・935様
東武博物館で保存されておりますバスに採用されていたカラーですが、社内ではよく「シマウマカラー」と呼んでおりました。
昭和45年に青×クリームへ切り替わるまでこの塗装が続けられました。
貸切も基本的にはこのカラーベースで、カーブのデザインもあったことから「シマウマカーブ」などの言い方もありました。
なお貸切では昭和43年に現行より数えて4代前、R3カラーの前のデザインである白×濃紺×水色のカラーに変更されております。
952:名74系統 名無し野車庫行
10/06/11 20:39:22 hc6AXLFp
>>937-939様
いすゞLVの5Eで旧塗装の青×クリームで新製配置された車両は1985年導入の前期分のみになります。
熊谷ですが、手元の記録ですと社6824号車のほか数台が青塗装のまま熊谷に転属した後、現行塗装に塗り替えられております。
また一部号車で熊谷管内と東松山管内両方の方向幕を装備していた車両もありました。
これは実を申しますと当時行われた「さいたま博覧会」関係による車両の貸し出しが実際に行われた際、間合い運用で熊谷管内でも使用できるようにと装備したものです。
また、前中扉車で青塗装のLVはなかったものの、CJMの5E車ですと青塗装の前中扉車はありました。
何故LVの前中扉車で青塗装車が登場しなかったかと申しますと、>>937様が書いておられますように、当時のつくば万博輸送向けにも車両を確保する必要がありました。
そこで使用する車両はまとまった車両数必要であり、成る可く仕様を統一すること、また万博終了後各地に転属することを踏まえ、前後扉車が選択されました。
確か東武で路線車による輸送では次に挙げる4区間のシャトルバスに割り当てていたと思います。
水海道駅~万博西ゲート間=柏・境担当
万博中央駅~万博北ゲート間=境担当
万博南ゲート~場外駐車場間=境・下館担当
エキスポセンター~つくばセンター=境担当
連接車(スーパーシャトルバス)の担当は沼田からの応援要員により担当しました。
確か東武の連接車担当分は他社局さんの担当分と同じく5台だったと思います。
953:名74系統 名無し野車庫行
10/06/11 20:40:57 hc6AXLFp
>>940様
新塗装で登場しました1985年式と1986年式の一部で下地が濃い色ですが、この色は「シェルホワイト」と呼ばれる色で、当初濃いめであったのは色褪せ対策であったと聞いています。
しかし濃いめでなくても大丈夫だと言うことがわかり現在と同じ明るめのシェルホワイトになったと当時聞きました。
なお、この話は前にも書きましたが、新塗装については「フレッシュスタート60運動」という社内運動のもとで行われました。
当時の塗装変更は更新対象となっていた経年車及び貸切格下げ扉増設車より進めていきましたので、社6824号車のように、LVでも後年まで青塗装が残ったのものと思います。
954:名74系統 名無し野車庫行
10/06/11 21:00:04 hc6AXLFp
>>948様
新古河~土浦間の直通運転ですが、私が入社する以前ですが昭和40年代後半まで続けられていたと聞いております。
その後は途中で分断されていたのは覚えておりますが、入社した頃には本数もかなり減少していたはずです。
新古河~柳生間も結構早くに廃止となったはずです。
ただ、古河、栃木管内の話しは私もうろ覚えでしかないので、自宅の奥にある資料を引っ張り出して調べてみようかと思います。
955:名74系統 名無し野車庫行
10/06/11 22:18:33 63RfFhuh
>>932です
いろいろご教示ありがとうございます。
過去の東武バスの栄華、興味は尽きませんね。
ここはバス板一の良スレだ。