10/05/23 01:11:34 thRLLJiX
NHK
コンピュータ会社は伏せてるけど、東武はバス会社って言わないのねw
でも赤城はタクシー会社。
901:名74系統 名無し野車庫行
10/05/23 08:12:46 TCl5Nz5G
>>899
むしろ東武は当時富士重工の株主でもあったしね。
注文しやすい手前もあったのだろう?
そうでなきゃエルガの7Eバージョンなんか作らないしね。
902:759
10/05/24 17:32:16 hqPcgYkz
>>899様
仰せの通りです。
もう何カ所かで出ている話ですし、それこそ25年以上昔の話しですのでこの機会に書き込ませていただきます。
手元の記録と併せてですが、1984年、いすゞさんが新型路線バスを発表する際、かなり斬新なデザインになるという情報がありました。
この時代は試作の段階で1枚窓を採用するという情報が既に出ており、どんな窓構造になるか業界全体の注目を集めました。
何しろこの時代スケルトン車体が大流行した時代ですが、路線車で1枚窓など常識を打ち破る話しであったことは事実です。
そこでいざ、導入に際して出たばかりのキュービック(純正車体車)をメーカーにてテストしてみると、テストに携わった運転士や車両担当者の間から、その独特な窓構造に異論が出ました。
これが後々のように2枚窓を選択できるようになっていればよかったのですが、1枚窓と両脇の飾り窓の間にあるピラー部分が視界を遮ってしまい、巻き込み確認がしづらいという意見が多数ありました。
ワイパーの構造についても当時貸切車で少しずつ見られるようになった見られるオーバーラップ式ということもあり、それまでの一般的な平行連動方式でないことから、これでは運転しにくいという問題がキュービック導入に際して議論されます。
また何かあった際など、保守面でも1枚窓より2枚窓の方がいいという意見が多数出たのも事実です。
これは東武に限らず全国の事業者さんの間でもずいぶんと当時聞かれたことでしたが、とにかく斬新なスタイルは当時大変注目を集めたことも事実です。
(もっと言えばキュービックのデザインは時のフランス・ベルリエ社製のバスに大きく影響を受けたということでも色々と話題を集めましたね)
ただ当時富士重工業車体を載せる事業者さんは多数ありましたし、富士重工業車体を架装することはいすゞさんも当初から検討されていましたので、キュービックシャーシに5E車体架装車が出るまで時間はさほどかかりませんでした。
>>901様が仰せの通り、東武が富士重工業の株主であったことも大きいかと思いますが、富士重工業さんなら、何かあったときのアフターサービスもすぐに受けやすい地域ということもあっての選択でもありました。
部品・修理等のアフターサービスの良さはスバルカスタマイズ工房になってからも変わらず素晴らしいものです。
903:759
10/05/24 17:33:26 hqPcgYkz
>>900様
取材の話しについてもいくつか聞いておりました。
公共放送と言うこともあり、社名は出来る限り伏せたいという意向が当時は今以上に強く、映像でも出来る限り「東武」の部分が出ないように撮影されておられました。
当時聞いた基準として、不名誉ながら事故などの場合には社名が出ることもありましたが、それ以外ではご承知の通り公共放送の性質上「公正公平の維持」ということからも宣伝になってしまうと言うことでなるべく出さない、伏せるのが基本ということでした。
(確か取材時の説明書類にも書いてあったと思うのですがその書類を紛失してしまいあやふやな記憶で申し訳ありません)
時の群馬運輸事務所の所長が出演した部分だけに字幕で「東武バス群馬事務所長」と出ていたのは影響力のある公共交通機関ということで特別だったらしいのですが、群馬観光タクシーの場面には社名が出なかったですね。
その際他の先輩から聞いた話しでは、「東武鉄道バス事業本部」とか出る話もあったようですが、結局「東武バス群馬事務所長」で落ち着いたと聞いております。
このほかには栃木県内での動き、確か新宿-鬼怒川線開通時でも取材を受けたことがありましたが、やはり社名は共同運行会社の関東さんとともに伏せられておりましたし、超低公害車である社2517号車を最初に導入した際も伏せられておりました。
904:759
10/05/24 17:36:46 hqPcgYkz
>>901様
エルガ(キュービック)ノンステップ車シャーシへの架装についてですが、これには大変な紆余曲折がございました。
1996年にいすゞ車体がいすゞ100%出資会社になってから、いすゞ車における他社製車体の架装は改造扱いになってしまったことが大きいかと思います。
この頃からメーカー純正(指定)車体への一本化がより進んだことにより、富士重工業車体を好んでいた他社さんでも、メーカーから純正車体採用のおすすめをかなり受けるようになりました。
奇しくも同年の中型ワンステップ車導入に際して、では1台純正車体で入れましょうか、ということで導入したのがあの社番2475号車になります。
CJM500最終の社番6801号車以来、路線車での純正車体導入は実に12年ぶりのことでした。
その際はまだキュービック時代で、導入に際しては正面窓の2枚窓でなければ純正車体は導入できない、ということで要望した結果、あの「東武面」キュービックの登場と相成りました。
その年以降も東武面でのキュービック導入を行っておりましたが、いよいよノンステップバスを導入という段階になった際のこと。1998年のことです。
これは他所にも出ていたのでこの機会に書き込みますが、東武としてもできれば富士重工業車体でノンステップを導入したいと強く要望していたのも事実です。
時期的には日産ディーゼルさんから7E車体でノンステップ車が発売されており、キュービックノンステップでもなんとか7E車体架装ができないかと要望しました。
しかし架装設計に時間がかかるなどの問題、さらにはエルガ設計への移行期などもあり、キュービックノンステップでの7E架装は実現できませんでした。
(希少例としてキュービックノンステップでは西日本車体工業車体架装例がありますが)
2000年のエルガ発表前後、メーカー側はいわゆる「エルガ標準仕様」を展開していきたいので、車体についても純正車体をお願いしたいという話しでなかなか実現しませんでした。
しかしながら粘り強く富士重工業さんとも交渉を続け、長年富士重工業車体を架装し続けてきた東武には特別にいすゞさんから富士重工業車体の架装許可が認められたと聞いたときには関係者は大喜びでした
(同じように認められた京成さんも大喜びだったと聞いています)
それも束の間、富士重工業さんが車体製造から撤退すると聞いたときには大変戸惑いを隠せませんでした
事情、理由につきましては皆様ご承知の通り、また詳細についてはバスラマインターナショナル誌等でも掲載されていたとおりです。
日産ディーゼル工業さんが西日本車体工業さんへ車体製造委託一本化がかなり大きく、こうなったら最後の最後に導入するときは1台でも多く発注しよう、ということであれだけの導入となりました。
時期的にも丁度排気ガス規制やノンステップ車の大量導入を求められていた時でして、また分社化前後でいろいろと厳しい時期、コストダウン仕様になってしまいましたが、現場でもやはり富士重工業の車体は安定していると評判は昔から変わらず高いようです。
余談になりますが東武におけるエルガの純正車体搭載車はご承知の通りCNG車からの導入となりましたが、他社局さんで7E車体に日産ディーゼル製CNG車のケースが一定数あり、東武でもいすゞCNGエルガに7E車体を架装したいと要望を出します。
ですがCNG車の場合、保安規制等による車体の設計が富士重工業さんで時期的に間に合わず実現できませんでした。
もしも富士重工業さんの車体製造が続いていたらいすゞCNGエルガの7E車体版が出ていたのかも知れません。
905:名74系統 名無し野車庫行
10/05/24 20:46:06 68UqYI7H
>>904
あの頃は富士重車体のエルガは日光営業事務所以外は各営業所
一台は配備してましたね。
どんな運命の巡り合わせだったのでしょうか、天沼に配備された
3台が富士重で生産された最後の路線車になるとは。
東武バス分社化と富士重バス撤退、今思うと一つの時代の終焉にも
感じずにいられませんよね。
7Eベースの前中後扉のノンステップバスも、プロトタイプで
東京地区で数台入れてたらある意味面白かったかもしれませんが。
906:759
10/05/24 23:55:46 hqPcgYkz
>>905様
日野指定の営業所にも入れる話しを聞いて正直現場ではかなり驚きもあったようですが、大歓迎だったという話しも耳にしております。
確かにHRノンステップも良い(パワーがある等)部分はありましたが、詰め込みと安定性では富士重工7E車体にエルガノンステでは叶いませんからね。
しかもハンドルの切れが良いいすゞということでたいへん評判がよかったようです。運転士の中には久々にいすゞ車を運転する運転士もいたのですがやはり富士重工業車体には太鼓判を押しておりました。
導入の際は仰せの通り分社化と富士重工業車体製造撤退が重なったというのも奇遇でありましょうか。
プロトタイプでの導入についても実際検討していたのは事実でして、キュービックノンステップシャーシへの架装が早くに認められていればまた流れは変わっていたかも知れません。
907:名74系統 名無し野車庫行
10/05/25 19:12:52 V4Vq+EsB
草加にいた日野+7Eが単発で終わって継続しなかったのは残念だった
908:名74系統 名無し野車庫行
10/05/26 15:03:43 3/tjDYqY
>>907
阪東、茨急はKC代まで導入されたのにね。
909:名74系統 名無し野車庫行
10/05/26 19:17:49 elDDeKbG
話の話題を変えるようで申し訳ないのですが
前々から気になっていたのですが、東武バスの練馬車庫について
知っていれば、ご教授して頂ければ幸いです。
自分が調べた範囲では池袋駅北口(恐らくホテルサンシティのある辺り)から練馬車庫の路線や
成増駅発着路線を受け持っていて、池袋方面の路線が廃止になって
成増の路線が新座に移管されたという話です。
910:名74系統 名無し野車庫行
10/05/26 19:20:03 9ssvKN2z
>>909
つ新座営業所練馬出張所
911:名74系統 名無し野車庫行
10/05/26 19:23:59 85DvD/rl
>>910
練馬ナンバーの東武バスが昔いた
912:759
10/05/26 23:40:10 6tRLg9wy
>>907-908様
日野車に7E車体を架装した例といたしましては仰せの通り1990年導入、社9198号車~社9204号車の合計6台が最初で最後のケースになってしまいました。
それまでは路線車でも数年ペースで2~3台程度日野シャーシに富士重工業車体の架装例がありましたね。
貸切車に至ってはR3車体での架装が日野車でも毎年のように行われておりました。
そのため現場からは日野車体も良いが富士重工業車体の架装もという要望が出されていたのも事実です。
ただ日野車の場合、東武では大多数は以前から日野純正車体を架装した車が多かったことも、富士重工業車体の架装例が少なかった要因の一つにあるかと思います。
(一時は 日野車体6:4富士重工業車体 ぐらいの割合でしたね)
そう考えてみますと阪東、茨城急行は以前からシャーシ・エンジンメーカー問わず車体は富士重工業車体の架装例が多かったですね
913:759
10/05/26 23:42:29 6tRLg9wy
>>909-911様
練馬の概要につきましては私もあまり詳しく存じ上げているわけではございませんが(私が入社する前に廃止となってしまった営業所です)
以前は池袋駅発着の東武バスがございまして、路線地域で申し上げますと東上線池袋-志木間地域、現在で言えば新座管轄地域の路線を受け持っていた営業所です。
練馬の発足は手元の資料を見ますと1963年4月1日新設、同年4月16日の開所となっておりますがこれは元々西新井営業所豊島出張所を独立(機構改正)させたものです。
従来の豊島出張所はその後も練馬営業所の管轄出張所として残りましたが、1974年8月20日付で廃止となっております。
その練馬営業所ですが、新座に新しく営業所が出来ることとなりまして、1969年5月11日の新座営業所発足と共に出張所化されます。
廃止は1978年9月1日付となっております。
当時、練馬の受け持ち路線というのはまだなかった地下鉄有楽町線のエリアなどにも路線が延びておりました。
あの東武啓志線「グランドハイツ」へ向かうバスも練馬の担当でありました。
手元で記録している主な路線は次の通りです(間違っていたら指摘お願いします)
・池袋~成増・上板橋・グランドハイツ
・常盤台~赤羽~川口・大師前・西新井
・成増~グランドハイツ・東牛房・モモテハイツ・埼玉病院・川越(勝瀬経由)
・大和町(現和光市)~新倉坂下・西大和団地
他にも新座営業所の前身にあたる志木出張所との共同管轄路線が多数有ったと思います。
現在練馬の跡地ですが、社員寮が東武興業タクシーの営業所として利用されております。
余談になりましたが、東武鉄道65年史の481ページには池袋東口の乗り場が写っている写真も掲載されております。
公式写真でも池袋東口で東武バスが発着している様子を納めた写真というのは非常に少ないと聞いております。
もし機会がありましたら是非ご覧になって下さい。
914:759
10/05/27 00:05:37 JW8oOTBT
訂正いたします
×=以前は池袋駅発着の東武バスがございまして
これは今も厳密に申し上げますならば西口から深夜バスが出ておりますね。
大変失礼いたしました。
この機会にちょっと深夜急行バスの話を書いておきます。
この深夜バス開設にあたっては、池袋から東武バスが撤退して約十数年後の復活と言うことで当時を懐かしむ先輩の話を聞いたものでした。
そのときに当時のエピソードなどをいくつか聞いたのを記録にしていたものです。
やはり社内でも池袋発、上野発で東武バスが深夜急行バスとはいえ復活という時にはいろいろ感慨深い先輩方も居られたようです。
何しろ他社局さんの既存停留所間借り申請から始まり、当時は今と違って路線申請には大変な労力と時間を費やしました。
開設時、どうなることかといろいろ心配もしましたが、いざフタを開けてみると非常に好評、今もなお評判がよいとのことで、当時を知る私たちにとっても嬉しい限りです。
915:名74系統 名無し野車庫行
10/05/27 01:13:34 Qq2bZ0L8
>>910-911、>>913(759)氏
909です。お答えいただきましてありがとうございます。
練馬車庫について気になったのは、都営系の大御所のサイトで
駅別系統番号一覧と言うのがあり、そこで東武にも池41池袋駅北口~練馬車庫という路線が
あったんだというのがトリガーとなります。
今回知った練馬車庫の廃止時期が1978年と言うことを考えると意外と長く残ったという印象がありますね。
幼少の頃、赤羽周辺で高崎線の車内から東武バスを見た記憶があったような気がします。
後、東武鉄道東武鉄道65年史の481ページですが、東京都交通局と共同運行していた越谷行のような気がします。
916:名74系統 名無し野車庫行
10/05/27 03:32:38 1F2DJLfP
話をむしかえして申し訳ないが、貸切落としに中扉を新設する際
4枚折り戸に出来なかったものかなあ?
恐らく相当補強を入れざるを得ない事になるだろうけどね。
>>912様
これは富士重工関係者の方からお話を伺ったのですが
日野車体の方が自分たちの作っている車体よりも造りがいい
という事だそうです。
事実、リニューアル等で入ってくる事があったそうですが
その時色々細部まで検証した事もあったそうです。
富士重工バス部門は撤退後、スバルカスタマイズ工房として
既存車両のアフターサービスをやる傍ら、他社車体の
リニューアルも手掛けているそうですね
(西日本車体解散後は恐らくアフターサービスの受け皿に
なるものと思われます)
足●自修の方に話を聞く事が出来たのですが、東武系ですと
リニューアルは富士重工、完成検査を自修で行ったケースも
あるそうです。
917:名74系統 名無し野車庫行
10/05/27 17:05:14 bmL08UeV
>>759様
東武はなぜ三菱ふそうと取引しなかったのでしょうか?
東野はエアロスターは純正ボディー、富士ボディーで、エアロバスは純正ボディー、
朝日はエアロミディ、阪東はエアロスターを純正ボディーで導入しているわけですが・・・
東武カラーの純正エアロスターや7E、7HDを架装した三菱車を見たかったですね・・・
918:名74系統 名無し野車庫行
10/05/27 21:38:12 k1mN+pSS
>>915様
練馬車庫の出入り系統ですが最後まで池袋方面に行っていた記憶があります。
また赤羽ですが、間違えなければ、当時は常盤台~赤羽線、赤羽~西新井線もあったかと思いますので、その様子をご覧になったものでしょうか。
65年史の写真は草加行か越谷行か、はたまた西新井行か分かりませんが・・・
>>916様
この中扉改造に関しては当時図面を見た記憶の限りですと、採用された折り戸案の他、仰せの4枚折り戸案、引き戸案などいろいろとあったようです。
しかし4枚折り戸についてはやはり補強関係と定員数の問題から不可能になったほか、引き戸式では補強工事はさほどでなくても改造にかなり手間取るということ、また廃車部品の有効活用と言うことで通常の2枚折り戸式となったと記憶しております。
日野車で富士重工業車体を架装した例が少ない例の話し、日野純正車体の方が良かったというのは意外なことでありました。ご教示いただき、有り難く存じます。
確かに富士重工業さんはいろいろと勉強されておりました。足利自修で行った貸切格下げの扉増設工事にも富士重工業さんの方が時折見学に見えていたのは事実です。
昔は一定年数経過すると行っていた更新工事は当時台数の関係で足利自修のみでは間に合わないため、富士重工業さんにも入場したことは覚えています。
路線車の更新工事は多いときですと半数近くが富士重工業さんで行っていたこともありました。
919:名74系統 名無し野車庫行
10/05/27 21:57:12 k1mN+pSS
>>917様
三菱ふそう車両を導入しなかった理由というのは、私も余り気にする方ではなかったので先輩から聞いたことなどぐらいしか分からないのですが。
戦後、ガソリンエンジン時代~ディーゼルエンジン車普及期にいすゞ、日野、ニッサンの3社を導入していたことに端を発すると聞いたことがあります。
その時代もそうですが、やはり車両導入コストの問題が大きかったようで、ディーゼルエンジン車の比率が多くなる頃には、都市部はいすゞ、地方・山間部は日野、という棲み分けが出来て、以後、日野、いすゞの2社の車両購入が基本となったようです。
但し、三菱車両を入れなかったわけではなく、少量ですが、日光・鬼怒川地区には1960年代後半に二代目ローザを小型貸切用として10台近く導入し使用したこともありました(社番はちょっと不明ですみません)
ローザは末期に1度だけ見たのですが、社番表記が書いて居らず、塗装も貸切旧々塗装(シマウマカーブ塗装)を纏っておりました。
今考えれば当時は富士重工業車体を架装した三菱車は結構他社局さんでもありましたから、出来なかったわけでないでしょうが、保守面の問題などもあって導入をしてこなかったのではないかと思います。
920:名74系統 名無し野車庫行
10/05/27 22:02:50 rBFapDK+
>>918
取引先の会社に謙譲語使うな
921:名74系統 名無し野車庫行
10/05/28 17:29:08 JXeryQT8
>>759様
同じように富士重工ボディを好んでいたお隣の京成には三菱ふそうとの組み合わせが
多かったこともあり、淡い期待もありました。
しかし、結局導入されることはなかったので過去に東武と三菱ふそうで何か揉め事があり、
それが尾を引いているのかと思っていました。
ありがとうございました。
922:名74系統 名無し野車庫行
10/05/30 11:59:09 ruO/ToUR
759さん:
昔、日光と前橋にいた日野REの前後ドアで、補助席が付いてたのありましたよね?
子供心にすごく覚えていて聞きたかったのですが。
923:名74系統 名無し野車庫行
10/06/02 15:08:29 kf8KZhyY
>>913
×グランドハイツ
○グラントハイツ
→アメリカ合衆国第18代大統領ユリシーズ・グラントに由来。
参考までに東武啓志線の名称は、グラントハイツ建設時の工事総責任者のケーシー中尉から。
924:名74系統 名無し野車庫行
10/06/06 21:56:10 ikrl5+Qz
>>922様
これは台数が限られますが、日光、前橋、鬼怒川、水上、沼田に所属しておりました前後扉車に補助席を取り付けた車がありました。
台数は全体で10台前後と本当にごく僅かだったと思います。
理由は長距離路線などに投じられた際のサービスアップ、安全確保、立ち席が難しい場合に備えるなどの理由など色々ございました。
お客様からはとても喜ばれたこともあれば、通路が狭くなるなどの問題点、また定員が変わることで構造申請等などの問題点もあり(当時は申請だけでもけっこう手間がかかりました)からあまり普及しなかったのも事実です。
尚、日光所属の7200番台だったと思うのですが前後扉車で補助席取り付け車両は、最繁忙期にいろは坂を超えて走っていたこともありました。
私もその様子を見たことがありますし、先輩が光徳牧場でその様子を撮影した写真を見たことがあります。
前橋に居た、群馬最後の大型新車社番7515号車(間違えなければ1978年式のRE121)にも更新時に補助席が取り付けられておりまして、かなりの頻度で大洞線へ入っていたと記憶しております。
補助席がありましたのでけっこう用途外運用にも使っていたはずです。
925:名74系統 名無し野車庫行
10/06/06 21:58:54 ikrl5+Qz
>>923様
ついつい「グランドハイツ」と濁点を付けて言ってしまうものでして大変失礼いたしました。
けっこう私の年代ですとついつい濁点を付けてしまうようで。
鉄道運輸時代の路線名の由来は先輩から聞いており、終点のグラントハイツ駅も戦後間もない頃までは啓志駅と呼ばれていたのはご存じのことと思います。
バスの話題から逸れますが、この啓志線は国鉄新橋工事区の手によって建設が進められ、東武で運行受託をしたものと聞いております。
鉄道による旅客営業期間が非常に短かった為、後に東武でバス輸送を行うことになったのはこのことに由来するものです。
なおこれは余談になりますが、よく聞かれる話しの一つといたしまして、何故後々東武でグラントハイツから返還された現在の光が丘団地輸送をしなかったかという話しをちょっと書いておこうかと思います。
この路線計画に関しては、当初、東武で池袋・上板橋・成増~グラントハイツ間の路線免許を持っていたので、返還後、再開発がまとまるまで路線を休止する扱いにして、将来に備えよう、ということでした。
しかし休止後、練馬出張所が閉鎖になり、やるとすれば成増からの路線でなければ新座の受け持ち範囲上難しいだろうということや、有楽町線の成増延伸などもありましたし、他社局さんの営業範囲などの問題もありました。
そのため同じエリアで営業している他社局さんと協議した結果、西武さんが成増~光が丘~豊島園線、国際興業さんが光が丘~有楽町線の駅という形で決着することになりました。
もしも練馬出張所が残っていたらまた違った展開になっていたかもしれません。
926:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 00:00:57 UaQXht7d
個人的には練馬営業所が残っていれば今の板橋区や練馬区の
バス路線(他社含む)もまた違った感じになったのでは?
927:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 00:08:25 UaQXht7d
つい最近知ったのですが、かつては草加でも
西武バスが走っていたそうですよね。
恐らくですが、昔エリア分けと言った名目で
バス事業者間の移管があったものと思われますが。
意外だったのが、国際興業バスが川越から撤退した事。
もし撤退してなければ、やもすれば今の東武バス川越営業事務所
が国際興業に移管されてたかもしれないな?とは思いましたね。
熊谷営業所が国際ハイヤー(現・国際十王交通)に移管される際
多くの利用者が国際興業がやるのか?と言った問い合わせが
殺到したと言った逸話もありましたね。
エリア分けと言えば、茨城県内の路線で
茨城県西部は東武系(朝日・茨急等)・東部は関東鉄道で
運営する事で決着を付けた話も耳にした事はあります。
928:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 07:02:07 RBCxPuQp
ぶっちゃけ東武バスのみの地域が東武じゃなかったら
こんなにも路線は廃止されてなかったと思う。
929:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 17:36:22 soYSQGA5
>>927
>かつては草加でも
>西武バスが走っていた
西武バスのルーツは昭和初期に浦和~鳩ヶ谷間の路線を運営していた事業者だったと聞く。
その絡みで草加まで乗り入れていたようだ。
930:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 21:22:24 VfVW3XmK
>>926様
このことについては時折耳にすることですが、当時はこの地域では基本的にこの事業者、という棲み分けが今以上に強かったこともありまして、各地で事業者間の路線調整というものが行われておりました。
そういった棲み分けや路線調整がなかったとしたら練馬の存続はあったかもしれないとは先輩から聞いたことがあります。
一度は他社局さんへ成増発着分の路線調整譲渡も検討されていただけに、東武新座管轄の成増駅発着分が今なお残っているのは当時の貸切配車地域関係のこともあったと記憶しております。
931:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 21:23:41 VfVW3XmK
>>927様
西武バスさんは>>929様が仰せの通りもともと現在の東浦和地域を主体とする「東浦自動車」として設立されました。
そのため鳩ヶ谷方面などにも多数西武さんの路線がありました。
草加、鳩ヶ谷~浦和地区の路線は1973年に国際興業さんと行われた路線調整により西武さんの路線ではなくなります。
仰せの「昔エリア分けと言った名目でバス事業者間の移管」ですね。
丁度この時代には東武でも一部地域において国際興業さんとの路線調整をいくつか段階的に行っております。
国際興業さんの川越廃止に関してですが、慢性的な渋滞に悩まされたのみならず、川越線の電化が大きな打撃を受けたようです。
さらに、もともと路線の規模は小さく、路線・貸切ともにそれぞれ10台程度配置されていただけで、傘下におさめていた志木分車庫の方が規模が大きかったことで立場が逆転してしまったそうです。
(志木は確か当時乗合だけで30台程度あったと思います)
一時は乗合部門を東武に移管する案も浮上しましたが(貸切だけは残すという話しもありました)やはり路線調整、エリア的なこともありまして川越駅・高萩・高麗川駅発分は西武さんに移管となりました。
川越-神明町間は実質的に東武へ統合された形ですね。
932:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 21:28:51 QxvTToNA
最近、北川辺に越してきたのですが、昔々はこの辺りにも東武が走っていたとか(今では旧町域にはバスは全く走っていませんが)。
路線・担当営業所はどんな感じだったのでしょうか?
その名残か、国道沿いに日野/帝国と思しき廃車体がありますね。
933:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 21:33:55 VfVW3XmK
訂正します
×=一時は乗合部門
○=一時は川越の乗合部門
余談になりますが国際興業さんの貸切バスですが川越ではかなり稼働率が高かったと記憶しております。
もう国際興業さん時代の名残というものはほとんどなくなりましたね。
あるとすれば水上公園線ぐらいでしょうか。
霞ヶ関団地(現かすみ野)方面、三光町などに停まっていた時代を懐かしく思い出します。
おっと、東武バスの話題から国際興業さんの話題になってしまいました。
934:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 21:44:33 VfVW3XmK
>>932様
私の知る限りでは東武ですと柳生駅~館林線、柳生駅~新古河駅線を思い出します。
また新古河駅からは境、山田、岩井、沓掛、下妻、土浦、さらには野田市方面まで伸びていた時代もありました。
担当営業所・出張所は館林、境、幸手、岩井、古河の各所だったと記憶しております。
935:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 22:31:55 QxvTToNA
>>934
ありがとうございます。
うはw
下妻!土浦!野田!!!
境とか岩井は、どっかで聞いたことがあるけど、まさか土浦とは…国鉄の南筑波線の上を行きますね。一体何時間かかるんでしょう?乗りてー!
しかし、こんな田舎の小駅からなぜこんな長距離路線が…古河からなら分かりますが。
ちなみに、これらの路線はいつ頃まであったのですか?
936:名74系統 名無し野車庫行
10/06/08 00:24:05 DsrnmVK9
話はずれますが
川越営業所志木分社庫は何時だったか忘れましたが
(1994年ごろ?)西浦和営業所開設に伴い閉鎖になったと記憶しています。
志木は今でも大宮地区同様群雄割拠状態にありますが
かつての練馬営業所(新座営業所練馬出張所等)を語る上では
重要なファクターになってくるのではないでしょうか?
932さん>
恐らくその廃車体は東武博物館にあるやつと同じ
もう一つの「蔑称(べっしょう)」である「囚人カラー」ってやつ
だったと思います。
935さん>
いずれの路線も1980年代後半には姿を消しているはずです。
そういえば、館林営業所は今どーなってるんでしょうね?
937:名74系統 名無し野車庫行
10/06/08 02:32:54 eUkGiIC3
選手のバスイベントに現れたこの車、
URLリンク(halfzero.sakura.ne.jp)
この画像車の方向幕は(新島車庫)となってるが、
問題はこの車がこの塗装で熊谷車庫に導入されていたかは?の疑問符が付きます。
確かに熊谷営業所はいすゞ車が主体の車庫だったが、この塗装の車を熊谷地区で見た記憶が無い。
この仕様車だと確か、西柏・沼南・越谷・野田・新座あたりの各車庫に導入され、
一部車両は当時のつくば85、科学博覧会(いわゆる万博車)のシャトル路線にも活躍していた。
確かこの車が出た後、東武バスでは現行カラーのオレンジ色が採用され、一挙に新塗装車の同型車が大量導入された。
因みに前中扉の旧塗装のLV314は確か存在しなかったと思った。
もし当時の路線車に詳しい人がいらっしゃったら、追筆をお願いしたい。
938:名74系統 名無し野車庫行
10/06/08 06:10:17 vny5MnWU
>>937
LV314は東松山には新製配備されていた。
東松01で東松山~熊谷の運用があるので、それに付随して入出庫用の熊13表示があっても不思議ではないと思うが。
当時、熊谷駅で東松山所属の5Eを見て「東松山は新車が入ってていいなあ」と思った記憶がある。
939:名74系統 名無し野車庫行
10/06/08 07:29:39 dN+YCABm
>>937
確かこの車は新製時からオレンジ塗装で、画像の青塗装は経験していないと思います。
5E銀サッシグループの最末期の車ですよね。
ちなみに方向幕と車は別物ですよ。
しかし側面の広告枠を撤去するだけで印象だいぶ変りますね。
(と思うのは私だけかな・・・)
熊谷に5E前中扉で青塗装の車は居ましたよ。
幼い頃の記憶なのであいまいですが、たぶんCJMじゃなくてLVだったかと思います。
間違ってたらすみません。
940:名74系統 名無し野車庫行
10/06/08 09:27:35 5PKTfUK3
平成元年頃に都内から熊谷に転属したLVは新塗装の初期グループばっかだったような。
クリーム色がちょっとくすんでるやつね。
941:名74系統 名無し野車庫行
10/06/09 18:10:22 A8q8C8wu
久喜在住の者ですが、最近、幼い頃に走っていた東武バスのことが気になってしまって…
いろいろ調べては見たんですが、分社化や個人サイト閉鎖等でなかなか昔のことが乗っているサイトは見つかりませんね。
そこで、S61年発行の『久喜市総合振興計画』なるものを見つけてきたんですが、これによると、
久喜駅西口~清久駐在所(停留所数12)という路線がS57年まであったようですが、ルートや停留所等ご存知でしょうか?
ちなみに久喜駅西口~菖蒲上町線は市内停留所数14となっています。
(現在は久喜上町・西浦が増えて16ですが、『統計くき』では15になっています)
それと、付録の経路図(駐在所ゆきは載っていません)に青葉団地~幸手駅線が書いてありますが、
現在と違って、団地を経由せず、直接幸手・久喜線方面に向かっています。いつ頃までこの経路だったのでしょうか?
ご存知の方、ご教授いただければ幸いです。
942:名74系統 名無し野車庫行
10/06/09 20:42:57 4bozDO+K
>>941
久喜駅西口~清久駐在所は[久01]扱いで、[久01]本線の久喜駅西口~菖蒲上町の折返系統相当だった。
昭和55年現在では以下の通り。
久喜駅西口-中央4-本町2-中学校入口-橋戸-上早見-清福寺-高木医院-谷田向-橋場-清久駐在所
終点停留所名だけ違うが、今の朝日バスと同じ経路だったのでは?
943:名74系統 名無し野車庫行
10/06/09 23:28:15 A8q8C8wu
>>942
細かいことまでありがとうございます! ところで、清久駐在所って現在の場所(市内循環バスの停留所もありますが)と同じですよね?
そうすると、駅から来て、橋場で折り返して駐在所ということでしょうか?
私は駅から来て谷田向のすぐ先で曲がるものだと思っていましたので、どうも停留所数が合わないなと思ったわけです。
で、お教えいただいた昭和55年時だとまだ1つ足りませんが、55年~57年の間に清久農協前ができたのでしょうかね?
そうだとすれば停留所数は合います。
944:942
10/06/10 02:30:46 +wmWNZzl
>>943
清久農協を書き忘れてました。
-谷田向-清久農協-橋場- が正解。
折り返し場の位置は正確なところは不明・・・
あとは、本町2は本町1の誤記かも。
945:名74系統 名無し野車庫行
10/06/10 20:52:56 1tEovVnO
>>943
URLリンク(w3land.mlit.go.jp)
折り返し場が見当たらないので、すぐ上の工場で折り返していた?
清久駐在所折り返し便が朝夕のみの運転なら説明がつくが…
946:943
10/06/11 00:22:22 +sVNEtmC
>>944>>945
↓ここは違いますかね? ただの駐車場?
URLリンク(map.yahoo.co.jp)
947:名74系統 名無し野車庫行
10/06/11 06:20:55 DRmyDJmq
>>934さん
948:名74系統 名無し野車庫行
10/06/11 06:44:09 DRmyDJmq
失礼しました。
>>934さん
新古河の件ですが、いつ頃のお話なんでしょうか。
私の知る限りでは、新古河には大町(栃木)の車が待機目的で乗り入れしていた位しか知らないのですが・・・
当時、古河には境の古河出張所がありましたが、古河の車は、車庫から野木明神を回り東口から栗橋に向かう路線と西口から下妻、結城、自衛隊方面の路線を持っていたかと思います。
東口は現在と異なり、駅前までバスが入れず手前の操車場にてターンテーブルで転向していました。
この為、長い時間待機が出来ない事情があり比較的スペースに余裕がある新古河に逃がしていた経緯があります。
栃木(大町)~部屋~古河線と、館林~古河線、小山~間々田~古河線などが新古河に逃げていたようです。
あと土浦ですが、北条~土浦間の路線があった事は聞いておりますが、古河周辺からと言うのは初耳ですね。
949:名74系統 名無し野車庫行
10/06/11 10:22:31 YGO4iR87
西口と東口が逆
950:名74系統 名無し野車庫行
10/06/11 13:20:19 DRmyDJmq
>>949
> 西口と東口が逆
寝呆けてました。
すいません。
951:名74系統 名無し野車庫行
10/06/11 20:38:19 hc6AXLFp
>>932様・935様
東武博物館で保存されておりますバスに採用されていたカラーですが、社内ではよく「シマウマカラー」と呼んでおりました。
昭和45年に青×クリームへ切り替わるまでこの塗装が続けられました。
貸切も基本的にはこのカラーベースで、カーブのデザインもあったことから「シマウマカーブ」などの言い方もありました。
なお貸切では昭和43年に現行より数えて4代前、R3カラーの前のデザインである白×濃紺×水色のカラーに変更されております。
952:名74系統 名無し野車庫行
10/06/11 20:39:22 hc6AXLFp
>>937-939様
いすゞLVの5Eで旧塗装の青×クリームで新製配置された車両は1985年導入の前期分のみになります。
熊谷ですが、手元の記録ですと社6824号車のほか数台が青塗装のまま熊谷に転属した後、現行塗装に塗り替えられております。
また一部号車で熊谷管内と東松山管内両方の方向幕を装備していた車両もありました。
これは実を申しますと当時行われた「さいたま博覧会」関係による車両の貸し出しが実際に行われた際、間合い運用で熊谷管内でも使用できるようにと装備したものです。
また、前中扉車で青塗装のLVはなかったものの、CJMの5E車ですと青塗装の前中扉車はありました。
何故LVの前中扉車で青塗装車が登場しなかったかと申しますと、>>937様が書いておられますように、当時のつくば万博輸送向けにも車両を確保する必要がありました。
そこで使用する車両はまとまった車両数必要であり、成る可く仕様を統一すること、また万博終了後各地に転属することを踏まえ、前後扉車が選択されました。
確か東武で路線車による輸送では次に挙げる4区間のシャトルバスに割り当てていたと思います。
水海道駅~万博西ゲート間=柏・境担当
万博中央駅~万博北ゲート間=境担当
万博南ゲート~場外駐車場間=境・下館担当
エキスポセンター~つくばセンター=境担当
連接車(スーパーシャトルバス)の担当は沼田からの応援要員により担当しました。
確か東武の連接車担当分は他社局さんの担当分と同じく5台だったと思います。
953:名74系統 名無し野車庫行
10/06/11 20:40:57 hc6AXLFp
>>940様
新塗装で登場しました1985年式と1986年式の一部で下地が濃い色ですが、この色は「シェルホワイト」と呼ばれる色で、当初濃いめであったのは色褪せ対策であったと聞いています。
しかし濃いめでなくても大丈夫だと言うことがわかり現在と同じ明るめのシェルホワイトになったと当時聞きました。
なお、この話は前にも書きましたが、新塗装については「フレッシュスタート60運動」という社内運動のもとで行われました。
当時の塗装変更は更新対象となっていた経年車及び貸切格下げ扉増設車より進めていきましたので、社6824号車のように、LVでも後年まで青塗装が残ったのものと思います。
954:名74系統 名無し野車庫行
10/06/11 21:00:04 hc6AXLFp
>>948様
新古河~土浦間の直通運転ですが、私が入社する以前ですが昭和40年代後半まで続けられていたと聞いております。
その後は途中で分断されていたのは覚えておりますが、入社した頃には本数もかなり減少していたはずです。
新古河~柳生間も結構早くに廃止となったはずです。
ただ、古河、栃木管内の話しは私もうろ覚えでしかないので、自宅の奥にある資料を引っ張り出して調べてみようかと思います。
955:名74系統 名無し野車庫行
10/06/11 22:18:33 63RfFhuh
>>932です
いろいろご教示ありがとうございます。
過去の東武バスの栄華、興味は尽きませんね。
ここはバス板一の良スレだ。