昔の東武バスを語ろうよ!at BUS
昔の東武バスを語ろうよ! - 暇つぶし2ch800:759
10/03/07 17:56:08 CyY+ikCf
>>799さま
諸説色々あるのですが、中央に扉を増設したのは車体強度及び、エンジン機器類等のこともあったそうです。
新製で貸切車体ベースに後ろ扉を付けるのと、改造で取り付けとなると違うと聞いたことがあります。

当時はトランクスペースも今より小さかったことも増設箇所を中央にしたという話しも聞いたことがあります。
また、車内スペースの問題もあります。
貸切格下げ車の場合、扉を増設しても基本的に座席はそのまま(リクライニング固定・地域によって補助席撤去などはありましたが)ですので
通路幅が当然狭く、後ろに扉を設置しますと、混雑時、途中停留所で出口に乗客がたどり着くまで時間が掛かることも想定しての中央設置です。

貸切格下げ・扉増設車が出現した背景として、これは様々な資料・掲示板等ですでに出尽くしている話しですが、車両の有効利用のみならず、
当時の冷房化率アップや、長距離路線等におけるサービスアップなどがあります。
しかし、当時は今以上にまだ通勤通学輸送などでの需要も地方部においてあったことから、一定の輸送力などを確保する必要がありましたが、
そのままの格下げでは乗降時間が伸びてしまうという問題があったために、扉を増設することになりました。
東武では一時期、貸切格下げ車の路線転用がない時期がありました。
1981年頃から格下げ改造が再度開始されますが、その当時は扉の増設はありませんでした。導入路線では、まだまだ朝晩を中心に通勤通学需要
の時間帯にも投入され、現場から、新車を導入するか、何らかの改造をして欲しいという声があがります。
(これは当時の組合新聞支部版にも掲載されていました)
そうしたことから、冷房化率アップも含めた扉増設改造も行うことになったのです。
奇しくも扉増設改造が最初に行われた1985年は路線カラーが現在の新オレンジ塗装に切り替わるなど、「フレッシュスタート60運動」という
社内運動のもとでもこうした改造工事がスタートしました。

塗り替えは在来車からも積極的に進められたのもこの「フレッシュスタート60運動」によるものです。

801:名74系統 名無し野車庫行
10/03/07 22:52:09 4L9AOg7A
沼田駅~鎌田~戸倉線には貸切格下げ車がよく入ってた
関越になってからは一般路線タイプだろ、サービスダウンとも受け取れる

802:759
10/03/07 23:56:20 rJmUvoep
>>801さま
一般路線車ですが、移管前の各営業所にも相当入っていたのはご存じかと思います。
前途の貸切格下げ車が置き換えになる頃、都心部から冷房路線車が転入可能な時期になってきたことから、かなりまとまって群馬へも
転入がありました。
珍車では平成3年頃に前中扉の日野RE120が大宮から水上へ(確か7400番台だったか)来たのもありましたね。
他にも、東武では最後の川崎車体となった6801・CJM500が沼田に転入したりしていました。
また5EのP-LV314やCJM500は沼田・渋川にもかなり転入し、鎌田方面や宝台樹、武尊牧場、夏のシーズンには
大清水まで走っていました。
移管時にも関越交通が一般路線車タイプを購入したのはそういった流れもあるでしょう。

1985年から約6年続いた格下げ車の扉増設車ですが、スケルトンボディの日野RSスケルトン及び、富士R3ボディ
搭載車から、車体構造上、扉増設が難しくなったことと、改造費などの問題から扉増設を中止し、約15年ぶり
にワンマン機器設置や方向幕設置のみ、現在の日光ような格下げのみになります。

東武で日野RSスケルトン格下げ車は日光などごく僅かのみでしたね。

803:名74系統 名無し野車庫行
10/03/08 00:04:02 i2/6eXFT
前橋駅前でも貸切落しのセミデッカー見たけどあれは前橋所属だったのだろうか?

804:759
10/03/08 00:06:46 hxTmfpCk
何時も長々と済みません。

東武での扉増設格下げ車ですが、最後まで残ったのが確か前橋所属車両だったと思います。
末期は前橋-赤城線専属車に近い存在でしたね(希に渋川・川原町ゆきに使われていたのはびっくりしましたが)
1993年頃には改造車の車歴がトータルですでに12、13年ぐらいになってきており、老朽化や混雑時などの問題もあり、
加えて都心部等から転入可能な車両があったことも大きいかと思います。

また沼田で最後の格下げ車はR3の"カンテラ"方向幕装備車でしたね。
結構長距離路線、猿ヶ京方面や冬の鎌田方面にも使われていました。
後閑-苗場線のラスト運用(1995年3月31日)もその車両だった記憶があります。

805:759
10/03/08 00:09:10 hxTmfpCk
>>803さま
そのとおりです。前橋にも貸切格下げ車は配属されていました。
1994年11月をもって扉増設車の使用を終了しています。

806:名74系統 名無し野車庫行
10/03/12 18:34:54 hF2okfiw
>>759さん
東武の現行塗装で昭和60年式だけベージュが濃く社番のフォントが違うのはどうして?

807:759
10/03/13 00:05:16 XUabxZ6d
>>806さま
その部分は「シェルホワイト」という色なのですが、当初濃いめであったのは色褪せ対策であったと聞いています。
しかし濃いめでなくても大丈夫だと言うことがわかり現在の明るめなシェルホワイトになったと当時聞きました。
また社番フォントですが、これは現在も使われている独特のフォントがすでに戦後間もない頃から使われており、デザイン変更とともにイメージアップを兼ねてフォントも丸みを帯びたもので記載したのです。
しかしながらこれまで通りの書体に統一することからすぐに戻ります。
もっとも社番の記載については戦後間もない頃の車両や、貸切車とこの新塗装になった直後を除いて殆どがあの独特な、角張ったフォントで統一されていますね。
私の知る限り、父が昔撮り貯めていた写真でしか記憶にないのですが、1000番台のボンネット車(昭和28年式あたり)からこの角張った社番フォントだったと思います。

808:759
10/03/13 00:19:17 XUabxZ6d
社番フォントについていくつか訂正と追加をしておきます。

まず訂正
×=1000番台のボンネット車(昭和28年式あたり)から
○=1000番台のボンネット車(昭和28年式あたり)から正式に

私の手元にある資料や昔見た写真でしか今お答えは出来ませんが、少なくとも社番が3桁台の頃には角張った文字体は採用されていませんでした。
戦後間もない頃の社番の付け方はアルファベット1文字+数字2桁が基本でした(詳細は解りません)
その後、3桁で社番を付与するようになりますが、この時は今のようにメーカー別に社番を付与するのではなく通し番号だったと記憶しています。

角張った文字体について、昭和25年頃の新車アルバムに掲載されたバスの中に2,3台使われている車種があったと記憶していますが・・・うろ覚えで済みません。


809:759
10/03/13 00:31:12 XUabxZ6d
>>759
塗装変更のお話をちょっとしておきたいと思います。

この塗装変更については、少し前に書きましたとおり「フレッシュスタート60運動」により進められたものですが、元をたどりますと昭和58年頃の組織改正によりそれまでの自動車局からバス事業本部に切り替わってからの計画です。
確か塗装変更の前年あたりから、変更プロジェクトチームが結成されて、専門家に依頼してこの塗装になりました。
フレッシュスタート60運動では、貸切車についてもスーパーハイデッカー車の導入に際してもそれまでの貸切塗装を踏襲するかどうか検討が行われましたが、こちらも新塗装で導入をしようということになり、現在のグループカラーに切り替わるまでのデザインとなります。
東武でスーパーハイデッカー車の導入が最初に行われたのは昭和61年のことです。
まだ12,13台ぐらいしかスーパーハイデッカー車がなかったころに、伊東温泉へ11台スーパーハイデッカー車連続運転でお披露目のツアーを行ったのは伝説になっています。

810:759
10/03/13 00:49:21 XUabxZ6d
何時も長々と済みません。

もう30年以上前ですが、戦後間もない頃の話しを聞いたことがあり、そのノートが我が家の何処かに有るはずですので、明日探して社番の話しをしようかと思います。
何しろ「昔の東武バス」も奥深いものがありますからね。

811:759
10/03/13 11:44:48 IFZR5U68
古い記録ノートと資料を引っ張り出してきました(汗)

角張った社番フォントですが、昭和26年に製造された車両で試験採用されていることがわかりました。
いずれもボンネット車で、当時の社内資料と併せて調べてみますと、ニッサンのボンネット、805~808号車で角張ったフォントが試験採用されています。
寄って、私が見たという資料は、昭和26年頃の新車アルバムだったわけですね。
場所は確か中禅寺で撮影されたものと記憶しています。

ということは試験採用の時から含めてあの角張ったフォントは60年近くも使われていることになるのですな。

812:名74系統 名無し野車庫行
10/03/14 09:51:03 BMug3EUP
>>759さん

社番の付け方って、
ガソリン車と代燃車にディーゼル車が混じった頃は
1000番台=日野ディーゼル車
3桁車=ガソリン車(メーカーに関係なく通し番号)
アルファベット+数字=代燃車と米軍トラック払い下げ車
その後、いすゞに旧2000番台、日野に旧3000番台が割り振られていた
って聞いたことがあるんですけど本当ですか?
ガソリン車や代燃車はいつぐらいまであったのですか?

813:759
10/03/14 23:39:49 zdDQ+A/d
>>812さま
この社番の付け方というのが資料も少なく、私も結構調べるのに苦労をしておりまして(汗)
確かに仰せの通り、1000番台では日野ディーゼル車に割り当てられていたのは事実です。
3桁は主にガソリン車(ボンネットおよびキャブオーバーのガソリン車)、今も東武博物館に保管されているキャブオーバーもガソリン車です。
一時期、いすゞの採用が少なく、ディーゼル車は主に日野、ガソリン車はニッサンが多かった時代もありました。
一番最初に1000番台が付与されたのは昭和23年に導入された日野・トレーラーバス17台になります。
また、いすゞ車で旧2000番台が最初に付与されたのは昭和33年のことです。
日野車に3000番台が割り当てられたのは確か昭和34年頃だったかと思いますが・・・

ガソリン車と代燃車ですが、昭和27年まで我が国では燃料の統制が行われていたのはご存じかと思います。
代燃車については、昭和13年のガソリン切符制による燃料統制が開始されたことを受け、同年秋に太田の2台、沼田の3台に代燃装置を取り付け、ガソリン車運行禁止となる昭和16年9月までに全車が代燃車改造を受けます。
その後、仰せの払い下げトラック改造車が昭和22年に40台近く導入された時にガソリン車が登場します。
翌昭和23年には、前途の日野トレーラーバスが東武初のディーゼルエンジン車として導入されますが、まだまだ燃料事情はよくなく、またディーゼル車の取り扱いに慣れないため、代燃車が走り続けます。
ようやく機械面や燃料入手の環境が改善されてきた昭和25年から、代燃車の置き換えがスタートし、この年からディーゼル車、ガソリン車の導入が本格化します。
奇しくもこのころから、貸切車両の大型化(といってもボンネットのロングタイプですが、当時からすると大型化といっても過言ではないでしょう)が進み、それまでの車両では競争が困難ということもあり、ディーゼル・ガソリン車の新車投入が進みます。
特に山岳部、強いて言えば日光では早くからディーゼル車の導入も進められました。小型のボンネットディーゼル車は、当時あった旧いろは坂(現在の第1いろは坂ではありません)を通るバスの運転士からもとても喜ばれたそうです。
(当時、馬返-明智平のケーブルカー以外では、小型バスにより馬返-中禅寺間で専用車による折り返し運転がありました)
またこのころ他社で有名なのは京浜急行の半固定窓ボンネット貸切バスがありましたね。
代燃車は昭和25年から27年にかけて6期計画で置き換えが行われ、最後まで走ったのは確か沼田と水上の数台です。
当時の東武労組組合新聞によりますと、その時点まで残った代燃車は昭和10年式のフォード型でした。
この時代から、第二次世界大戦中に休止路線となった路線の復活のみならず新設路線の拡大や貸切需要の拡大などで、年間120~130台ペースで車両の増備が行われることとなります。
ガソリン車についてはちょっと不明ですが、ボンネット車やキャブオーバー車が昭和40年代初頭のワンマン化及び大型ツーマン車等による置き換えが行われる頃までありましたので、だいたいそれぐらいまで残っていたのではないかと思います。

814:名74系統 名無し野車庫行
10/03/15 03:02:15 6hCUdd2Y
日野に3000番が登場するのはもう少し後のようですね
URLリンク(www5e.biglobe.ne.jp)


815:759
10/03/16 00:16:28 cjbJFwQK
>>814さま
ありがとうございます。
3000番台に突入する時代の東武バスは資料によると年間150台前後で増備をしていましたのでちょっと時期を読み間違えていました。
大へん失礼いたしました。

余談になりますが、東武で初めて冷暖房完備のバスが出たのは昭和36年のことになります。
確か3110号車がその冷暖房完備トップナンバー(乗合・長距離急行用)でしたので、3000番台に突入したのは昭和35年~36年頃ではないかと思います。
仰せのサイトで丁度3000号車の廃車体が紹介されていますが、ボディからして昭和35年頃の感じはしますね。
どなたか正確な時期をご存じでしたらご教示お願いいたします。

816:名74系統 名無し野車庫行
10/03/16 02:16:34 MtmtTxQg
>>815
RB系列登場以前までは平地はいすゞ、山と貸切は日野Dというのが標準だったそうで
古い写真を見ると大宮管内にいすゞがいたようです。
逆に割合末期の頃の葛生にいすゞの目撃情報がありどう言う事なんだろうと考えていますが
実際のところはどうなのでしょう?

BD14とBD15は富士重車体では外見上わからないかと思いますが
少なくとも3000から3110までの間にそんなに時間があったとは思えず36年式BD14(P)あるいは
37年式BD15(P)と見る方が正しいでしょう。
公式には3118はよく登場しますが3110も全く同一と見ていいのでしょうか?
また同一仕様(冷房付き)のRB10Pも同時に外国人観光客用として貸切で登場しますが、
当時の貸切車の一部は社番表記が省略されているので何とも言えないようです。
不思議な事に3118はR13車体なのですが3290~3291がR11車体ですね。


817:759
10/03/16 12:30:29 hhjQQ7S7
>>816さま
ご教示ありがとうございます。
確かにBD14とBD15では富士重工業車体の場合ですとパッと見では解りませんね。
冷房付きバスが出た時には昭和36年5月で3100番台まで行っているのですから、おそらくその年に3000番台に突入したのかもしれませんね。
今度また資料を探してみたいと思います。
余談になりますが、昭和35年には乗合137台、貸切45台の計185台、昭和36年には乗合175台、貸切72台の計247台、さらに昭和37年には乗合204台、貸切70台、合計274台もの車両が導入されます。
3年余りで700台以上という、今からは信じられない台数です。この頃、昭和20年代前半に導入された初期のディーゼル車やガソリン車が置き換えにさしかかったことと路線や貸切の拡大時期も合間っての大量導入でありました。

社3110号車ですが、仰せの通り3118号車とまったく同一車両でして、昭和36年5月に長距離急行用の冷房付き第一陣として9台が同時に導入され、6月1日より運用されました。
この冷房車は非常に評判が良く、翌昭和37年にも多数導入され、桐生・伊香保方面はもとより、猿ヶ京・苗場方面への急行バスにも専用車として配属されます。
余談になりますがこの東武における冷房付き長距離急行バスを基本にして導入したのが東北急行バスの初代車両たちです。

外国人旅行用専用車ですが、昭和36年にいすゞ製で導入されたのが冷房付きでは最初となります。その際、富士重工R11車体を架装いたしました。
社3290・3291号車でR11車体としたのは前途の外国人旅行用専用車と僅かに存在したいすゞ製貸切車と合わせるためであったと聞いておりますが・・・
この時代はまだまだR11・R13車体搭載車が平行して導入されていた時代でもありました。

当時の貸切車と山岳部、地方部の路線車は仰せの通り基本は日野、平地ではいすゞを基本としておりました。
しかしながら日野車が多かった大宮でも、当時はいすゞ車を持つ他の営業所との長距離乗り入れ路線などの関係で数台いすゞ車を配置していた時代もありました。
台数は確か10台前後ではなかったかと思います。
葛生の件、詳細は解りませんが転属車で2台ぐらい居た記憶がありまして、当時の秋山・浦原方面で充当されていたのを記憶しております。


818:名74系統 名無し野車庫行
10/03/17 20:51:21 kDrDZj74
>>800-805 あたりの話を聞いてて涙出てきた。
貸切落としの最南端・小川町駅裏の高校に通ってた3年間は熊谷駅行きと皆谷・白石車庫行きはいすゞの貸切落としのオンパレード。64**~65**あたりが飽きるほど走ってて
(6475ってのが居たのは覚えてる)。小川パークヒルみたいな団地線にもよく入ってた。
…当時、小川町にも1台だけ川重の貸切落しがいた!
一方、開設されたばかりのみどりが丘団地線は、熊谷からの借り入れ(としか今となっては思えない)の日野+富士重のRL320が「東武」幕でフロント窓に
「みどりが丘団地」ってステッカー貼って走ってた時代。
遠い昔とは言いたくない、平成2~3年頃のハナシ。

一方、我が家の目の前からは、本数だけはいっちょ前だけど、青+クリーム塗装に緑の薄っぺらなシートを装備した
64**が、年式のわりには無意味に新しい 「所沢22か 581」 なんてナンバーを付けて物見山の急カーブを抜け、大東文化大学の
下り坂を転げ落ちるように駅まで運んでくれたもんだ。2054なんて来た日にゃ天国だ!

そんな中、(2010年現在の) 総理大臣と同じ名前のゴルフ場で、なんかでかいプロゴルフの大会が開催されたんだな。
当然、その輸送は全て東武バス。観客輸送用には 「端から端まで路線バスを集めて来ましたぁ!」的な状態。
前中ドアの足立ナンバー7Eの後ろには群馬ナンバーの日野貸切落とし。
西上尾や大宮の3扉(HTもいればRC301もゴッソリ)は、ここぞとばかりに乗降時間の短さを誇り、
その横では、完全アウェイ状態の習志野ナンバー5Eが右往左往しながら、同じ外観した新座の5E・CJM500が
先導するなんてほほえましい光景が見られたもんだ。

関係者・選手の輸送も、もちろん東武担当。新座だか足立から持ってきた2013(違ったかな?)いすゞ+北村、
後部段上げハイデッカーのマイクロが何往復もしてたっけ。見なかったのは日光鬼怒川と境・笠間辺りの所属車だけじゃなかったかな。

>>802さま、、、 6801=最後の川重車体CJM500 とのことですが、では 6802 はどのようなバスだったのでしょう?
6803(東松山)が P-LV314Lの初号車だと思っていたので、6802までが川重CJMだと勝手に思ってたのですが…

819:759
10/03/17 22:47:57 Id64ub0v
>>818さま
私も大へん懐かしくなりました。
当時、小川には貸切格下げ車が最大で4台配置されていた時代もあり、熊谷にあった2台の格下げ扉増設車と併せて様々な路線に使用されておりました。
川重車体の格下げ車はいすゞ貸切車が基本的に富士重工業車体搭載車へシフトしていくだけに非常に貴重な存在でしたね。熊谷の2台を含め、貸切格下げ車は熊谷・行田・小川管内の方向幕を装備していたことは余り知られておりません。

RL320ですが熊谷と行田からの借り入れ車で2台存在していたはずです。社番は失念しましたが。
また車検などで使えないときには熊谷で予備車状態になっていたUDの中型車もみどりヶ丘線に投入されたことがありましたが数えるばかりです。
いずれも仰せの通り東武幕で「みどりヶ丘循環」の紙を貼り付けてでした。末期には笠間や高崎からの転属車もあったと聞いたことがあります。

熊谷ナンバーや埼ナンバーを付けていた東松山出張所の車両達でございますが、ご存じの通り川越営業所管轄になりましてから所沢ナンバーに皆切り替わりましたね。
結構BU10・CJM500あたりの車は富士重工車体・川崎重工車体問わず塗装変更や冷房改造を受けて90年代前半まで長く使われておりましたね。
懐かしい限りです。ご存じかどうか解りませんが、1990年には足立から転属してきたBU10の前中扉車もいましたな。

鳩山カントリー倶楽部で開催された大会では仰せの通り各営業所から様々な車両が使われました。
選手役員輸送にも用いられたいすゞ+北村の小型マイクロ貸切は足立・西柏・越谷・上尾・前橋に各1台ずつ計5台在籍しており、当時の大会時には全車両が集結する非常に珍しい光景でした。
社番は6963号車が足立、6964号車が前橋。2012号車は西柏、2013号車が越谷、2014号車が上尾でした。
小型貸切は社内で「マイクロデッカー」と呼ばれていたものです。
またこのときには日本でも数少ない、東武でも1台しかなかった富士重工車体いすゞLV大型ショート9m貸切2015号車も選手輸送に用いられました。
この時代は東武沿線で行われたゴルフ大会や、日本スリーデーマーチ、七峰縦走ハイキング大会ともなりますと、様々な営業所から多種多彩な車両を用いて輸送が行われたのも懐かしいものです。

さて最後に、6802号車でございますが、記念すべき東武最初のP-LV314でございます。新製配置は東松山出張所で、当時、6802~6804号車の3台が配置されました。

820:名74系統 名無し野車庫行
10/03/18 00:32:03 ki22k7wU
>>815
とあるサイトに2130の廃車体があったが、昭和34年製。
2130は平成初期にやはり同じ番号の車がいたので、2000番台は重複といってもよいのでしょうか?

821:759
10/03/18 12:15:15 d42uF7Jx
>>820さま:
その通り、2000番台は重複、2度目になります。
従いましてその廃車体に表記されていたのは旧2000番台のことです。

この社番付与方法については昭和40年代初頭あたりのことでないと明確な方針というのが分からないのですが、おわかりの通り、数字の先頭が奇数が日野車、偶数がいすゞ車というように分けているのは現在に至るまで同じです。
そこで旧2000番台が満杯になる前、さて次は何番を付与するかということで議論となりましたが、4000番台は付与したくない、では5000番台は日野に充当予定、ということで6000番台が採用されました。
まだ3桁車がそこそこ残っていた時代です。

いつも余談ばかりになってしまいますが、6000番台が満杯になるとき、さて次は何番台を付与するかということで議論されますが、8000番台は当時十数台あったUD車に使っていてダメ、では4000番台を付与するかということも検討されました。
また5桁案というのもあったそうですが、結局は2000番台を再度付与することで決着しました。
2000番台のトップは5EのP-LV314でした。

8000番台はUD中型車廃車後、川越観光自動車から移管された上尾市内循環ぐるっとくんのUDガス車で日の目を見ますね。
でも今後はUDそのものが事実上バス事業から撤退になりますから、8000番台が再び使われるのかどうか。

822:759
10/03/18 12:23:29 d42uF7Jx
訂正
×=5000番台
○=3000・5000番台

ところで私がいつも不思議に思っていたのですが、かつて日光鬼怒川方面に二代目三菱ローザが「ライトバス」という名称で5,6台だったかと思いますが小型貸切として用いられておりました。
時期的には昭和40年代前半だと思います。
しかしそのライトバスというのが社番データがありません。確かに昭和30年代~40年代にかけて社番表記を省略する傾向が見られましたが。
どなたかご存じでありましたらご教示よろしくお願いいたします。

823:A2-818
10/03/19 12:16:00 8MJyCH1g
>>819-=759さま
詳細なご記録、ありがとうございます。北村のマイクロ貸切2013は越谷所属でしたか。ご教示いただいた途端に
大宮ナンバーを付けていた(春日部ナンバー創設前ですからね)ことを思い出しました。感謝の限りです。69**番台も存在したのですね
もっとよく見ておけよ!と、当時厨房の自分を叱りつけたい気分です。
その貸切落としですが、同じいすゞ富士CRA580でも、熊谷管内と群馬(渋川あたりでしょうか?)管内では、中ドア横の側面
方向幕に明らかな差異があったと記憶しています。群馬の車のほうが、側面幕の横幅が短く、タテ長感が強調された状態だった
記憶があります。改造メニューにも地域差があったのかも知れません。

小川~みどりが丘の件、やはり自分のあいまいな記憶の裏付けが取れたようで光栄です。その数年後、熊谷~犬塚で日野車体の
中型車を見たときに明らかな違和感を感じたので、自分が見た小川への貸し出し車が富士重だったことは間違いないですね。
ただ、開設当時は終点が存在し、循環になったのはのちの話であったと記憶しています。もっともその頃は6754という、小川町
虎の子の5ECJMが、新しい部類の車! として見られていた時代だったですからね。

自分のあいまいな記憶を元にモノ申すのは大変申し訳ないのですが…どこかの廃車置き場で川重CJMの6802という屍を
見た記憶があるんです。 一方、昭和60~61年当時の記憶をなんとなく辿ると、熊谷22か30*というナンバーを付けて、
勇躍、団地輸送に乗り込んできた彼ら(青+クリーム塗装)の記憶があるのですが、私の頭の中では その初期角目富士重5E= 6803~6805 なんですよね。
確かめようにも、タダでさえ管轄変更でナンバーは無駄に変わるは、こちらが本腰入れたときには、いきなり9298なんていう
見慣れないHT2MMAAが走り始めると同時に、本庄から7481・7483なんていう出入口表示がアンドンなRE121(?)が転入して、40コマ対応の
運賃表示機の見難さに驚いた世代なくらいですから… そうは言っても、こちらも間違いがあるかもしれません。

中学時代にももっと関心を持っておけばよかったと後悔することばかりです。バスコレおもちゃのまちバージョンを手に入れて、
これって「坂戸~大橋」で、嫌になるほど見たじゃん! と思いながらも、「前のマーカーランプは付いてなかっただろ!」と無粋なツッコミを
入れているわけですが(w

824:名74系統 名無し野車庫行
10/03/19 14:22:21 JWwtJp1d
2000番は熊谷に転入してからは良く見かけましたねぇ
63年式でしたっけ…


825:名74系統 名無し野車庫行
10/03/19 20:21:37 UiWjn3qT
流れを無視して申し訳ないですが、車両に詳しい方がいるようなので・・・。

1960年代中ごろに水上あたりに中扉エアサスの富士RB10がいたと思うのですが、
この車両と同時期の通常のツーマン車では外観上どのような差異があったか
わかりませんでしょうか?

826:759
10/03/19 21:12:01 /UQRNHkS
A2-818さま
貸切の扉増設格下げ車ですが、改造時期によって使っている部品や改造メニューが異なっていたりします。改造期間は1985年~1991年の6年間ですが、中扉の増設時に必要な車体補強や骨組みの加工などが車体によって異なっていたことが大きいと聞いております。
一説には川崎車体の格下げが一番たいへんだった(特にステップの増設が難航したらしい)とか当時聞いた覚えがあるのですが。

小川や東松山には確かにいろんな車が居て楽しかったですね。CJMの5Eは数こそ少なかったですが存在感がありました。LVの5Eと異なり、非常口が中央にあるのですぐわかりましたが。
また、あまり知られていない話し、冷房装置が一部ですが、富士重工製とヂーゼル機器製で分かれていたのが試験搭載の意味合いもあり1・2台ほどあったはずです。
基本的に東武のいすゞ冷房車は当時ヂーゼル機器製の冷房装置でほぼ100%近く統一されていた中でイレギュラーな存在でした。
(エアコンユニットが富士重工車体のいすゞ車でも床下のため外見からでは判別不能でした)
ヂーゼル機器製のエアコンに関しては、当時ヂーゼル機器のエアコン製造・開発拠点となっていた江南工場・東松山工場があったこともあり、この地域での改造が早くから進められていたことも事実です。

小川のRL320ですが、富士重工車体・日野車体それぞれ2台ずつだったと思います。
富士重工車体の方に関しては1台が水上、1台が葛生にそれぞれ新製配置の後、転属に転属を重ねて熊谷に来ての貸し出しと聞いたことがあります。社番がちょっと手元にないのですが・・・
日野車体の方に関してはその後平成6年頃まで行田市内循環に用いられるなど長持ちしたものでしたね。
しかも冷房改造を受けていたのが大きいと思いますが。

東松山での車両の入れ替えが本格化したのが1991年~1992年頃で、いすゞ車と日野車の「共演」でありましたね。
このころはちょうど7Eの新車が東松山にかなり入り出した頃でもありました。
仰せの日野RE121ですが、特に東松山では日野車体、富士重工車体の両方が楽しめましたね。いずれもそんなには長くありませんでしたが、同時にHT225・235の5E車体や、中にはRC301の5Eもやってきたりして、一番バラエティーに富んだ時代ではなかったかと思います。
ただ現場では保守面でいろいろと苦労したらしく、また運転面でも、ハンドルの切れ、ブレーキの効きが異なるため慣れるのに苦労した話しをよく聞いた物です。

余談になりますが、1991年には当時東松山に在籍しておられた主任運転士の方が優秀運転士として時の運輸大臣表彰を受賞されました。
各都道府県バス協会賞、県知事賞、運輸局長賞、日バス協会賞を取らなければこの表彰にたどり着かないと言うことで、当時は現場でも大いに盛り上がったものです。

827:759
10/03/19 21:30:36 /UQRNHkS
>>824さま
ご名答です。新2000番台のトップを飾った5EのP-LV314・社2000号車は昭和63年式です。
熊谷の閉鎖前後だったかに菖蒲へ移籍後、菖蒲で除籍になったはずです。

>>825さま
1960年代中頃でRB10あたりのエアサス車ですと3000番台後半か5000番台初期ではないでしょうか?
このころの東武バスは山間部でも多種多様な車両がいましたので私もよくはわかりませんが、時期的に申しますと、RBではなく、高出力タイプのRC10、ホイルベースも4.8mのものがかなり山岳部には投じられていた記憶がありますので、RC120あたりではないかと思うのですが。
私もそんなに詳しくはありませんので、どなたかご教示いただければ幸いです。
ちょうど、ツーマン車の最終期あたりにさしかかる世代の車ですね。

時期的にはRE100・RE300型への過渡期、代表例として少し前に話題となった昭和44年式の社5460号車(水上定期観光用)に見られる「RE300P」型という、ホイルベースが4.8mで高出力タイプのエンジン「DK20」を載せたバスが出る前の話しです。

828:759
10/03/19 22:13:45 /UQRNHkS
補足
昭和63年式社2000号車ですが、新製配置は柏営業所になります。
その後確か三郷→熊谷→菖蒲と転属をしたはずです。

また社6754号車あたりのCJMですが、末期はかなり群馬方面に転用されておりました。
沼田にはまとまったCJMの転属があり、有名なのは6758・6759号車あたりなどは時に大清水方面へも運用されています。
懐かしいですな。

829:名74系統 名無し野車庫行
10/03/20 00:07:24 DeciRQgl
テス

830:名74系統 名無し野車庫行
10/03/20 00:12:43 DeciRQgl
>>825
URLリンク(www5e.biglobe.ne.jp)

このページに載ってる車ですかな。
確かに車番は3000番台のようですが、側面がはっきりしませんね・・・。

それにしても水上は、日野富士の短尺一ドアが多いですね。

831:759
10/03/20 00:43:33 Hf1K8eT0
>>830さま
寝る前にちょっと書き込みます。
東武の場合、ご存じかと思いますがいろは坂対策もありましたし、当時多数持っていた山間部路線への対応と言うこともあり、結構短尺車が導入されていました。
水上の場合は一部の中型車を除き、後年の社7075号車あたりまで新製配置車両は殆どが扉が1つのみというのが多かったですね。
私が当時父親に連れられて後閑に住む知り合い宅へ行ったときも、富士R11・R13車体が混在し、前扉1つのみや中扉1つのみなど多種多彩に走っていたのを覚えております。
水上で2扉車が増えたのは関越交通に移管される数年前あたりに首都圏からの転属車や貸切格下げの扉増設車が入る時期です。

後閑駅前で当時見たものとして鮮烈に覚えているのがBT51のツーマン車でした。確かこれはトップドア構造で扉1つだけでしたが、旧貸切塗装でカーブ塗装を纏ったものでした。
社番は確か5070番台であったと記憶しています。

832:名74系統 名無し野車庫行
10/03/21 02:46:51 fAiJwIgY
>>831
水上の昭和46~47年導入は前後扉ですね。
前扉のみの短尺乗合車(RE100)というのはRE世代以降は日光からの転入車だったと記憶しています。
ただ43年後期に入ったバス協ウインカー装備の前扉ツーマン車が日光や沼田にいたかどうかがよくわかりません。
最近まで川場村に1両廃車体が残っていたのですが....。
中扉ツーマンは40年ころまで短尺RB10、43年は帝国車体のRE120でした。
RB世代のRC路線車というのは存在しなかったと思いますが、
エアサス付きのRB10Pロマンスシート車(貸切兼用や貸切格下を改造したもの)は存在していました。
貸切格下車の前ドアを埋め中ドアを増設した車両が一定数いたようで、
オリンピック増車で足立にRB10Pが大量に導入された関係かと睨んでいるのですが....。


833:名74系統 名無し野車庫行
10/03/21 02:50:27 fAiJwIgY
>>831
BT51ですが、数台が貸切で導入され間もなく乗合に格下されていたようです。
有名なのは中之条の5071ですね。
日向見固定で大島教授さんが撮影されています。

834:名74系統 名無し野車庫行
10/03/21 02:54:19 fAiJwIgY
三度すみません....。
中之条にいたのは5077だったかもしれません。
R11車体といえば鬼怒川の3942(42年登録)もかなり謎ですね....。

835:759
10/03/21 11:29:56 ILv6FOBv
>>832さま
詳細ありがとうございます。当時、水上には新車のトップドア車が・・・という話しを聞いていましたので、転属車とは思いも寄りませんでした。
ただし冬期の車内保温対策ということで数台のトップドア乗合車が水上にもわずかばかりですが新車またはそれに近い状況で何処からか転属をしていたという話しもありますのでちょっと調べてみたいと思います。
水上の新製前後扉車は中型しか記憶にありませんでしたので意外でした。
バス協ウインカー装備のツーマン車は日光、沼田にも数台有ったはずです(昭和50年頃に日光で目撃しています)

また仰せのRB10Pロマンスシート車ですがそのとおりでして、中扉改造を受けた貸切格下げ車がかなりあったようですね。
いずれも昭和50年頃まで活躍しておりました。かなりの数がありましたので。
RC路線車はRE120へ移行期にごく僅かな台数が入ったと記憶しておりますが正しいことは調べてみないと分かりません。
なにしろこの時代の東武バスは車体は同じでも仕様がバラバラというのも珍しくないです。

836:759
10/03/21 11:39:19 ILv6FOBv
>>832さま
BT51ですが、そのとおり貸切格下げでして、貸切での稼働年数は1~2年程度でした。
確か5,6台の導入世代ではないかと思うのですが。
中之条のBT51は社5075号車だったと記憶しております。四万温泉~日向見線とはこれまた懐かしいですね。

社3942号車ですがBT71でしょうか?確か鬼怒川にはまとまった数のBT71もおりまして、当時の川俣方面や時には滝ノ原・田島方面へ使われていたはずです。
時期的には三菱ライトバスと時を同じくしての登録のようです。

837:名74系統 名無し野車庫行
10/03/22 01:28:53 lEY3OMpu
>>759さん
セミデッカー貸切格下げ車で
・塗装は路線オレンジカラー
・カンテラ方向幕
・中扉改造無し
・ライト改造
のようなやつがいたって本当ですか?

838:759
10/03/22 12:12:43 QJXtRI5W
>>837さま
よくご存じでいらっしゃいました。仰せの格下げ車は桐生、鬼怒川に数台ですが存在いたしました。
貸切格下げ車で扉増設を中止したのは1991年の夏ぐらいでして、その直後に改造した格下げ車(確かいすゞのCRA580と日野RV731だったと思います)から扉増設、後部方向幕取り付けが中止となりました。
いすゞですと確か6500番台の末期か6600番台の初期、セミデッカー車ではなかったかと思うのですが。
この方法は最も、以前扉増設改造を行っていた以前の方法であり、1980年に貸切格下げ車が再び出るようになってから5年間は方向幕増設、路線塗装(当時は青塗装でしたね)、ワンマン機器取り付けで扉増設はなしという方法で各地に広まります。

839:759
10/03/22 12:14:50 QJXtRI5W
838の続き
もっとも、塗装変更や方向幕取り付けメニューは配属地域により異なりまして、中には鬼怒川や日光など一部地域で見られたように、旧々貸切塗装(白×紺×水色)のままで改造された例もありました。
中にはカンテラ方向幕ではなく、フロントマスクのライト周りに方向幕を内蔵するタイプ(現行のタイプですね)も登場しますが、当時は故障も多く、また見やすさなどの関係で当時は最上部に取り付ける「カンテラ式」に落ち着きます。
当該の社番で言いますと7000~7100番台あたりだったと思うのですが・・・

扉増設中止の理由は前途のとおりでありますが、時期的に、それまで都心部等で使用していた初期冷房車を含め、冷房付き路線車が地方部へ転出できる環境が整ったこともあり、格下げの両数は最低限度に近い状態でもかまわない状況になったことも大きいのです。
また中扉の増設等にはかなりの費用と手間がかかり、さらに時期的に、日野RS、富士R3のようなスケルトン車体の初期車両が置き換え時期にさしかかっていた際、路線格下げに際し、当初は扉増設を検討いたしました。
しかし車体の骨組み構造やトランク部分の構造上、扉の増設はさすがの足利自修でも困難であるということで改造を断念した経緯があります。
扉増設無し、ライト改造あり、塗装変更ありの格下げ改造は1991年改造分の非常に短期間しか見られませんでした。
翌年の1992年改造分からは現行の改造のように、基本的に塗装やライト周りはそのままに貸切設備を外して方向幕と車内ワンマン機器を取り付ける程度の工事にとどめられることとなります。

840:759
10/03/25 21:44:44 XRcOvnWZ
>>832

水上で整備士をされていた方に話を伺うことが出来ました。
RC120ですが、新製配置で猿ヶ京に配属された後水上に転属した例が3台ぐらいあったとのことです。見た目はRB10Pのロマンスシート車とほとんど変わらずで、社番かエンジン音を判断しないと外からは分からないぐらいで、修理現場の人間の間からは気を遣う存在だったようです。
もっとも東京オリンピックに際して製造されたRB10Pの格下げ車が大量に出回る時期でもあったことと、高出力車のREはコスト面も含め、前途の数台しか導入されなかったとのこと。

前扉だけのトップドアワンマンカーは水上の新製配置はあったとしても1台か2台程度で、他はやはり大多数が転属車とのことでした。
前後扉車の導入に際しては当時の他営業所に導入された車両同様に最後部に車掌台を持つワンツーマンカーでした。
しかしワンマン化に際して、冬期車内保温などの目的からも後扉が使われなくなり、トップドア車を好むようになったことから、トップドア車の転属を受けるようになったそうです。
もっとも混雑の激しい時期、水上駅などでは締め切り扱いの後ろ扉から乗車するケースはありましたが。

841:名74系統 名無し野車庫行
10/03/26 18:50:54 EpIgmaoq
>>840
URLリンク(www5e.biglobe.ne.jp)
このページに載ってるBR10P中扉車はその下に載ってるトップドア車と同一仕様車を
扉位置変更した車って理解でおK?

842:759
10/03/26 23:11:40 Se5cvaoo
>>841さま
そのとおりです。
>>832さまにより解説の通り、扉の移設が行われた車両という解釈をされてよいかと存じます。

この改造案については諸説有るのですが、時期的にツーマン車1扉車を製造するかしないか社内でも議論されていた時期のことでした。
RB10P以外でも改造例はありまして、当時まだ残っていたツーマン路線用にということで中扉へ移設した例ですね。

余談になりますがRE100が登場した頃にもツーマン路線車は新製配置がありました。
数は限られますが、中之条などの山間部路線に新製配置だったと記憶しております。
車体は帝国車体か金産車体だったかは忘れましたが中扉1つのみ、バス窓の時代です。

843:名74系統 名無し野車庫行
10/03/27 12:04:06 1TYdB0Lj
>>841
その中扉化改造車、方向幕やドアが違うってあるが肝心のところが見えないのが残念
おそらく、幕はドア上でドアは上下二段窓もしくは、縦長通しガラスなんだろうな。

BR10Pといえば小平鍾乳洞付近に初期の冷房車が置いてあったがまだいるのかな・・・?

844:759
10/03/27 15:01:05 5fCA/vVM
>>843さま
改造した車両かどうか分かりませんが、当時のバスのドアーは1台1台異なっていることも珍しくはありませんでした。
中には上下二段というものもあれば、上のみ有り、下窓なしというのも結構ありました。
新製車両のドアーは結構上下2段窓というのが昭和36年以降の車両では多く見られましたね。

小平鍾乳洞付近の廃車体の件ですが、確か公式写真でも多く用いられた社3118号車ではないかと思います。
あの車両は長きにわたって大活躍でした。
東京駅~苗場国際スキー場の第1便もこの3118号車が使用されました。

話が逸れてしまいますが、当時長距離急行バスを担当しておりました営業所の一つに猿ヶ京出張所がありました。
小さな出張所ではありましたが、内容が内容ゆえ、当時の現場はとてもにぎわっていたそうです。

845:名74系統 名無し野車庫行
10/03/28 02:32:41 Jdt792I0
その昔、前橋の東急イン地下にあったディスコ「キング&クィーン」への団体客をよく東武バスor群馬中央バスが乗せていたような記憶があるが?
夜11時半ぐらいにバスが東急インの前で待機していた記憶がある。
時々見たのが40人乗りのスーパーハイデッカーもあれば、普通の路線車、貸切格下げも。
バブル真っ盛りの東武バスが懐かしい。

846:名74系統 名無し野車庫行
10/03/28 03:13:02 Jdt792I0
759さん>
日野RE富士3E車冷改車でデンソーではなく
ヂーゼル機器のエアコンを積んでたバスがいたような?
日野=デンソーというイメージが強いので覚えてました。
あとRL320もあったような?
教えてください。

847:名74系統 名無し野車庫行
10/03/28 13:42:41 uCUrEe2h
>>845-846さま
たいへん懐かしい話しですね。
前橋東急インの地下"King&queen"輸送思い出しました。このディスコはあのマハラジャ系の流れを汲むディスコでした。
当時、物珍しさに群馬県内各地から団体輸送があったのを覚えております。特に週末ともなると群馬バスさん、群馬中央さんのバスも来ておりました。東武でも沼田や渋川、伊勢崎などからも来ておりました。
その際車種はいろいろでしたが、学生さんの団体では主に路線車、それ以外では貸切車だったと記憶しております。
ただボーナスシーズンだったか忘れましたが通常の団体さんで路線車を使用した際、酔ったお客様が(それも高額紙幣)運賃箱にお金をどんどん入れてしまい、運賃箱が故障してしまった事件もありました。
運転士は「お客さん、貸切だから運賃は要らないのですよ」と言ってもどんどん紙幣が料金箱に。
あとで営業所到着後に引き抜きがたいへんだったと記憶しております。
このような輸送は1年ぐらい続きましたが、バブル崩壊とともにすぐ無くなりました。

日野のRE120・富士重工3E車体冷房改造車ですが、仰せの通り、ヂーゼル機器製冷房搭載車はありました。
数はそれほどあったわけではありませんが、同車体構造のいすゞBUと改造を推進するための選択であったと聞いております。
富士重工3E車体に限らず、日野車体のREでもヂーゼル機器製冷房を搭載した例はあります。
RC301と同等の車体で登場したRE121だったかの非冷房車の内、一部の冷房改造車もヂーゼル機器製冷房を搭載しておりました。
(いすゞCJMと同じ冷房ユニットを搭載していたのがありました)
日野車で日本電装製(現・デンソー)冷房に統一されるのはRC301以降です。

RL320もヂーゼル機器製冷房を搭載していたのはごく僅かですが(確か3台程度)です。
ほとんど日本電装製の冷房だったと思います。

848:名74系統 名無し野車庫行
10/03/29 01:15:24 xtELgKRU
前橋の東武バスも撤退から10年。
早いな。
キングオブクイーンも東武バスが撤退した頃なくなった。
群馬で初めてのディスコだったね。
前橋の東急インは地元運営の前橋インに切り替わった。
日比谷花壇も無くなって久しい。
中央駅前でよく東武の観光バスが待機していたっけ。

849:名74系統 名無し野車庫行
10/03/29 01:22:07 xtELgKRU
>>848
○=キングアンドクイーン
×=キングオブクイーン

>運転士は「お客さん、貸切だから運賃は要らないのですよ」と言ってもどんどん紙幣が料金箱
すげえ時代だ・・・

850:名74系統 名無し野車庫行
10/03/29 04:54:16 SNS5d/z3
前橋駅前のイトーヨーカ堂のオーナーは東武らしいですね。
駅南に出来たけやきウォーク前橋や高崎のイオンモールの影響で撤退が噂されてるけど。

851:名74系統 名無し野車庫行
10/03/29 11:21:34 lXE/yQK/
>>850
けやきウォークは平日の昼間でも駐車場待ちしないといけないうえ、無駄に広くて
疲れたりで普段の買い物には意外と不便なのでヨーカ堂は残してもらいたい。

亀ながら、759さん他の話に触発されてバスコレUD4R改造でBR10-Pなんかを
作ってみてる。
URLリンク(user.ftth100.net)
簡単にいくと思いきや、効果は薄いのに工程上必要不可欠な切継ぎが六箇所、
しかしドア付近がよくわからないのであくまでタイプ・・・orz

852:759
10/03/29 12:12:07 WnrZrJJ5
>>850-851様
仰せの通り、前橋駅前「前橋STビル」は東武鉄道も所有者ですが、このビルは以前前橋案内所の裏側にあった曽我製粉さんとの縁で、曽我・東武の共同所有となっております。
先日の報道でイトーヨーカ堂の撤退の可能性が報じられましたがどうなることか注目されます。
丁度ビルが出来てから23年、あのときは大いに盛り上がりました。
全国でも早くからコンピューター方式での案内システム導入なども話題になったものです。

なんでもイトーヨーカ堂の撤退報道の際、駅前の再開発、バスターミナルの再整備も行うという発表がされました。
今駅前にテナントの入っている平屋の建物あたりにバスターミナルが動くとかと聞いておりますがどうなることか気になりますな。
数年前に前橋を訪れた際、有人の案内所を見て懐かしくなりました。

イトーヨーカ堂がオープンした際、東武トラベルでは定期券をさばききれず、営業所から出張して定期券販売をしたのも懐かしい想い出です。

853:759
10/03/29 12:20:14 WnrZrJJ5
おっと書き込み忘れました 何時も長文お許し下さい。

>>848-849様
当時の前橋ディスコはミルキーウェイ、シルバーフォックス、カンタベリーハウスがあり、これにマハラジャ系の流れを汲むKing&queenが来たものでした。
場所的に丁度、中央前橋駅近くでしたから当時の上毛電鉄タクシーさんも大繁盛でした。
貸切車の配車地は東急イン手前の坂下バス停でした(終バス後でしたので何ら問題有りませんでしたが)
よく中央前橋駅前で待機していたのものです。
日比谷花壇は何かとお祝いの時にお世話になりました。


>>851
模型、よく出来て居るではありませんか!いやはや感服でございます。
あとは塗装を何にされますか?シマウマ塗装でしょうか?それとも青×クリームのツートンカラーでしょうか。

854:851
10/03/30 16:22:36 uOHpowYg
>>853
いつも貴重な情報ありがとうございます。
模型の方ですが、なるべく加工箇所がわからないように撮ったことに加えベースが
よくできているおかげですよw
塗装についても一番苦手な工程なので簡単に済むツートンで行く予定です。

なお現在、文献等をあさっているもののドア周りの様子がさっぱりで、
せめて方向幕の位置や、車掌台窓の有無がわかればいいのですが・・・。


855:名74系統 名無し野車庫行
10/04/06 21:44:32 MYBeDgTo
>>854
規制のあおりを喰らってなかなか書き込みが出来ずすみません。
ツーマン車の中扉と方向幕の位置ですが、いろいろ種類がありますが、一般的にはこんな感じになったかと思います。
いずれもバス窓時代のものですが、
1 中扉から向かって左側最初の窓は上段方向幕+下段引き違い窓
  中扉から向かって右側最初の窓は天地一杯に引き違い窓

2 中扉上に方向幕が存在
  この場合、中扉から向かって右側最初の窓が上段バス窓+下段引き違い窓の車掌台
  (東武では中扉上の方向幕は大多数で早くに姿を消し、窓上段に方向幕を設置する方向で統一が進められます)

ボンネットバス時代から1の例が東武では主流でした。
何しろ公式側写真が非常に限られるもので、私も記憶の限りでしかお答えできませんが、どうぞご参考になさってください。

856:名74系統 名無し野車庫行
10/04/07 02:25:58 LKXXUl0n
759さん他>

川越か上尾あたりにBT51orBT71あたりの前後扉車がいたような。
ガキの頃にずいぶんと変わった車だなあって感じてた。
普通なら後ろ扉の後ろにも窓と席があるのにリアいっぱいに後ろ扉。
しかも後ろ扉は引き戸。
こんな車いましたよね?

857:田中日月
10/04/07 09:01:50 foM5alBV
昔水戸にも東武バスが走っていましたね



858:名74系統 名無し野車庫行
10/04/07 21:14:09 spdltR+B
>>856
懐かしい限りです。これは昭和44年式最終ロットのBT51が該当いたします。時期的に、「シマウマ塗装」の末期分でもあります。
台数はそれほど多くはありませんでしたが、仰せのタイプはワンマン初期世代の前後扉車でテスト導入された内の1モデルと聞いております。
確か社番は5500番台の前後だったはずです。後扉が引戸式というのは当初、折戸にするか引戸にするかいろいろ検討していたためのテスト採用だったと聞いております。
他社さんでは後扉も引戸というのが一般的でありましたが、ワンマン・ワンツーマン前後扉車を大量導入する際、部品共通化の目的から、後扉も折戸式を本格採用いたしました。
この流れがツーステップ車末期の平成10年頃まで続くとは夢にも思いませんでしたね。
一時期、前後扉車についてどうするか検討されていた時代がありまして、確かいすゞLVを導入する頃に前後扉ではなく前中扉車で基本的に統一しようかという議論もされたことがありました。

>>857
水戸の東武バスも懐かしい限りです。
けっこう中距離路線もありまして貸切格下扉増設車も水戸まで顔を出しておりましたね。
あれは日立電鉄さんにも影響が及びまして、当時日立電鉄さんで使われておりました扉増設車の数台は足利自修で改造した車があったと記憶しております。
茨城の東武バスですが、筑波万博の時の輸送がとても評判が良く、そのため貸切部門が末期まで残ったのはそのおかげでもありました。
下館のように後の後まで貸切の新車が入っていたのはそのためです。


859:854
10/04/07 23:39:55 cTv2Gd6A
>>855
いつもながらありがとうございます。
加工のしやすさや、プロトタイプにした車の一般的な車両とは幕の位置が違うという解説から、2の方で進めることにします。

予断ながら私も携帯、PCともに規制中でした。ここで言ってもしょうがないのですが、あの規制乱発の運営
どうにかならないものですかね・・・。

860:759
10/04/08 01:08:22 mA3hndsK
寝る前にちょっと書き込みます。

>>859
手元の古い社内報で社3664号車の写真を見る限りですとR13車体の中扉1つのみツーマン車(シマウマ塗装)でして
・中扉向かって左側に上段方向幕、下段は引き違い窓
・中扉向かって右側に天地一杯の引き違い窓
このようになっておりました。

うろ覚えで恐縮ですが、私が聞いた限りでは3500番台の元貸切格下改造車で1,2台ほど扉上の方向幕車があったという話しを先輩から聞いたことがありました。
沼田か鎌田所属車両には兎に角バラエティに富んだ車が在籍しており1台1台仕様が異なっているのも珍しくなかったというのは有名らしいのですが。

お役に立つかどうか分かりませんがご参考まで。
おやすみなさい。

861:名74系統 名無し野車庫行
10/04/09 08:35:18 Sek6xoSh
ここの方なら分かると思って。水戸駅で撮影した日野-富士の貸切格下げ車 運転席のパネルが丸いタイプ 型式分かる方いらっしゃいますか? 多分RV730だと思うんですが

862:名74系統 名無し野車庫行
10/04/09 12:14:36 aTcjEmAm
格下げ車って言えば
以前桶川駅西口までも来てましたよね?
子供心に強烈なインパクトでした。

863:759
10/04/09 21:44:16 aTcjEmAm
>>861
当時笠間などにも仰せのRV730を始めRV731やCRA580などの格下げ車もいました。
懐かしい限りです。
貸切格下車の末期には古河と笠間でいすゞと日野の交換があったりしたのも記憶していますが社番まではわかりません。
このころの笠間は路線車でもブルーリボンの7900番台なども水戸まで姿を見せておりました。
余談になりますが全盛期には前橋から水戸まで東武バスを乗り継いでいけば旅も出来たほどというのは伝説になっていますね。
水戸駅~赤塚駅~杉崎十文字~大和田~笠間駅の移管路線も一部区間を残しすでになくなってしまったそうで、昔の名残はほとんどないようです。
茨城の東武バスと聞いていつも思い出すのが、茨城~千葉~埼玉の3県にまたがって走っていた、下妻駅~北越谷駅線を思い出します。
距離はそれほどでもありませんでしたが、急行便もあったりで乗りごたえのある路線でしたね。



864:名74系統 名無し野車庫行
10/04/09 21:59:52 aTcjEmAm
訂正
×=下妻駅~北越谷駅線を思い出します。
○=茨城急行の下妻駅~北越谷駅線を思い出します。
あのころは茨城急行とともに東武バスも茨城県内を多数走っていましたね。

さて自己レスになりますが昼下がりに>>862に中途半端に書いてしまったのですがいくつか。
熊谷や行田には貸切格下げ車が配置されていましたので時にはかなりの遠征をして各地に後年まで神出鬼没をしていましたね。
少し前に元整備士さんとお話をした際に出てわかったのが、昭和40年代、ツーマン車の代用に格下げ車を使っていたことがあるというのです。
これはいずれも1~3日程度、長くても1週間程度ですが、車検や故障などが起きた場合に代車の代車ともいうべきことで使ったケースがあると伺いました。
当然方向幕は「東武」表示。
子供心に覚えているのでびっくりしたのはそれだったのだなと納得でした。

余談になりますが平方~小見野~亀の甲~東松山線にはBT51貸切中型車の格下げ車が使用されていたこともありました。
台数が少ないだけにご記憶の方も少ないと思います。

865:名74系統 名無し野車庫行
10/04/11 03:50:15 6XYg520L
前に県立博物館で見たのだが
洪水の時、水に浸かった街中を、東武の制帽をかぶった人(運転士?)が船をこいでいた写真を見た。
これって代替バスならぬ代替船?

866:名74系統 名無し野車庫行
10/04/11 20:09:29 yy7nWFM6
>>865
私も地元自治体の方や先輩から聞いた限りでしか存じ上げませんが、特に昭和40年代まで年に数回ほどそのような「代替船」があったのは事実でして、洪水が発生した際にバス路線をつなぐ目的で船による輸送が行われておりました。
台風シーズン、台風の予報が発表されると、洪水が起きやすかったり、水が出やすい地域では、営業所が前もってお願いしていた農家から船を借りて、バスの屋根に船を積んで用意しました。
船と言ってもかなり立派な手こぎ木造船です。今でも残っている農家があると聞きます。
洪水が発生した状況に応じて、あらかじめどこまでバスが走れるか調査し、浸水してしまった地域から、次の浸水していない地域までを結ぶシャトルバスならぬシャトル船とも言ってもよいでしょう。
先輩に聞いたところ、当時は入社して間もない運転士や男性車掌が地元農家の方々、役場の方々とともに船頭をするのが通例だったらしいです。
漕ぐのも非常に苦労されたそうですが、当時は自家用車も少なく、どうしても出勤しなければならない方などにはとても喜ばれたと聞きます。
地元の方も浸水してたいへんだった中、先導役の運転士や車掌に地元の方が食事の用意までしてくださったそうです。

郷土資料によりますと、ある地域では当時荒川の川底と、周辺の水田・畑の高さは同じだった地域もあります。
昭和40年代に入り二重堤防化、荒川の付け替え(流域変更)が進み水害の軒数が劇的に減少しますが、昭和50年代初頭までそうした例があったそうです。

867:名74系統 名無し野車庫行
10/04/12 19:54:00 VOALOAuC
昔の埼玉の本庄と群馬の前橋を思い出す


868:名74系統 名無し野車庫行
10/04/12 23:31:03 b9/eLWO7
>>867
本庄の全盛期は皆野や児玉へ抜ける路線がとても繁盛していましたね。
また急行バス全盛期には寄居からの八塩温泉ゆきや伊香保・水上・伊勢崎・赤城方面へ走る急行バスを担当した時代もあったそうです。
鬼石には出張所があった時代もあったのはご存じかと思いますが。
深谷出張所の閉鎖により路線を引き継ぐ際、かなりの数の路線を引き継ぐこと、回送距離の問題などもあり、当初は熊谷寄りの路線を熊谷に移管する案や、群馬中央バスさん、十王バスさんへの移管案など多々ありました。
しかしまだ当時熊谷営業所はかなりの路線を持っておりましたため、当時営業所であった本庄が引き継ぐことになりますが、合理化の促進により引き継ぎと同時に出張所に格下げとなりました。

個人的には本庄というとギャンブル輸送を思い出します。

869:名74系統 名無し野車庫行
10/04/12 23:50:09 j6+aWEpM
北越谷の駅前にデカいバス路線図が掲示してあったのを覚えてる人いるかなぁ。
確かあの中に紫ゴルフ場行きやせんげん台駅行きとかがあったような…。

870:名74系統 名無し野車庫行
10/04/12 23:55:35 j6+aWEpM
北越谷駅東口のバス乗り場にデカいバス路線図が掲示してあったのを覚えてる人いるかなぁ。
確かあの中に紫ゴルフ場行きやせんげん台駅行き(茨急担当だっけ?)とかがあったような…。

昔の東武バスといったら越谷や春日部ぐらいしか思い出せないし。

871:870
10/04/13 00:17:24 RRub9ixR
ごめんなさい。
間違えて2度も投稿してしまいました。
869は無視して構いません。

872:名74系統 名無し野車庫行
10/04/14 06:29:06 qGOOIOXn
そういえば3ドアなんて大宮地区に結構あったよね。
なんであの辺に入れて足立や葛飾に入れなかったのかな?

873:名74系統 名無し野車庫行
10/04/14 08:07:01 VoT0vMtK
そもそも3ドアの用途方法が西武とかとは違ったからな。
東武の場合は、後部ドアは後乗り路線の入口専用、中ドアは前乗り路線の出口専用。

874:名74系統 名無し野車庫行
10/04/14 15:12:59 nqbENavS
>>864
東松山駅~平方間は東松山の担当ですが
東松山に日野の配属があったと言う事なのでしょうか?

875:名74系統 名無し野車庫行
10/04/14 20:50:37 roEKl378
>>869-871様
有りました有りました、高架駅になる前の北越谷駅東口に有りましたね。
仰せの通り東武・茨城急行2社の路線が色々と書いてあり今思えば何処まで行けるのかと興味をそそる内容でした。
紫ゴルフ場ゆきのみならず千葉・茨城方面への広大な路線網。下妻へ向かう急行路線などなど。
本当に懐かしい限りです。

>>872
東武における3扉車の導入についてですが、これは他社さんで3扉車を導入するようになってからかなり社内的な研究、議論をしていたのは事実です。
計画では大宮・上尾地区以外の他、東京都内路線でも導入を検討していたことがありました(これは当時の組合新聞等にも出ていたかと思います)
先にご教示いただきました社2985号車の改造に際しては後で私が調べたところ、やはり3扉車を導入するためのテスト目的での改造であったと聞きました。
都内での3扉車導入が実現しなかった理由はいくつかありますがはっきりしたことは私も調べてみないとわかりません。

>>874
手元の古い資料を引っ張り出しましたところ、東松山~大宮を直通運転していた末期の昭和49年8月、また分断翌年の昭和51年にそれぞれBT51中型格下げ車を使用していた記録があります。
昭和49年の方は当時実際に運転した運転士からの話ですが、これは沿線の毘沙門天様で大きな祭りがあった際に増発を行ったためでした。
昭和51年の方は通常使用車両が故障で使用できなくなったために車検上がりで三進工場に入場しておりましたBT51を急遽借用しての運用でした。
よくこの線で聞くのは「毘沙門天様で催事が行われるときだけ大混雑だった」というものでして、分断された年とその翌年までは、催事の時に限り、直通運転の復活と増発を行っておりました。
自家用車が普及する以前は、催事の時ともなりますと3台続行運転でお客様をご案内したそうです。

876:名74系統 名無し野車庫行
10/04/14 22:51:00 qGOOIOXn
大宮・上尾管内は信用乗車制度が主流だったしね。
ただ、新座管内でも一時期信用乗車制を採用していたので
トライ的に大宮か上尾から借りてきて3ドア車使ってみても
良かったのではないかとは思いますね。

それにしても、境や前橋に転属した3ドア車を見ると
妙な切なさを感じたものですね。

877:名74系統 名無し野車庫行
10/04/15 00:37:38 lCzJlCvQ
>>876
寝る前にちょっと書き込みます。
私は新座方面にはちょっと疎いのですが、一時は新座にも3扉車の導入を検討していたのは事実です。丁度日野のK-RC301で3扉車を導入した際、いすゞ車でも3扉車を導入しようかという案が進められておりました。
折しも時期的には他社さんでCJMの3扉車、また三菱・日野・UDで富士重工業車体を搭載した3扉車導入例もありましたので、富士重工業へも相談したようです。
もしも実現していればいすゞ車のみならず日野車でも東武の富士重工業車体の3扉車が出現していた可能性もありますね。

境や前橋への転属でありますが、いくつか話しを聞いたところ、当初は中扉を使い、後ろ扉は混雑時のみという計画もありました。
しかし他車両との取り扱い統一などから中扉の締切りを行う「境方式」が出現します。
前橋にK-RC301の3扉車転属直後には、朝晩の一部や波動輸送などに3扉をフル使用したこともありましたが、半年経たないうちに使わなくなったと記憶しております。
いつも長々と済みません。
おやすみなさい。

878:名74系統 名無し野車庫行
10/04/17 12:00:58 akJSYMUT
ろだより

URLリンク(halfzero.sakura.ne.jp)

879:759
10/04/23 21:01:27 hDKehk4B
>>878
たいへん懐かしい映像をありがとうございます。
この話しも先輩から聞いた限りでしか存じ上げないのですが、何でも放送局との仲が良かったという縁でドラマへの車両貸し出しがあったということであったと聞いております。
バスに限らず東京放送のドラマでは東武がロケに使われる事が多かったですね。
聞いている限りでは、貸し出しについては1日単位、貸切扱いで行われました。
ですので映像中、当時最新鋭の小田原機器製運賃箱もそのままに出ております。
現場ではまさか国道246号線を東武の車両が走るなんて夢にも思わなかったということで盛り上がったこともあるそうです。

880:名74系統 名無し野車庫行
10/04/24 03:15:10 OB3qXzTx
金八先生でもよく東武バスが出たな。


881:名74系統 名無し野車庫行
10/04/25 23:48:20 H1ohU6N5
test

882:名74系統 名無し野車庫行
10/04/26 00:00:06 H1ohU6N5
何とかかけるみたいな。
阪東バスでは早くから中二つ折り戸の車両が走っていたし
その手の3ドア車は早くから採用できたのではないかと
今でも思いますね。
日野ブルリシティでは天沼に配備された9479~9484
(大宮ナンバーの2970~2975・ワンステ含む)が
それに該当するのではないかと思いますが
当時は信用乗車方式から共通カード導入による
後ろ降り後払い方式へと変わる大きな変換期でしたし
色々考えていたのだろうな、とは思いましたね。

末期は上尾本所(現在は廃止→貸店舗化)にも中型ながら
中二枚折戸車が導入され、そいつがさらに大宮駅東口にも
現れた時はインパクトはありましたっけね。

最後に、大宮本所の前中後車は
晩年は中扉のガラスに「この扉は開きません」と
注意書きを貼っていたものの、スイッチ自体は
別に殺していた訳ではなく、車いすの乗客がいるときは
中扉を使っていることもあったと記憶しています。


883:名74系統 名無し野車庫行
10/04/27 02:43:04 hikxX9Zf
>>880
堀切駅前行きの架空の路線なんか出てたな。
TV見てたウチの姉は、「あんな所にバス走ってんだ」とか驚いていたが。

884:名74系統 名無し野車庫行
10/04/27 21:51:14 gl62nFl7
>>880様・>>883
金八先生と申し上げますとやはり私たちも東武バスを思い出してしまいますね。最後のエンディングテロップにも東武バスのロゴが見られた数少ないドラマの一つでした。
ご存じの通りバス路線もバス停も架空のものでして、バス停、方向幕ともにロケのために用意したものでしたね。
堀切駅周辺は千住曙町ですので、場所的には京成さんがやるのかなと思っていたのですが。
余談ですがどの回か忘れましたが国際興業さんも出ていましたね。

>>882
3扉車及び、中扉の4枚折戸車についてですが、導入がなかなかできなかった理由には道路環境の問題もございました。
早くから研究が進められていたことも事実ですが、特に都内や埼玉県内の都心部等で、道路フェンスや縁石の切れ込みなどの問題もあり、なかなか実現に至らなかったのは事実です。
また、他社さんと同じ道路を通る系統で導入しようとしても、他社さんで使用されている車両と成る可く同じ扉構造でなければ難しい問題もありました。
あとはご存じの通り、昭和46年~47年の前後扉車集中投入の影響も大きいかと思います。前中扉車は本当に必要最低限度しか導入されませんでしたからね・・・
私が聞いていたのは877で書いたとおり新座の他、当時まだ輸送力を必要としていた熊谷の立正大学線系統などにも3扉車や4枚折戸車の導入を検討していたのは事実です。
3扉車の中扉使用は運転士の裁量にゆだねておりました。
混雑時や車椅子のお客様対応のみならず、用途外などでもかなり中扉が重宝していたケースがあったためです。
前橋などへ転属した後も、機能をカットしないでただパイプで仕切っていた車もありました。

885:名74系統 名無し野車庫行
10/04/27 21:55:09 1jjbgord
3代前くらいの金八で職業実習か何かで車庫出なかったっけ

886:名74系統 名無し野車庫行
10/04/27 22:31:03 LTPLJVna
境の場合は動物公園駅~動物公園間の路線や館林場外(現在はいずれも
茨急ですが)を担当していた関係上、大宮や上尾で余剰になった
3ドア車が多かったのも事実ではあったと記憶しています。
その関係からか中扉を封印していた車両としていなかった車両が
混在していたのもあったと思いますね。

中扉を封印された車両はどちらかというと
そこが掃除用具置き場になり下がっていたのも
存在していたと記憶しています。

太田にも3扉車(7906号車・群馬ナンバーの3245)が
半年ほど存在していましたが
あれはどちらかというと事故廃車による一時的な
代替に過ぎなかった感が強かったですね。

殆ど稼働せず車庫で昼寝してた感が強かったですが。

確かに上尾や熊谷は4枚折戸車の方が実力を
発揮できたのではないかとは思いますね。
後は、あるとしたら川越駅~鴻巣免許センター線位かな?

887:名74系統 名無し野車庫行
10/04/28 00:36:39 GaT2oPm+
>>884
>余談ですがどの回か忘れましたが国際興業さんも出ていましたね。

昔、京成関屋駅に国際興業バスが乗り入れてたから、たぶんソレかと?

888:名74系統 名無し野車庫行
10/04/28 03:59:02 kzCYr0Ob
川越駅~鴻巣免許センター線は距離が長いから、
座席数が多くて収容力の高いある前後扉車のほうがよいのでは。
だから川越には最後まで前後扉車の大型車が配置されたんでしょうし。

889:名74系統 名無し野車庫行
10/04/29 21:52:22 aD7S4vD5
>>888
俺が更新で鴻巣行かされたときは座席数最小のブルリノンステで
えらい迷惑したんだが
3年前か6年前

890:名74系統 名無し野車庫行
10/05/01 01:41:55 BrVPAqsg
www.youtube.com/watch?v=8PMWYfkJ--g

これに貸切格下げが出てる。
某公共放送の「群馬バス事情」レポート。93年頃?

891:759
10/05/01 12:10:21 mHuu/jMG
アクセス規制でなかなか書き込みができませんでした。
いろいろ昔のことが懐かしくなり毎度長くなってしまい申し訳ありませんが分けて投稿したいと想います。

>>885・887様
そうでしたね、そういえばその昔は京成関屋駅まで埼玉から国際興業さんが遠路はるばる乗り入れていましたね。鳩ヶ谷~西新井橋~京成関屋駅の系統でしたな。
もっとも時期的には金八先生Part1,Part2の頃に廃止されたと記憶しております。
私も全部金八先生を見ていたわけではありませんですので詳細をお答えすることができず申し訳ないのですが、確か1995年頃の金八先生に東武バスが出たときはかなり盛り上がっていたのを覚えています。


>>886様・>>888
3扉車の中扉使用停止については営業所の裁量にゆだねられておりました。
仰せの通りでありますが、動物公園線及び館林場外輸送の他、境では朝晩の学生輸送等に現場では3扉車が重宝していたと聞いております。
前橋でもK-RC301の3扉車転属当初は前途の通り、多客時や用途外、またギャンブル輸送などで3扉機能をフル回転させていたこともありました。
太田の社番7906号車はピンチヒッター的な存在でしたね。ただ、朝晩には熊谷-太田線でそこそこ動いていたと記憶しております。転属間もない時にはラッシュ時に中扉、後扉両方を使用しその威力を発揮していたのを見かけております。

4枚折戸車の導入に関しては当初、非常に難しかったという話しをいくつか聞いております。
東武の場合、先払い方式路線の数が少ないこと、また後ろ乗り前降り路線で4枚折戸車になりますと、整理券発行機やカードリーダー等の問題などがあり、両側に設置できれば良いのですが、そこまでの需要が低かった問題もありました。
そのために導入開始後、ツーステップ4枚折戸方式の車両導入も最小限度であったと聞いております。
もっとも1990年代後半からのワンステップ車両導入では4枚折戸方式の中扉車を導入するようになりましたし、4枚折戸でも片側だけ扉扱いをするスイッチを使うようにして対処した、という感じでしょうか。
川越に導入されました最後の前後扉ツーステップ車両ですが、この導入に際しては中型車両の導入が進められていた時期、さらに大型前後扉車が導入されなくなって2年ぐらい経ってからの導入でしたので、私も意外だなと思いました。
導入の背景は仰せの通り川越ならではの長距離路線対策ということも大きいのですが。

892:759
10/05/01 12:14:42 mHuu/jMG
>>890
とても懐かしい映像を拝見できありがたく存じます。
この映像は仰せの通り1993年、桐生の大規模な路線改廃のときのものです。今となって映像で残っているものとしても相当貴重な光景になります。
また館林の路線バスが廃止後6年経っているということからも丁度1993年のものです。
ただ、館林出張所は館林市内の路線がなくなった後も花山方面への臨時路線免許を持っておりましたほか、富士通館林工場(現・富士通館林システムセンター)などの特定輸送も続けていました。


話が逸れてしまいますが、鴻巣免許センター線~川越駅線のお話がありましたのでこの機会に。
この路線は皆様ご存じの通り鴻巣駅~川越駅線が1988年の埼玉県運転免許センター移転に伴い延長・乗り入れを開始した路線の一つですが、当時はかなり混雑していたときもあり、免許センターの混雑予想時には川越-鴻巣免許センター間の臨時急行便が設定されておりました。
臨時急行は特発扱いになるのですが、方向幕が用意されており、ご覧になった方もいらっしゃるのではないかと思います。
最も年に数回しか運転しませんでしたが、鴻巣免許センター、古名、荒子、川島農協前、落合橋、神明町車庫、本川越駅、川越駅ぐらいしか止まらず、鴻巣駅にも止まらないというのは社内でも思い切ったことをするもんだと話題になったことがあります。
尚、上記の通過停留所関係もありまして、急行運転時にはワンマンではなくツーマン運転でした。
この急行便は2001年まで運転されておりました。方向幕は、系統番号表記無し、急行文字は緑文字で用意されておりました。
車種は特に限定しませんでしたので、ノンステップ車両による急行運転も見られたことがあります。
この臨時急行に限らず、鴻巣免許センターができるときには、一気に各方面から鴻巣に来る路線を免許センターまで延長運転することで社内でも大いに盛り上がりました。
あの時は東松山、川越、加須のみならず、行田、熊谷、羽生、上尾等の各方面からも路線が鴻巣に来ておりましたので、社内でもさらなる活性化のきっかけになればということでかなり力を入れていたと覚えております。

893:名74系統 名無し野車庫行
10/05/02 21:27:19 rI0/MQWZ
>>ID:mHuu/jMGさん
いつも貴重なバスよもやま話ありがとうございますm(_ _)m
アクセス規制の巻き添えに遭ったとは、とんだ災難ですね・・・・・・(私も巻き添え食らいましたけど)

>>890
池上さん若っ!w

894:名74系統 名無し野車庫行
10/05/03 16:50:31 eNZ4VSkm
テスト

895:名74系統 名無し野車庫行
10/05/03 17:16:36 eNZ4VSkm
書けるみたいね
あっしもアク禁くらってた
中4枚折り戸車は確かに1994年前後から登場していましたね。
一番最初は東京都内でしたが、1995年になって埼玉県内で
ようやく登場してきた感じでした。
以前にも話しましたが当時は埼玉県内で信用乗車制から共通カード導入による
後払い制への転換期を迎えることもあって天沼に6台導入されたのみでした。
そのうちの9483・9484号車(大宮ナンバーの2974・2975)は専ら浦和
(現・さいたま)市立病院線の専属車として活躍していましたが後に領家
(現・領家新都心線)にも顔を出すようになったと記憶しています。
天沼で言うと、乗降方法変更後も始発地(主に駅ですが)では中扉・後扉、
中4枚折り戸車ですと両サイド全開にして効率よく乗車させていた記憶があります。
1997年に9556・9557号車(大宮ナンバーの3231・3232)も大型の中4枚折り戸で
登場していますが、この他沼南営業所にも同タイプの車両が3台入っていたと
思いました。しかし後者は全車転属となり上尾・新座・川越で活躍する事と
なっていますね。

896:名74系統 名無し野車庫行
10/05/03 17:18:22 eNZ4VSkm
蛇足ですが、菖蒲では2000年に都内からワンステ1台、新車で中4枚折り戸の
ワンステが1台入っていますが前者は蓮田駅~国立東埼玉病院線の専属として、
後者は北本団地循環線の専属で活躍していたと思います。
後に越谷営業所や行田出張所閉鎖に伴い車両の入れ替えを行った際
都内から来たワンステの方も北本団地循環線の専属となった気がしましたが・・・。
色々調べたら中引き戸式ドアのワンステップバスって京急なんか
80年代後半には結構入れていたんですね。
東武でもあのタイプのバスを早くから入れていればある意味
今見たく「最先端を行く」感じだったと思いますね

897:759
10/05/08 13:10:16 AKk3NNBR
>>895-896様
他社局さんでは1990年代初頭、既にワンステップ車の導入がごく少数で、4枚折戸方式車に至っては多数の社局さんで導入されており、東武でも研究をしていたのは事実です。
ワンステップバスについてはまず道路環境が芳しくなかったこと、さらには車両メーカーの架装状況などもありなかなか実現に至りませんでした。
4枚折戸についても前途の通り扉扱い等の問題もあり実現までには紆余曲折がありました。
1992年に導入いたしました最初の試作ワンステップバス、社番2204・2205号車についてはいすゞ自動車さん、富士重工業さんとともに3社で開発した記念すべき車両でした。
量産を目指す目的としては100年史にも掲載されておりますがいすゞ自動車さんとしても初の試みでして、いすゞシャーシに富士重工業車体を載せたワンステップバスとしては初のものとなります。
ワンステップバスの導入に際しては、いすゞ純正車体を導入することも検討されましたが、キュービック独特の1枚窓、また両脇の窓構造が後に出る「東武面」の2枚窓にできない時代でした。
加えて富士重工業さんの車体がまだまだ全国的にも導入されていたこともあり、いすゞ自動車さんとしても富士重工業さんの車体で開発をしましょう、ということになりました。
(前年都営さんに導入されたいすゞ都市型超低床車はアイケーコーチ車体でした)
この試作ワンステップバスの開発に際して、中扉を4枚折戸式にするか、それとも引戸式にするかいろいろと悩みました。
西日本車体工業さんがすでに中型ですが4枚折戸式のワンステップバスを導入していたこともあり、設計段階ではそうしたものも検討されていたのを覚えています。
また、設計の時点では、前年に都営さんが試作ワンステップバスで3扉ワンステップバス「都市型超低床車」を導入しており、3扉式ワンステップバスが検討課題に挙がったことは事実です。
しかしながら様々な問題から中扉を引戸式、前中扉方式に決定としながらも、東武の路線バスとしては久しぶりの貸切タイプ窓を持つ路線車に仕上がりました。
(1992年に都営さんが導入したワンステップバスはエンジンの設置問題や車体強度などの観点から2扉方式に戻っております)
1993年にも東武では前年登場のモデルに改良を加えた社番2269・2270号車を導入します。この時点でもまだ中扉は引き戸式で、やはり道路環境の問題や扉扱いなどの観点から4枚折戸式を導入しませんでした。

898:759
10/05/08 13:19:15 AKk3NNBR
4枚折戸方式の導入については、都内の前乗り中降り路線で、混雑の激しい現場から、3扉車を導入または4枚折戸方式車を導入してほしいなどの要望も出されておりました。
すでに3扉方式については大宮・上尾地区などで実績があったものの、東京都内路線では道路環境の問題や営業地域において3扉車が他社局さんで使用されていない、あってもごく少数という問題点がありました。
それなら他社局でも使用されている4枚扉車を代替購入時、思いきって導入する方向になります。
こうしていすゞ車で1994年の社番2345号車から4扉折戸方式車の導入が開始されます。
また、この流れを受けて、同年導入のワンステップ車も同じく4枚折り戸方式で導入いたしました。以後、平成13年頃までのワンステップバスはいすゞ、日野共に全て4枚折り戸方式で導入されます。
4枚折戸方式車導入についてはもう一つ理由があり、1994年に導入される車椅子リフト付き大型扉車の導入もきっかけです。開口面積が4枚折り戸とほぼ同じであったことです。
車椅子リフト付大型扉車についてですが、これは他社局さんで導入があったこと、富士重工業車体の架装が可能であることから導入が実現しました。
但しリフトについてですが、車体の構造がリフトの重さ(約500Kg)に耐えうること、また油圧式リフト(これは専門メーカーさんがあります)が高価であったゆえ、東武を含めて導入した事業者はごく僅かでした。
しかし、このリフト構造等が後に、日野さんのリエッセリフト付きバス等にも生かされることになります。

日野3扉車を導入していた営業所においても、都内で4枚折戸方式を導入し、一定の成果が得られていることを踏まえ、仰せの通り1995年、天沼でツーステップ4台(社番9479~9482号車)、ワンステップ2台(社番9483・9484号車)の合計6台を投入します。
この時期のワンステップバスは1996年頃まで改造扱いであったため、現場ではいろいろと苦労しましたが、後々の導入の布石となったのみならず、メーカーさんにも様々な情報、経験を提供できた時代でした。

899:名74系統 名無し野車庫行
10/05/23 00:10:50 LHfgblxy
759さん

>キュービック独特の1枚窓、また両脇の窓構造が後に出る「東武面」の2枚窓にできない時代
これが原因で富士ボディonlyになったって本当ですか?

900:名74系統 名無し野車庫行
10/05/23 01:11:34 thRLLJiX
NHK
コンピュータ会社は伏せてるけど、東武はバス会社って言わないのねw
でも赤城はタクシー会社。

901:名74系統 名無し野車庫行
10/05/23 08:12:46 TCl5Nz5G
>>899
むしろ東武は当時富士重工の株主でもあったしね。
注文しやすい手前もあったのだろう?

そうでなきゃエルガの7Eバージョンなんか作らないしね。

902:759
10/05/24 17:32:16 hqPcgYkz
>>899
仰せの通りです。
もう何カ所かで出ている話ですし、それこそ25年以上昔の話しですのでこの機会に書き込ませていただきます。
手元の記録と併せてですが、1984年、いすゞさんが新型路線バスを発表する際、かなり斬新なデザインになるという情報がありました。
この時代は試作の段階で1枚窓を採用するという情報が既に出ており、どんな窓構造になるか業界全体の注目を集めました。
何しろこの時代スケルトン車体が大流行した時代ですが、路線車で1枚窓など常識を打ち破る話しであったことは事実です。
そこでいざ、導入に際して出たばかりのキュービック(純正車体車)をメーカーにてテストしてみると、テストに携わった運転士や車両担当者の間から、その独特な窓構造に異論が出ました。
これが後々のように2枚窓を選択できるようになっていればよかったのですが、1枚窓と両脇の飾り窓の間にあるピラー部分が視界を遮ってしまい、巻き込み確認がしづらいという意見が多数ありました。
ワイパーの構造についても当時貸切車で少しずつ見られるようになった見られるオーバーラップ式ということもあり、それまでの一般的な平行連動方式でないことから、これでは運転しにくいという問題がキュービック導入に際して議論されます。
また何かあった際など、保守面でも1枚窓より2枚窓の方がいいという意見が多数出たのも事実です。
これは東武に限らず全国の事業者さんの間でもずいぶんと当時聞かれたことでしたが、とにかく斬新なスタイルは当時大変注目を集めたことも事実です。
(もっと言えばキュービックのデザインは時のフランス・ベルリエ社製のバスに大きく影響を受けたということでも色々と話題を集めましたね)
ただ当時富士重工業車体を載せる事業者さんは多数ありましたし、富士重工業車体を架装することはいすゞさんも当初から検討されていましたので、キュービックシャーシに5E車体架装車が出るまで時間はさほどかかりませんでした。
>>901様が仰せの通り、東武が富士重工業の株主であったことも大きいかと思いますが、富士重工業さんなら、何かあったときのアフターサービスもすぐに受けやすい地域ということもあっての選択でもありました。
部品・修理等のアフターサービスの良さはスバルカスタマイズ工房になってからも変わらず素晴らしいものです。

903:759
10/05/24 17:33:26 hqPcgYkz
>>900
取材の話しについてもいくつか聞いておりました。
公共放送と言うこともあり、社名は出来る限り伏せたいという意向が当時は今以上に強く、映像でも出来る限り「東武」の部分が出ないように撮影されておられました。
当時聞いた基準として、不名誉ながら事故などの場合には社名が出ることもありましたが、それ以外ではご承知の通り公共放送の性質上「公正公平の維持」ということからも宣伝になってしまうと言うことでなるべく出さない、伏せるのが基本ということでした。
(確か取材時の説明書類にも書いてあったと思うのですがその書類を紛失してしまいあやふやな記憶で申し訳ありません)
時の群馬運輸事務所の所長が出演した部分だけに字幕で「東武バス群馬事務所長」と出ていたのは影響力のある公共交通機関ということで特別だったらしいのですが、群馬観光タクシーの場面には社名が出なかったですね。
その際他の先輩から聞いた話しでは、「東武鉄道バス事業本部」とか出る話もあったようですが、結局「東武バス群馬事務所長」で落ち着いたと聞いております。
このほかには栃木県内での動き、確か新宿-鬼怒川線開通時でも取材を受けたことがありましたが、やはり社名は共同運行会社の関東さんとともに伏せられておりましたし、超低公害車である社2517号車を最初に導入した際も伏せられておりました。

904:759
10/05/24 17:36:46 hqPcgYkz
>>901
エルガ(キュービック)ノンステップ車シャーシへの架装についてですが、これには大変な紆余曲折がございました。
1996年にいすゞ車体がいすゞ100%出資会社になってから、いすゞ車における他社製車体の架装は改造扱いになってしまったことが大きいかと思います。
この頃からメーカー純正(指定)車体への一本化がより進んだことにより、富士重工業車体を好んでいた他社さんでも、メーカーから純正車体採用のおすすめをかなり受けるようになりました。
奇しくも同年の中型ワンステップ車導入に際して、では1台純正車体で入れましょうか、ということで導入したのがあの社番2475号車になります。
CJM500最終の社番6801号車以来、路線車での純正車体導入は実に12年ぶりのことでした。
その際はまだキュービック時代で、導入に際しては正面窓の2枚窓でなければ純正車体は導入できない、ということで要望した結果、あの「東武面」キュービックの登場と相成りました。
その年以降も東武面でのキュービック導入を行っておりましたが、いよいよノンステップバスを導入という段階になった際のこと。1998年のことです。
これは他所にも出ていたのでこの機会に書き込みますが、東武としてもできれば富士重工業車体でノンステップを導入したいと強く要望していたのも事実です。
時期的には日産ディーゼルさんから7E車体でノンステップ車が発売されており、キュービックノンステップでもなんとか7E車体架装ができないかと要望しました。
しかし架装設計に時間がかかるなどの問題、さらにはエルガ設計への移行期などもあり、キュービックノンステップでの7E架装は実現できませんでした。
(希少例としてキュービックノンステップでは西日本車体工業車体架装例がありますが)
2000年のエルガ発表前後、メーカー側はいわゆる「エルガ標準仕様」を展開していきたいので、車体についても純正車体をお願いしたいという話しでなかなか実現しませんでした。
しかしながら粘り強く富士重工業さんとも交渉を続け、長年富士重工業車体を架装し続けてきた東武には特別にいすゞさんから富士重工業車体の架装許可が認められたと聞いたときには関係者は大喜びでした
(同じように認められた京成さんも大喜びだったと聞いています)
それも束の間、富士重工業さんが車体製造から撤退すると聞いたときには大変戸惑いを隠せませんでした
事情、理由につきましては皆様ご承知の通り、また詳細についてはバスラマインターナショナル誌等でも掲載されていたとおりです。
日産ディーゼル工業さんが西日本車体工業さんへ車体製造委託一本化がかなり大きく、こうなったら最後の最後に導入するときは1台でも多く発注しよう、ということであれだけの導入となりました。
時期的にも丁度排気ガス規制やノンステップ車の大量導入を求められていた時でして、また分社化前後でいろいろと厳しい時期、コストダウン仕様になってしまいましたが、現場でもやはり富士重工業の車体は安定していると評判は昔から変わらず高いようです。
余談になりますが東武におけるエルガの純正車体搭載車はご承知の通りCNG車からの導入となりましたが、他社局さんで7E車体に日産ディーゼル製CNG車のケースが一定数あり、東武でもいすゞCNGエルガに7E車体を架装したいと要望を出します。
ですがCNG車の場合、保安規制等による車体の設計が富士重工業さんで時期的に間に合わず実現できませんでした。
もしも富士重工業さんの車体製造が続いていたらいすゞCNGエルガの7E車体版が出ていたのかも知れません。


905:名74系統 名無し野車庫行
10/05/24 20:46:06 68UqYI7H
>>904
あの頃は富士重車体のエルガは日光営業事務所以外は各営業所
一台は配備してましたね。

どんな運命の巡り合わせだったのでしょうか、天沼に配備された
3台が富士重で生産された最後の路線車になるとは。

東武バス分社化と富士重バス撤退、今思うと一つの時代の終焉にも
感じずにいられませんよね。

7Eベースの前中後扉のノンステップバスも、プロトタイプで
東京地区で数台入れてたらある意味面白かったかもしれませんが。

906:759
10/05/24 23:55:46 hqPcgYkz
>>905
日野指定の営業所にも入れる話しを聞いて正直現場ではかなり驚きもあったようですが、大歓迎だったという話しも耳にしております。
確かにHRノンステップも良い(パワーがある等)部分はありましたが、詰め込みと安定性では富士重工7E車体にエルガノンステでは叶いませんからね。
しかもハンドルの切れが良いいすゞということでたいへん評判がよかったようです。運転士の中には久々にいすゞ車を運転する運転士もいたのですがやはり富士重工業車体には太鼓判を押しておりました。
導入の際は仰せの通り分社化と富士重工業車体製造撤退が重なったというのも奇遇でありましょうか。

プロトタイプでの導入についても実際検討していたのは事実でして、キュービックノンステップシャーシへの架装が早くに認められていればまた流れは変わっていたかも知れません。

907:名74系統 名無し野車庫行
10/05/25 19:12:52 V4Vq+EsB
草加にいた日野+7Eが単発で終わって継続しなかったのは残念だった

908:名74系統 名無し野車庫行
10/05/26 15:03:43 3/tjDYqY
>>907
阪東、茨急はKC代まで導入されたのにね。

909:名74系統 名無し野車庫行
10/05/26 19:17:49 elDDeKbG
話の話題を変えるようで申し訳ないのですが
前々から気になっていたのですが、東武バスの練馬車庫について
知っていれば、ご教授して頂ければ幸いです。

自分が調べた範囲では池袋駅北口(恐らくホテルサンシティのある辺り)から練馬車庫の路線や
成増駅発着路線を受け持っていて、池袋方面の路線が廃止になって
成増の路線が新座に移管されたという話です。

910:名74系統 名無し野車庫行
10/05/26 19:20:03 9ssvKN2z
>>909
つ新座営業所練馬出張所

911:名74系統 名無し野車庫行
10/05/26 19:23:59 85DvD/rl
>>910
練馬ナンバーの東武バスが昔いた

912:759
10/05/26 23:40:10 6tRLg9wy
>>907-908様
日野車に7E車体を架装した例といたしましては仰せの通り1990年導入、社9198号車~社9204号車の合計6台が最初で最後のケースになってしまいました。
それまでは路線車でも数年ペースで2~3台程度日野シャーシに富士重工業車体の架装例がありましたね。
貸切車に至ってはR3車体での架装が日野車でも毎年のように行われておりました。
そのため現場からは日野車体も良いが富士重工業車体の架装もという要望が出されていたのも事実です。
ただ日野車の場合、東武では大多数は以前から日野純正車体を架装した車が多かったことも、富士重工業車体の架装例が少なかった要因の一つにあるかと思います。
(一時は 日野車体6:4富士重工業車体 ぐらいの割合でしたね)
そう考えてみますと阪東、茨城急行は以前からシャーシ・エンジンメーカー問わず車体は富士重工業車体の架装例が多かったですね

913:759
10/05/26 23:42:29 6tRLg9wy
>>909-911様
練馬の概要につきましては私もあまり詳しく存じ上げているわけではございませんが(私が入社する前に廃止となってしまった営業所です)
以前は池袋駅発着の東武バスがございまして、路線地域で申し上げますと東上線池袋-志木間地域、現在で言えば新座管轄地域の路線を受け持っていた営業所です。
練馬の発足は手元の資料を見ますと1963年4月1日新設、同年4月16日の開所となっておりますがこれは元々西新井営業所豊島出張所を独立(機構改正)させたものです。
従来の豊島出張所はその後も練馬営業所の管轄出張所として残りましたが、1974年8月20日付で廃止となっております。
その練馬営業所ですが、新座に新しく営業所が出来ることとなりまして、1969年5月11日の新座営業所発足と共に出張所化されます。
廃止は1978年9月1日付となっております。
当時、練馬の受け持ち路線というのはまだなかった地下鉄有楽町線のエリアなどにも路線が延びておりました。
あの東武啓志線「グランドハイツ」へ向かうバスも練馬の担当でありました。
手元で記録している主な路線は次の通りです(間違っていたら指摘お願いします)
・池袋~成増・上板橋・グランドハイツ
・常盤台~赤羽~川口・大師前・西新井
・成増~グランドハイツ・東牛房・モモテハイツ・埼玉病院・川越(勝瀬経由)
・大和町(現和光市)~新倉坂下・西大和団地
他にも新座営業所の前身にあたる志木出張所との共同管轄路線が多数有ったと思います。
現在練馬の跡地ですが、社員寮が東武興業タクシーの営業所として利用されております。


余談になりましたが、東武鉄道65年史の481ページには池袋東口の乗り場が写っている写真も掲載されております。
公式写真でも池袋東口で東武バスが発着している様子を納めた写真というのは非常に少ないと聞いております。
もし機会がありましたら是非ご覧になって下さい。

914:759
10/05/27 00:05:37 JW8oOTBT
訂正いたします
×=以前は池袋駅発着の東武バスがございまして

これは今も厳密に申し上げますならば西口から深夜バスが出ておりますね。
大変失礼いたしました。
この機会にちょっと深夜急行バスの話を書いておきます。
この深夜バス開設にあたっては、池袋から東武バスが撤退して約十数年後の復活と言うことで当時を懐かしむ先輩の話を聞いたものでした。
そのときに当時のエピソードなどをいくつか聞いたのを記録にしていたものです。
やはり社内でも池袋発、上野発で東武バスが深夜急行バスとはいえ復活という時にはいろいろ感慨深い先輩方も居られたようです。
何しろ他社局さんの既存停留所間借り申請から始まり、当時は今と違って路線申請には大変な労力と時間を費やしました。
開設時、どうなることかといろいろ心配もしましたが、いざフタを開けてみると非常に好評、今もなお評判がよいとのことで、当時を知る私たちにとっても嬉しい限りです。

915:名74系統 名無し野車庫行
10/05/27 01:13:34 Qq2bZ0L8
>>910-911、>>913(759)氏
909です。お答えいただきましてありがとうございます。
練馬車庫について気になったのは、都営系の大御所のサイトで
駅別系統番号一覧と言うのがあり、そこで東武にも池41池袋駅北口~練馬車庫という路線が
あったんだというのがトリガーとなります。
今回知った練馬車庫の廃止時期が1978年と言うことを考えると意外と長く残ったという印象がありますね。
幼少の頃、赤羽周辺で高崎線の車内から東武バスを見た記憶があったような気がします。

後、東武鉄道東武鉄道65年史の481ページですが、東京都交通局と共同運行していた越谷行のような気がします。

916:名74系統 名無し野車庫行
10/05/27 03:32:38 1F2DJLfP
話をむしかえして申し訳ないが、貸切落としに中扉を新設する際
4枚折り戸に出来なかったものかなあ?

恐らく相当補強を入れざるを得ない事になるだろうけどね。

>>912
これは富士重工関係者の方からお話を伺ったのですが
日野車体の方が自分たちの作っている車体よりも造りがいい
という事だそうです。
事実、リニューアル等で入ってくる事があったそうですが
その時色々細部まで検証した事もあったそうです。

富士重工バス部門は撤退後、スバルカスタマイズ工房として
既存車両のアフターサービスをやる傍ら、他社車体の
リニューアルも手掛けているそうですね
(西日本車体解散後は恐らくアフターサービスの受け皿に
なるものと思われます)

足●自修の方に話を聞く事が出来たのですが、東武系ですと
リニューアルは富士重工、完成検査を自修で行ったケースも
あるそうです。

917:名74系統 名無し野車庫行
10/05/27 17:05:14 bmL08UeV
>>759
東武はなぜ三菱ふそうと取引しなかったのでしょうか?
東野はエアロスターは純正ボディー、富士ボディーで、エアロバスは純正ボディー、
朝日はエアロミディ、阪東はエアロスターを純正ボディーで導入しているわけですが・・・
東武カラーの純正エアロスターや7E、7HDを架装した三菱車を見たかったですね・・・


918:名74系統 名無し野車庫行
10/05/27 21:38:12 k1mN+pSS
>>915
練馬車庫の出入り系統ですが最後まで池袋方面に行っていた記憶があります。
また赤羽ですが、間違えなければ、当時は常盤台~赤羽線、赤羽~西新井線もあったかと思いますので、その様子をご覧になったものでしょうか。
65年史の写真は草加行か越谷行か、はたまた西新井行か分かりませんが・・・

>>916
この中扉改造に関しては当時図面を見た記憶の限りですと、採用された折り戸案の他、仰せの4枚折り戸案、引き戸案などいろいろとあったようです。
しかし4枚折り戸についてはやはり補強関係と定員数の問題から不可能になったほか、引き戸式では補強工事はさほどでなくても改造にかなり手間取るということ、また廃車部品の有効活用と言うことで通常の2枚折り戸式となったと記憶しております。
日野車で富士重工業車体を架装した例が少ない例の話し、日野純正車体の方が良かったというのは意外なことでありました。ご教示いただき、有り難く存じます。
確かに富士重工業さんはいろいろと勉強されておりました。足利自修で行った貸切格下げの扉増設工事にも富士重工業さんの方が時折見学に見えていたのは事実です。
昔は一定年数経過すると行っていた更新工事は当時台数の関係で足利自修のみでは間に合わないため、富士重工業さんにも入場したことは覚えています。
路線車の更新工事は多いときですと半数近くが富士重工業さんで行っていたこともありました。

919:名74系統 名無し野車庫行
10/05/27 21:57:12 k1mN+pSS
>>917
三菱ふそう車両を導入しなかった理由というのは、私も余り気にする方ではなかったので先輩から聞いたことなどぐらいしか分からないのですが。
戦後、ガソリンエンジン時代~ディーゼルエンジン車普及期にいすゞ、日野、ニッサンの3社を導入していたことに端を発すると聞いたことがあります。
その時代もそうですが、やはり車両導入コストの問題が大きかったようで、ディーゼルエンジン車の比率が多くなる頃には、都市部はいすゞ、地方・山間部は日野、という棲み分けが出来て、以後、日野、いすゞの2社の車両購入が基本となったようです。
但し、三菱車両を入れなかったわけではなく、少量ですが、日光・鬼怒川地区には1960年代後半に二代目ローザを小型貸切用として10台近く導入し使用したこともありました(社番はちょっと不明ですみません)
ローザは末期に1度だけ見たのですが、社番表記が書いて居らず、塗装も貸切旧々塗装(シマウマカーブ塗装)を纏っておりました。
今考えれば当時は富士重工業車体を架装した三菱車は結構他社局さんでもありましたから、出来なかったわけでないでしょうが、保守面の問題などもあって導入をしてこなかったのではないかと思います。

920:名74系統 名無し野車庫行
10/05/27 22:02:50 rBFapDK+
>>918
取引先の会社に謙譲語使うな

921:名74系統 名無し野車庫行
10/05/28 17:29:08 JXeryQT8
>>759
同じように富士重工ボディを好んでいたお隣の京成には三菱ふそうとの組み合わせが
多かったこともあり、淡い期待もありました。
しかし、結局導入されることはなかったので過去に東武と三菱ふそうで何か揉め事があり、
それが尾を引いているのかと思っていました。

ありがとうございました。


922:名74系統 名無し野車庫行
10/05/30 11:59:09 ruO/ToUR
759さん:
昔、日光と前橋にいた日野REの前後ドアで、補助席が付いてたのありましたよね?
子供心にすごく覚えていて聞きたかったのですが。

923:名74系統 名無し野車庫行
10/06/02 15:08:29 kf8KZhyY
>>913

×グランドハイツ
○グラントハイツ
 →アメリカ合衆国第18代大統領ユリシーズ・グラントに由来。

参考までに東武啓志線の名称は、グラントハイツ建設時の工事総責任者のケーシー中尉から。


924:名74系統 名無し野車庫行
10/06/06 21:56:10 ikrl5+Qz
>>922
これは台数が限られますが、日光、前橋、鬼怒川、水上、沼田に所属しておりました前後扉車に補助席を取り付けた車がありました。
台数は全体で10台前後と本当にごく僅かだったと思います。
理由は長距離路線などに投じられた際のサービスアップ、安全確保、立ち席が難しい場合に備えるなどの理由など色々ございました。
お客様からはとても喜ばれたこともあれば、通路が狭くなるなどの問題点、また定員が変わることで構造申請等などの問題点もあり(当時は申請だけでもけっこう手間がかかりました)からあまり普及しなかったのも事実です。
尚、日光所属の7200番台だったと思うのですが前後扉車で補助席取り付け車両は、最繁忙期にいろは坂を超えて走っていたこともありました。
私もその様子を見たことがありますし、先輩が光徳牧場でその様子を撮影した写真を見たことがあります。
前橋に居た、群馬最後の大型新車社番7515号車(間違えなければ1978年式のRE121)にも更新時に補助席が取り付けられておりまして、かなりの頻度で大洞線へ入っていたと記憶しております。
補助席がありましたのでけっこう用途外運用にも使っていたはずです。

925:名74系統 名無し野車庫行
10/06/06 21:58:54 ikrl5+Qz
>>923
ついつい「グランドハイツ」と濁点を付けて言ってしまうものでして大変失礼いたしました。
けっこう私の年代ですとついつい濁点を付けてしまうようで。
鉄道運輸時代の路線名の由来は先輩から聞いており、終点のグラントハイツ駅も戦後間もない頃までは啓志駅と呼ばれていたのはご存じのことと思います。
バスの話題から逸れますが、この啓志線は国鉄新橋工事区の手によって建設が進められ、東武で運行受託をしたものと聞いております。
鉄道による旅客営業期間が非常に短かった為、後に東武でバス輸送を行うことになったのはこのことに由来するものです。
なおこれは余談になりますが、よく聞かれる話しの一つといたしまして、何故後々東武でグラントハイツから返還された現在の光が丘団地輸送をしなかったかという話しをちょっと書いておこうかと思います。
この路線計画に関しては、当初、東武で池袋・上板橋・成増~グラントハイツ間の路線免許を持っていたので、返還後、再開発がまとまるまで路線を休止する扱いにして、将来に備えよう、ということでした。
しかし休止後、練馬出張所が閉鎖になり、やるとすれば成増からの路線でなければ新座の受け持ち範囲上難しいだろうということや、有楽町線の成増延伸などもありましたし、他社局さんの営業範囲などの問題もありました。
そのため同じエリアで営業している他社局さんと協議した結果、西武さんが成増~光が丘~豊島園線、国際興業さんが光が丘~有楽町線の駅という形で決着することになりました。
もしも練馬出張所が残っていたらまた違った展開になっていたかもしれません。

926:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 00:00:57 UaQXht7d
個人的には練馬営業所が残っていれば今の板橋区や練馬区の
バス路線(他社含む)もまた違った感じになったのでは?

927:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 00:08:25 UaQXht7d
つい最近知ったのですが、かつては草加でも
西武バスが走っていたそうですよね。
恐らくですが、昔エリア分けと言った名目で
バス事業者間の移管があったものと思われますが。

意外だったのが、国際興業バスが川越から撤退した事。
もし撤退してなければ、やもすれば今の東武バス川越営業事務所
が国際興業に移管されてたかもしれないな?とは思いましたね。

熊谷営業所が国際ハイヤー(現・国際十王交通)に移管される際
多くの利用者が国際興業がやるのか?と言った問い合わせが
殺到したと言った逸話もありましたね。

エリア分けと言えば、茨城県内の路線で
茨城県西部は東武系(朝日・茨急等)・東部は関東鉄道で
運営する事で決着を付けた話も耳にした事はあります。

928:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 07:02:07 RBCxPuQp
ぶっちゃけ東武バスのみの地域が東武じゃなかったら
こんなにも路線は廃止されてなかったと思う。

929:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 17:36:22 soYSQGA5
>>927
>かつては草加でも
>西武バスが走っていた

西武バスのルーツは昭和初期に浦和~鳩ヶ谷間の路線を運営していた事業者だったと聞く。
その絡みで草加まで乗り入れていたようだ。

930:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 21:22:24 VfVW3XmK
>>926
このことについては時折耳にすることですが、当時はこの地域では基本的にこの事業者、という棲み分けが今以上に強かったこともありまして、各地で事業者間の路線調整というものが行われておりました。
そういった棲み分けや路線調整がなかったとしたら練馬の存続はあったかもしれないとは先輩から聞いたことがあります。
一度は他社局さんへ成増発着分の路線調整譲渡も検討されていただけに、東武新座管轄の成増駅発着分が今なお残っているのは当時の貸切配車地域関係のこともあったと記憶しております。

931:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 21:23:41 VfVW3XmK
>>927
西武バスさんは>>929様が仰せの通りもともと現在の東浦和地域を主体とする「東浦自動車」として設立されました。
そのため鳩ヶ谷方面などにも多数西武さんの路線がありました。
草加、鳩ヶ谷~浦和地区の路線は1973年に国際興業さんと行われた路線調整により西武さんの路線ではなくなります。
仰せの「昔エリア分けと言った名目でバス事業者間の移管」ですね。
丁度この時代には東武でも一部地域において国際興業さんとの路線調整をいくつか段階的に行っております。

国際興業さんの川越廃止に関してですが、慢性的な渋滞に悩まされたのみならず、川越線の電化が大きな打撃を受けたようです。
さらに、もともと路線の規模は小さく、路線・貸切ともにそれぞれ10台程度配置されていただけで、傘下におさめていた志木分車庫の方が規模が大きかったことで立場が逆転してしまったそうです。
(志木は確か当時乗合だけで30台程度あったと思います)
一時は乗合部門を東武に移管する案も浮上しましたが(貸切だけは残すという話しもありました)やはり路線調整、エリア的なこともありまして川越駅・高萩・高麗川駅発分は西武さんに移管となりました。
川越-神明町間は実質的に東武へ統合された形ですね。

932:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 21:28:51 QxvTToNA
最近、北川辺に越してきたのですが、昔々はこの辺りにも東武が走っていたとか(今では旧町域にはバスは全く走っていませんが)。
路線・担当営業所はどんな感じだったのでしょうか?
その名残か、国道沿いに日野/帝国と思しき廃車体がありますね。

933:名74系統 名無し野車庫行
10/06/07 21:33:55 VfVW3XmK
訂正します
×=一時は乗合部門
○=一時は川越の乗合部門

余談になりますが国際興業さんの貸切バスですが川越ではかなり稼働率が高かったと記憶しております。
もう国際興業さん時代の名残というものはほとんどなくなりましたね。
あるとすれば水上公園線ぐらいでしょうか。
霞ヶ関団地(現かすみ野)方面、三光町などに停まっていた時代を懐かしく思い出します。

おっと、東武バスの話題から国際興業さんの話題になってしまいました。


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