昔の東武バスを語ろうよ!at BUS
昔の東武バスを語ろうよ! - 暇つぶし2ch700:名74系統 名無し野車庫行
09/08/03 19:01:12 5ykDTfct
また死霊のトリマキか

701:名74系統 名無し野車庫行
09/08/03 21:58:34 E99YlKDF
キター!
東武指令叩き!!!
東武ヲタは低能で池沼揃い!
他人を陥れる馬鹿集団!
ここで主導権をとられたくない東武ヲタが必死です。
さあ、近多摩が降臨して潰しに入るぜ !

702:氷戸束式
09/08/04 10:00:21 +c9EM7mD

あぅ~あぅ~あぅ

うううウンコももも漏れそう…


703:氷戸束式
09/08/04 10:01:55 +c9EM7mD

あぅ~あぅ~あぅ

押尾まなぶぢゃなくて…押尾マブナ…


704:束式死霊
09/08/04 16:39:25 +c9EM7mD

あぅ~あぅ~あぅ~

また二岡が不倫だとよぉ~
深夜もバットを振り続けるなんてスゴいなぁ~



705:名74系統 名無し野車庫行
09/08/04 18:10:27 Lv4KWxU3
着ん玉降臨とはね・・・


706:名74系統 名無し野車庫行
09/08/05 09:38:00 mf6GqMcg
せっかくの良スレを

707:名74系統 名無し野車庫行
09/08/05 10:02:33 NYdNToQK

マンモス下痢ピー!



708:名74系統 名無し野車庫行
09/08/05 13:10:22 NYdNToQK

覚醒剤やりピー!



709:名74系統 名無し野車庫行
09/08/06 17:36:15 u9cJifEs

おい!ノリピー!早く自首しなさい。お陰でスレが全然進まないんだよ!


710:名74系統 名無し野車庫行
09/08/07 23:13:57 di0BKsI0
着ん玉降臨とはね・・・

711:名74系統 名無し野車庫行
09/08/21 22:39:17 v2P/0Tco
鬼怒川出張所の跡地は何になったか知っている方は居ますか?

712:名74系統 名無し野車庫行
09/08/26 13:20:55 lZLnKcng
>>92
東武動物公園のメインゲート前のターンテーブルは、何回か乗った事ある。
あそこは、園内のミニSLもターンテーブルで方転してるね。

713:名74系統 名無し野車庫行
09/08/26 14:00:50 UnZTEnP+
>>712
昔は路線の途中に駅へ寄り、その駅にあるターンテーブルに乗客乗ったまま乗るのがあったよ

加須車庫~加須駅~鴻巣駅入口と大越馬場、千代田中学入口

加須駅が橋上になる前にターンテーブルがあったんだ

しかも電動じゃなくてバスの後輪の所にローラーがあってギアをバックに入れて後輪でローラーを回してターンテーブルを回すやつだった

714:名74系統 名無し野車庫行
09/08/26 14:14:33 UnZTEnP+
現存しないターンテーブル
覚えてる限りでは

館林営業所内
吹上駅
加須駅
久喜駅西口(新井病院前の小さなロータリーの所)
東武動物公園駅(東口)
幸手駅
古河駅西口(現在の朝日タクシー前バス停のそば)

くらいかな…
まだ他にもあると思うけど

715:名74系統 名無し野車庫行
09/08/26 16:07:26 eFBwzoPj
>>713
そういうターンテーブルって、どうやってバスを固定するのですか?
間違ってターンテーブルから走ってしまわないのかなと思っていたのですが。
僕は、志木駅で見た記憶があります。

716:名74系統 名無し野車庫行
09/08/26 23:40:38 dKg6Jsv9
>>715
後輪が二つのローラーの上に乗っかるから走り出すことは無いよ

717:名74系統 名無し野車庫行
09/09/08 21:06:48 S3hfhKSn
>>711
鬼怒川出張所は東武ダイヤルバスが使ってるんじゃなかったかな?


718:名74系統 名無し野車庫行
09/09/08 22:15:01 1KjXhRHO
この間、武蔵観光の深谷~寄居乗った。東武が撤退するのも納得。

719:名74系統 名無し野車庫行
09/09/08 22:29:19 ShodkDgZ
>>718
東武時代は深谷出張所の廃止後も本庄営業所に移管されて残ったけど結局移管されちゃったね。
2時間に1本ぐらいの本数だった気がする。
乗客数は立ち客が出てるのは朝夕でも見たことなかったな。

720:名74系統 名無し野車庫行
09/09/08 22:54:59 1AGJRW9M
>>718
今はバス路線の存在すら地元民でも忘れられかけてるからなぁ。

721:名74系統 名無し野車庫行
09/09/18 10:35:57 r+VL40Sd
30年前は幸手駅~青葉団地は頻繁に走ってました

722:名74系統 名無し野車庫行
09/09/18 19:49:38 g6+4vla0
安全を誓う心に指差し呼称

723:名74系統 名無し野車庫行
09/09/18 21:31:44 CEH4XSw9
若干スレチだが、
木下駅発着の各路線乗った人いる?
RJ以外に何使ってたんだろうか?

724:名74系統 名無し野車庫行
09/10/04 11:54:25 uDsm26Kh
熊谷営業所の話を聞かせて下さい

725:名74系統 名無し野車庫行
09/10/11 20:26:02 64qrr7hv
菖蒲営業所管内のバス看板広告に東亜酒造の王冠のマークの酒の広告があったらしい?

726:名74系統 名無し野車庫行
09/10/12 21:09:25 EUb3smie
かつて熊谷駅から妻沼までの急行バスが走ってましたけど、東武バスが撤退した今はこの路線は存続してるのでしょうか?

727:名74系統 名無し野車庫行
09/10/12 21:14:00 aN8OFKhB
国際十王交通が運輸中

728:名74系統 名無し野車庫行
09/10/12 23:57:32 ft5yag+y
>>726-727

今運行しているのは、朝日(太田)のバイパス経由妻沼だろ。
国際十王じゃないぞ。

729:名74系統 名無し野車庫行
09/10/17 12:04:36 OA8dapBB
北01を語ってくれ

730:名74系統 名無し野車庫行
09/10/18 22:42:59 7RDpH+9i
北千住~西新井大師?

731:名74系統 名無し野車庫行
09/10/18 23:01:06 ztv3gZoV
本木新道経由

732:名74系統 名無し野車庫行
09/10/19 13:44:14 eFJ67/ag
ライナーにはやられたよ!

733:名74系統 名無し野車庫行
09/12/06 01:00:04 5SqiISe6
私鉄総連参院選候補
板倉一幸(いたくら一幸)
URLリンク(ita-chan.net)

734:名74系統 名無し野車庫行
09/12/12 01:18:26 lCMLSxeE
茨城のド田舎の笠間に車庫を持ち、水戸駅まで乗り入れてた頃が懐かしい。
昔は杉崎・笠間車庫の本数も結構あったし、撤退するなんて想像もつかなかった。 大工町、赤塚あたりまでは利用者もいたんだが…

735:名74系統 名無し野車庫行
09/12/12 21:43:24 gjUqeGok
採算度返しの路線拡大が仇となった。

736:名74系統 名無し野車庫行
09/12/13 07:23:52 PaODjy6G
民間企業だから採算性は重視されるのは仕方が無いが、
公共交通機関という観点で言えば、ある程度の採算性が度外視されるのも
またあり得ると思う。
実際は、単純に水戸で東武カラーのバスを見たかっただけだが。

737:名74系統 名無し野車庫行
09/12/13 07:45:16 lPs6+pPi
>>736
そんな事いって路線拡大したらバス会社みんな潰れちゃう罠

738:名74系統 名無し野車庫行
09/12/13 15:22:19 JhB2S7iR
ある程度のエリアを持ってると細かい部分まで維持するのは大変だろうな、
とは正直思うけどね。

県内全域と言っても人の住んでる所と限界集落では当然扱いを変えたいけど、
廃止はおいそれと出来ないし。

739:名74系統 名無し野車庫行
09/12/13 15:39:54 0iDwYqjo
そして、採算の取れる路線と赤字補助金が出る路線だけ子会社に移管した結果が今の状態

740:名74系統 名無し野車庫行
09/12/13 16:15:42 ZlpISEWW
>>735
当時はちゃんと利益が出るから路線拡大してたんだよ
ただその後急激に乗客減ってことにはなったけど

741:名74系統 名無し野車庫行
09/12/13 19:19:07 hJfak9Cv
今みたいに車社会じゃなければ、全盛期の路線は保てたろうね。
笠間だって昔は、水戸や下館方面にはそれなりに客はいたし、今みたいに少子化ではなく、学生も多かったから。
ただエリアが広い分バス離れになったときのツケが大きかったんだろうな。
昔のベージュと濃い青のツートンカラーが好きだった。

742:名74系統 名無し野車庫行
09/12/25 06:03:09 525wzEaa
   

743:名74系統 名無し野車庫行
10/01/08 20:39:47 lF0qyQre
「竹14」って、梅田六丁目循環だったのが工事の影響かなんかで梅島駅から先で
長期通行止め区間ができたかなにかで環七の手前の中島根止まりになってた時が
あったよね。
折り返し場所なんかないような狭い道路だし、どうやって折り返してたんだろ?

梅島駅のそばに「休止」って貼られた東武バスのポールが残ってたけど、結局は
西新井駅東口行きになって梅田六丁目循環は復活しなかったなぁ・・・。

744:名74系統 名無し野車庫行
10/02/09 11:17:20 R5t3M+na
誤爆orz

745:名74系統 名無し野車庫行
10/02/14 19:03:14 lfJeFfPK
流れを読まずに・・・。
バスコレ改造で貸切落し車を作ろうと思ってるんだが、その当時の車両の
リア側の様子がよくわからん・・・。

東武といえば後部が路線車タイプで側面斜めメトロが有名だけど、そのタイプで
貸切落し改造された車はいたのでしょうか?また、改造車の後部方向幕の有無など
ご存知の方いましたらお教えいただけないでしょうか?

746:名74系統 名無し野車庫行
10/02/14 19:26:49 jK8Olwc9
東武の貸切格下車はほとんど後部に方向幕取付されてたんじゃないかなぁ
でもやっぱ最大の特徴は中扉だよね。

747:名74系統 名無し野車庫行
10/02/14 21:49:38 NgQ14Lgk
後部が路線車タイプって、岩手県交とかに流れたRC300P(改)の事かと思うけど、さすがにその中では
路線車改造時まで残ったのはいなかったんじゃないかな?

ところで路線車改造時の中扉増設って何か基準でも有ったのかな?標準床でトップドアのままかと思えば、
セミデッカーで増設した奴がいるし、素人考えだと標準床に中扉開けて、セミデッカーはトップドアのまま
にした方がいいような気がするんだが………。

748:名74系統 名無し野車庫行
10/02/14 22:19:26 jK8Olwc9
日野の貸切格下車で後部が路線車タイプの見たことあるよ
ただ最初からそういう外観だったのか、改造の時に手を加えられたのかは不明

まさに魔改造ってぐらい改造されてるのいたしww
廃車発生品使って路線車っぽい外観にしたって言ってもおかしくないし。
ヘッドライト周りの行灯を外して路線車用の廃車発生品で改造したんじゃないかってタイプも居たような。

749:名74系統 名無し野車庫行
10/02/15 00:06:31 oYyZg9zP
確かRV730では観光マスク、中ドア増設、後部が路線タイプなんてのもいたね。
ヘッドライトも日野、いすゞがごちゃまぜで、ぱっと見メーカーが判別付かなかったりw
おそらく現物合わせみたいな感じで改造してたんだろう。細かく見てくと全く同じ形態の車両が居なかったりしてw

750:名74系統 名無し野車庫行
10/02/15 10:28:49 Bf+mt5SL
貸切格下げ車って、実物が模型みたいな改造(しかもジャンク寄せ集めw)だから
模型もモノコックの観光車をベースにホイールベースや車体長さにだけ注意して、
日野やいすゞ系パーツを適当に組み合わせればそれなりの雰囲気は出そう。




751:名74系統 名無し野車庫行
10/02/15 13:03:29 h+BFJSh6
記憶が確かならば、RVかCRAのセミデッカー(だっけ?運転席付近の屋根に段差があるやつ)でリアが
路線車みたいになってるのが居たような…。後ろから見ると異常に車高が高く感じた覚えがある。

752:名74系統 名無し野車庫行
10/02/15 17:41:18 WwWvtBhk
後部が当時のRC系みたいのがいたけどそれかな?
方向幕窓までついてたから、ひょっとしたら廃車発生品からの改造かもだけど。

753:名74系統 名無し野車庫行
10/02/15 19:43:30 h+BFJSh6
>>752多分それだと思う。記憶では幕のついてる部分が窓の上辺で一直線(=RC系?)だった様な………。
渋川だか沼田で見かけたはずなんだけど。

754:名74系統 名無し野車庫行
10/02/16 01:53:27 3EWev/rs
貸切格下の後部方向幕付画像持ってないかな…と古いアルバムを探してみたんだけど
青白と現行塗装の2両があって両方とも方向幕がなかった…。
羽生~足利の魔改造技術は実際大したものでしたよ。
かつてはスタンダード貸切の前扉を埋め中扉を新設したり
前中扉ワンマンの中ドアを閉鎖して後扉付けたり…。

尚貸切で後部が路線タイプの窓でなくなったのはセミデッカ登場の頃ですが
川重車体と富士重車体はガラス大きくなってたはず…。

>>747
>後部が路線車タイプって、岩手県交とかに流れたRC300P(改)の事かと思うけど、さすがにその中では
>路線車改造時まで残ったのはいなかったんじゃないかな?
その頃は限られた車両数だけそのまま路線に格下げされていたみたいで
基本的には前面ライトベゼル間に方向幕装備、その後の格下車はカンデラ装備になったようです。

貸切格下げじゃなくて路線で後部方向幕がなかったのもいましたね。
43年後期から46年までいたようですが、ツーマンの折戸引戸のようにエリア分け出来るのかと思ったら
「西武バス60年のあゆみ」で大宮駅東口のワンカットがあるのですが
どうも大宮(東口1番だから吉野町)にも後部方向幕のない車両がいたようで…。

755:752
10/02/16 06:59:33 VdWwEsSw
見かけたのが熊谷駅だったんで多分太田営業所の車だと思います。

しかし平成初期の熊谷駅前はすごかった。
太田の車の多くは貸切格下車で、しかも種類も豊富。
観光バス特有のあのトルクを響かせながら熊谷駅のロータリーを駆け抜ける魔改造の姿は
子供が泣き出しそうな光景で今でも脳裏りに焼き付いてます。

熊谷営業所には観光格下車はいなかったものの、これまたすごい構成で
富士重工3E系の初期から後期の冷房青窓車(前中扉なので都内からの車でしょう)までいたり
川崎重工のも結構いたような。

まだ当時の熊谷にはLV314の5Eは少数で、
都内からの転属組の前中扉のしかいなかったと思いますが、
小川町出張所には新しめの5Eが配属されてました。
さらにはどこから持ってきたのかも怪しい中型の日野車もいて犬塚行きに使われてましたね。

そんなボロバス天国かと思えば、たまに所沢ナンバーの東松山のピカピカな7Eが顔出したり。
その後の数年で新座や東松山の日野車化で新しめの車が一気に流れ込んできて
車両がすっかり入れ替わってしまったんですけど
当時の熊谷駅前はバスマニアにとっては1日いても飽きない場所でしたね。

なぜ当時もっと写真撮っておかなかったのかと後悔・・・

756:名74系統 名無し野車庫行
10/02/16 11:14:59 QDDQ4w+0
その当時の路線車化改造車ってほとんど斜めメトロでしたよね。
そんな中いすゞのセミデッカーで普通のメトロ窓が居た気がするんですが、
CRA650だったのかCRA580か・・・?
結構短いバスだった気がするんですが、当時の写真公開してるサイトでは
どれもCRA650となってますよね、日野では改造扱いで尺を短くしてるのが
いたと思いますが、いすゞにも居たんでしょうか?

757:名74系統 名無し野車庫行
10/02/17 23:59:34 c2CRc5SL
自分が高崎~渋川線を頻繁に使ってた当時は急行便と木戸際行き1往復と飯塚車庫行きの一部のみ冷房車が運用されてたっけ
まあトップドア標準床の観光格下げ車?だったけど…
足角から高崎に出るのに選んで使ってました

758:745
10/02/18 12:38:53 jGz5D0/F
遅くなりましたが、皆さんレスありがとうございます。

とりあえず大体のイメージはつかめたので早速、富士重工ボディーのR13タイプ
(セミデッカー、標準床ともに)から作り始めてみました。
しかしながら資料を見れば見るほど、あれもこれもと作りたくなり5Eにまで
手を伸ばしてしまう有様で完成はいつになるのやらw

759:名74系統 名無し野車庫行
10/02/19 13:14:39 4/FSvmse
>>754
うろ覚えで恐縮ですが、私も確かツーマン末期車両から改造されたドアー増設ワンマン車両で後部方向幕のない車両を見た記憶があります。
確か日野だったような・・・大宮の他、前橋にもいた記憶がありますが、いかんせん40年近く前の話しですので詳細は解りません。
ただ、東武の場合、当時ワンマン化に備えて昭和43年以降はツーマン車両を導入しなかったと記憶していますので、おそらく昭和42年式あたりまでの
比較的導入から日が浅いツーマン車両が改造されたのではないかと思います。
ごく一部ですが、魔改造として、ツーマンの1扉車が、試験的に前、後の2箇所に扉が増設された3扉車というのもあったはずです(旧2000番台だったと記憶しています)

>>755ほか
当時の貸切格下げ車は1台1台いろいろと違いがあり見ているだけでも楽しかったですね。
日野車で貸切のフロントマスクあんどん部分を外しライトはいすゞのBU?あたりから流用したり。
中扉のドアーはほとんどが廃車発生品からの流用だと聞きました。
縦長の独特な方向幕が懐かしく思い出されます。似たようなものでは熊本電鉄バスぐらいしか思い出せませんね。
貸切格下げ・中扉増設車は小川にも配置されていましたね。殆ど白石車庫線に運用されていましたが、けっこう熊谷までも顔を出していました。
熊谷はBU10が平成6年頃まで残ってましたっけ。

>どこから持ってきたのかも怪しい中型の日野車
これは確か行田から転属してきた日野の中型RL(?)だったと思います。
UDの中型車(8000番台)が廃車になった後に来たような。
行田時代はレインボーに車種が変更される以前、市内循環にも使われていた記憶があります。

760:759
10/02/19 15:35:32 4/FSvmse
訂正追加
手元のメモを探し出したところ熊谷の日野中型車は行田からではなく群馬・栃木からの転属車でした。
失礼いたしました。

社番は書いていませんが、高崎、中之条からの転属車も含まれていました。
転属年はUDの中型車廃車に合わせて、平成2年~4年頃です。
行田の日野中型RLは市内循環予備用としてかなり後まで残っていました。
>>50にもあるように冷房改造を受けていたものもいました。

761:759
10/02/19 16:11:30 4/FSvmse
>>756
貸切格下げ車ですが、車体補強・ドアーの取り付け改造上から、斜めメトロ窓車の方が改造しやすいということだと聞いたことがあります。
手元のメモを見る限りでは、昭和60年~61年頃から中扉増設改造が始まりました。

普通のメトロ窓で中扉を付けた車は少なかったと記憶しています。
日野だとRV742P(7500番台後半~7600番台前半)いすゞでは仰せの通りCRA650(6500番台~6600番台)の富士重車体しか思い出せません。
配置は日光、沼田、渋川、小川町だったと記憶しています。

これは私も不明なのですが、いろは坂対策として最初から短尺車で導入されていたか、それとも改造で短尺になったのかは不明です。

762:名74系統 名無し野車庫行
10/02/19 16:28:41 H5PhGw/l
昔は水戸に東武が来てたんですね



763:名74系統 名無し野車庫行
10/02/19 16:39:44 FK+qVBWV
熊谷の日野中型は笠間にいたやつかな

764:名74系統 名無し野車庫行
10/02/19 22:31:18 lu6vpqto
水戸の東武バス、懐かしいね。
あと、東京・埼玉の回数券と、群馬・栃木の回数券だと、
使える金額が違ったんだよね。

群馬の回数券は3000円で3500円分入ってた。

765:名74系統 名無し野車庫行
10/02/19 22:46:12 74iUhyo+
群馬といえば前橋に三扉車が居たよね。
確かRCとHTが連番で登録されたな。あれはいつごろ配置になったんだっけ?

766:名74系統 名無し野車庫行
10/02/19 22:49:56 nOD3Vhji
川越01 神 明 町 車 庫

767:名74系統 名無し野車庫行
10/02/20 00:13:46 GB1TUg9j
>>764
一時は都道府県ごとに回数券が違っていた時代もあった(昔発行されていた、東武時刻表の黄色ページ、バス営業案内ページに掲載されていた)
運賃の関係上だったような。
明日実家に帰るので倉庫に眠る東武時刻表を探してまた書き込みます。
日光に残る、地元住民のための割引率が高い特殊回数券なんかがそれを物語っているね。
もう紙の回数券は近隣大手だと他社でも西武ぐらいしか思いつかない。

>>765
確か平成6年頃~8年頃にかけてRCとHTの3扉車がやってきたような記憶がある。
中扉にはちゃんと後扉よりご乗車下さいと表記されていたし。

768:767
10/02/20 00:20:35 GB1TUg9j
>>767訂正
×=都道府県ごとに
○=都県ごとに

群馬の回数券で思い出すのが、東武・群馬中央・群馬・上毛・上信の5社共通190円区間回数券。
茨城でも一時期、水戸近辺の各社と共通回数券(水戸駅~大工町)を出していたような。
間違っていたらスマソ。

769:名74系統 名無し野車庫行
10/02/20 16:10:58 bQTj5VTH
>>767
関越交通あたりが、赤城カードと、高額な運賃の観光地路線の地元民向けに尾瀬カードやっていたのを思い出した。

770:名74系統 名無し野車庫行
10/02/20 18:52:31 6BHTl4g0
>>764
>群馬の回数券は3000円で3500円分入ってた。
群馬バスも3000円で3500円分入っていたから競争の為に合わせたんじゃない?
そして現在のぐんネットも3000円券が3550分だったりするんだよな

771:名74系統 名無し野車庫行
10/02/20 21:40:09 3GQSyouA
>>745
遅レスですが, たまたま古い写真を見つけたので参考までに。
URLリンク(www1.axfc.net)
pass:865

772:名74系統 名無し野車庫行
10/02/20 23:39:24 6BHTl4g0
>>771
東武バス日光営業所かな?
なんか懐かしいな

773:名74系統 名無し野車庫行
10/02/22 02:15:48 HTTJHpXW
>>759
実は東武では何故か中扉ツーマンから前扉増設ワンマンと言う改造形態の実例が殆どないらしいのです。

大宮にいたのは5023~5025(昭和42年式RB120/富士)でして、昭和50年ころに5023は本庄に転出、5024は末期に運賃箱下ろされツーマン指定に、
5025は主に天沼循環に張り付いていました。
前橋にいたのは3831~3832(昭和41年式RB120/帝国)でして、こちらは終始前橋から離れなかったはずです。
これらは最初からワンマンです。

日野の初期の前中扉ワンマンは特定の地域に集中導入されていて、41年に草加(松原団地固定)、前橋(市内固定)、
42年に大宮(市内固定)、43年に上尾(西上尾団地固定)、43年後期から前橋や桐生にも短尺車が導入されます。
44年には大宮上尾にまとまった数が集中され、45年~46年前期は川越・栃木のBTの他は大宮にかなり偏って導入があったようです。
いすゞは昭和46年前期まで前中扉が割と広範囲に配属されたみたいです。
三扉の「魔改造」ですが、東松山の2985です。この世代では前中扉ワンマンで後扉の増設となります。

日産ディーゼルの971がいつ廃車になったのかがよくわかりません。上尾にいたらしいのですが。
少なくとも上尾のツーマン全廃(5137~5142)より先に姿を消しているようなのですが。

774:名74系統 名無し野車庫行
10/02/22 04:50:22 jhnZRzET
すいません、お詳しい方がいるのでこの車両を教えてください。

時期は昭和50年代後半
場所は埼大通りの北浦和駅西口近く(たぶん回送中)
後部に方向幕はなく、方向幕のある場所に「東武バス」の文字。
その左右にマーカーランプがついてる

こんな車両を見た記憶があるんですが、判りませんかね?

775:名74系統 名無し野車庫行
10/02/22 12:53:15 oHFVpk/0
>>774
マーカーランプがついているのは43年後期か44年前期?までです。
ツーマンにはあった後部方向幕が43年後期には省略されます。
(ただし日光は43年後期までツーマンが入っていたのでバス協タイプウインカーに後部方向幕無しの
前扉ツーマンが存在します)
ご覧になったのは44年までのワンマンと推測できますが少し疑問があります。

大宮近辺では後部方向幕が設置されていて、付いていない車輌があったとしても後付で取り付けています。
三連式方向幕装置の普及が理由だと思いますが....。
これは営業所によって異なっており、群馬栃木茨城や本庄は46年式に最後まで設置されていませんでした。
(47年式から全車標準装備になります)
しかし43年後期~45年までの大宮や足立のワンマンに『最初から』後部方向幕があったのかどうかよくわかりません。

近くで後々まで後部幕枠を省略している古いワンマンがいた営業所となると東松山か境くらいしか思い浮かばないのですが
車輌はいすゞでしたでしょうか?
また時期的に微妙な頃でちょうど昭和50年代後半に境がいすゞから日野に車輌を入れ替えていて
野田や熊谷辺りに境の車が転出していた時期と重なります。
どちらにしても回送であっても埼大通りを走る車輌ではありませんね....。
回送なら回送なので貸切扱いなのでしょうか。ちなみに貸切の場合幕は「東武」になります。

776:名74系統 名無し野車庫行
10/02/22 15:33:01 P5ne5zn+
東武って妙にワンマン化が遅かったようにも思うけど、組合や現場の抵抗?
それともルート上やむえず?


777:名74系統 名無し野車庫行
10/02/22 23:14:40 FTQr5bfV
>>776
よく東武交通労組の話と言うか組合のせいにされる事が多いのですが、
車掌さんの職場確保なら国際興業のようにワンツーマン車でもよかったとも考えられ、
車両環境の問題もない訳ではないと思います。
昭和37年から昭和42年までの5年間に日野だけで約1000両の導入があったのですが、
昭和46年に前後扉ワンマンが大量導入されると急速に代替されます。
実際には5年程度しか使用していない車両もあったようです。

道路事情は誘導の必要な狭隘路線もありますし、車種を限定した路線もありましたが
山間部が多い割には小型車を必要とする路線は多くなく(いすゞは9m級のBA系がメインだった時期もありますが)、
道路環境的には狭い道に大型車が突っ込む的なケースが多かったようです。

778:名74系統 名無し野車庫行
10/02/23 01:16:04 7naaslKE
>>777
東武といっても、都内・埼玉南部・埼玉北部・群馬・栃木・茨城と展開先広かったですね。
それぞれの地域でかなり状況は違ったのかもしれないけれど東武は意欲的な会社に比べたらワンマン化は遅かったかなという意識でした。
どちらかというと都内と群馬とみてて当方は特に群馬に引きずられてそんなイメージだったのかもしれないです。
よくよく思い返してみればワンマン化の速度は事業者やエリアによってかなりばらつきもあったし。
国際興業も会社の都合で押し切ることが多いのに、この問題では割と慎重にすすめてた、というのは指摘されて思い出しました。

でも、展開も撤退も雑だったと酷評される北関東でも、東武というのは他社に比べるとおいしい路線のほうが多かったのかなと思ったりして。
群馬なんて、赤城の麓でも、東武>>>群馬バス>>上電バスくらいのおいしさの差はあったように思うし。
ただ、群馬中央バスという群馬の中ではいまいちおいしくないエリアを持っていた会社がワンマン化も冷房車導入も意欲的な会社があったのでなんか、東武と群馬バスはどうもいまいちなのかなと思ったりしてました。
まあ、そこそこ、だったんですかね。




779:名74系統 名無し野車庫行
10/02/24 01:51:44 KOujNwy5
>>778
東武と群バスが共通しているのは大資本の他に観光地と都市間路線を持っていた事でしょう。
群バスですと観光地は榛名や水沢を、都市間では高前関や安中方面ですとか。
環境的には似ている部分はありますね。

上電はもともとエリアが赤城南面に限定され桐生や前橋を抑えられ
群馬の乗合事業者では最初から苦戦せざる得ない状況下で
東武に「戦い」を挑んで生き残りを賭けたとも言えるでしょう。
群中の場合は都市間や近郊に資源が集中しており、
二輪車の容易な平地で適度に鉄道が通っているが故に
自動車だけがライバルではないという状態でサービスを模索してきたと考えられます。
上信は群バスと群中の折衷的なエリアですが、藤岡~新町~高崎~前橋を抑えることで
東武のエリアにくさびを打ち込んだ形になっており、
大島教授が著作でよく解説されている上電との(ミクロ的な)エリア争いもさることながら
割と広範囲な上信と東武との関係もいろいろありそうです。


780:名74系統 名無し野車庫行
10/02/24 21:44:14 pTGrNC4z
流れ読まずにすまないが、車両に詳しい方がいるようなので…。
水上だか沼田に定期観光用(?)として富士重工ボディのRC300P改(確か後部が4Rみたいな型で1969年?式)
がいた時期があったはずがなんだけどこの車って何年頃まで在籍してたか教えていただけないでしょうか?
またその当時の当時バスの平均的な代替サイクルもわかるようならお願いします。

781:759
10/02/25 01:50:43 CFXROcpq
規制のあおりを喰らってなかなか書き込みが出来ませんでした。
遅くなりましたが色々読んでいて懐かしくなりました。
>>773さま、長年の疑問が解決しました。3扉の魔改造はそれだったのですね。

実は当時実家の隣に住んでいたのが東武バスの整備士さんで、もっと聞いておけば良かったのですが、ツーマン中扉車からの
ワンマン化改造車の話しを聞いたことがあり、ドアーの増設後調子があまりよくなく泣かされ、改造は10台にも満たなかった
と聞いたことがありました。

また上尾の971ですが、実際に運転された方から聞いたことがありまして、当時、UDからテスト導入という形で、保守費も全
てUD持ちということで導入されたそうですが、やはり後年のUD中型車同様、調子も良くなく、いすゞや日野がメーンな中で取
り扱いにも苦労したため、仰せのツーマン車より先に廃車になったそうです。
971と同世代のUD車は、当時東松山や熊谷などにも配属され、10台前後が一時期在籍したそうです。

782:759
10/02/25 02:17:19 CFXROcpq
>>780
確か水上にそんなような定期観光用の車がありましたね。
1970年頃、父親に連れられて後閑に住む知り合い宅に出かけた際に見た記憶があります。
当時聞いた話しでは、定期観光バスに使用されていた時期以外に、東京~猿ヶ京・苗場間の急行バス増発分や予備用にも使われていたことがあったそうです(あのシマウマ塗装ですね)
その後は一般路線用に格下げになって最後まで水上周辺で使われていたと記憶しています。
あの当時はまだ三国峠越えの路線もかなり利用されていましたし。

783:759
10/02/25 11:54:57 Y06t7jlL
>>771
懐かしい写真ですね。間違いなく日光営業所ですね。

リアの「運転士・整備士募集」のステッカーからして平成3、4年頃と思われます。

784:759
10/02/26 14:02:34 /ZAsg/yo
>>773さま
大宮に在籍していたツーマン車で、ワンマン化に際し、状態の良い車を試験的に改造しようということになり、2台を当時の羽生工場で改造を行ったそうです。
社番は3800番台とのことで、まだドアーエンジンがついて間もない頃の車だったそうですが、改造には相当苦労したそうで、改造後もエアーの保守にかなり手間取ったと聞きました。
時期的には昭和43年夏頃とのことでした。
ツーマン車のワンマン化改造が少なかったのは、調子が悪かったことや保守面のことのみならず、羽生工場の廃止も大きいとのことでした。
羽生工場が存続していたらもう少し改造車が出ていたかも知れないそうです。

なお、この頃に、大東大・東松山校舎スクールバス用に大宮のツーマン車10台が譲渡された話しも伺いました。
時は学生運動真っ直中の昭和42年、大東大・東松山校舎が開校し、東武バスでも高坂駅~大東大間の路線を運行開始します。当時、高坂駅~大東大の間は20円だったそうですが、同年、運賃の値上げにより30円となりました。
その値上げに学生らは猛反対し、トラブルが相次いだことを重く見た東武バスと大東大側が協議した結果、昭和43年4月から大東大がスクールバスを自主運行することとなり、バス10台とバス停ポールを東武から譲渡される形になります。
地元ではかなり有名な話しらしいのですが。

その譲渡されたツーマン車は、本当はワンマン改造を受ける予定でしたが、羽生工場の閉鎖などもあり中止になり、余剰車になっていたそうです。
まだ車歴6,7年ぐらいで譲渡したのではなかったか、ということでした。

785:759
10/02/26 15:58:57 ohdvJicA
>>784訂正
×=昭和43年夏頃
○=昭和43年2月頃 

あと車番ですが
×=3800番台
○=3700番台

ちょうど、東武バスにドアエンジンつきの乗合車が入った頃の車ですね。

786:名74系統 名無し野車庫行
10/02/27 03:19:44 NSpfoKPg
ドアといえば、上で話題になってる貸切落しの増設ドアはどこから持ってきたんだろうか?
車体メーカー問わず、日野RE系用の前扉みたいなドアで、川崎ボディのBU20にまで同じのが付いてたけど、
そんなにまとまって廃車発生品なんてあったんだろうか?それともどこかのメーカーに発注したのか?
同時期の富士重工5Eで後部ドアが似たような感じの折戸になってるのもいたし………。

787:759
10/02/27 22:33:24 cbYAuuIQ
>>786様:
貸切格下車の扉増設に用いられたドアーは殆どが廃車発生品です。
ちょうど改造する時期に、昭和40年代後半に導入されたワンマン車の廃車時期と重なったことから、部品は潤沢にあったと聞いたことがあります。
サイズ的にちょっと付け足したり加工したりしていたので、日野、いすゞなど問わず取り付けていましたね。
R3貸切車で格下げ改造を行う時も、廃車になったセミデッカー車などから発生した折り戸を使っていました。

5Eで後部ドアが似たような感じの折り戸というのはどんな感じでしょうか?

788:759
10/02/27 22:36:20 cbYAuuIQ
つい先日ですが、別の元東武バス整備士さんと話す機会がありいろいろ話を聞けました。

方向幕のことですが、これは詳しく聞けましたのでこの機会に。
>>773さまならご存じかと思いますが、昭和37年頃に現在のオージが自動式方向幕を開発します。
ただ当時はまだ手動式も多く、加えて自動式では故障も多かったため、ハンドルも併設されていました。東武では当初足立で採用されたのが最初だったそうです。
後部の方向幕は、貸切のみならず路線でも「東武」幕が多かったそうです。
ワンマン化に際して、後部方向幕の採用が一時見合わせになったのは車掌が後部方向幕を操作していたためで、後部も含めて全自動操作ができるようになるまで見合わせたのではないかとのことでした。
(それこそ「ハブカ式」の手動方向幕もあったそうです)
昭和45年になりオージから全自動式が発売されてから全国的に自動方向幕の普及が見られると、東武でも急速に採用が進んだそうです。このときから、ワンマン車への後部方向幕取り付けがスタートしました。
仰せの通り昭和47年から全車両に標準装備となりますが、未取付車にいち早く取り付けを完了したのが大宮と足立、次いで上尾など。

789:名74系統 名無し野車庫行
10/03/03 21:37:39 EkcVaYOi
カメながら………。
渋川にいたミドルデッカーの貸し切り落しって中扉付いてたんだっけ?

790:名74系統 名無し野車庫行
10/03/04 13:23:24 MkKGJ+ca
>>789
渋川もあったよ。
中にはフロントの斜め明かり窓まで付いているミドルデッカー、
セミデッカーも中扉を付けたのがいた。
確か7567だったか。

最強だったのはフロントの貸切グリルもそのままという車。
車番は忘れた。

791:名74系統 名無し野車庫行
10/03/04 16:11:13 1jup3bGN
>>790
フロントに明かり窓(=屋根の段差)があるのがセミデッカーで、段差無しのがミドルデッカーじゃなかったっけ?
セミデッカーには確かに「中のり」シールがはってある中扉増設車がいたけね。日野顔のミドルデッカーにも
新塗装の更正車がいたけど「中のり」シールは貼ってなかった気がする。中扉が付いてたか、付いてなかったのかは
よく覚えてない………。

792:名74系統 名無し野車庫行
10/03/04 20:41:50 RRDe5aKb
みずほ台駅西口に乗り入れる東武路線はいつ頃まであったのでしょうか?
10年前はあった記憶があるのですが

793:759
10/03/04 21:09:52 X+Mqij5N
>>789-791
>>791さまのとおり、フロントに明かり窓があるタイプがセミデッカーで、段差無しのがミドルデッカーです。
中乗り表記ですが、地域や改造時期によって取り付けているいないがありましたね。
ミドルデッカーで格下げ扉増設車の新塗装ともなると、「中乗り」表記はごく僅かです。改造時期としても末期の扉増設車です。
例外として、日光の場合は昔もトップドアがメーンですから、路線トップドア車には「前乗り」と表記があったこともあり、扉増設格下げ車にも「中乗り」表記を付けていたと聞いたことがあります。
平成4~5年頃から、「中乗り」などの表記が外されているケースが確認され、皆様ご存じの通り、そのスペースには東武ワールドスクエアの広告が貼り付けられるようになります。

>>790さま、ご名答です。セミデッカーで明かり窓付き、渋川7553、7559、7567及び沼田の6500・6521も同じくセミデッカーで明かり窓付き、扉増設車です。
7553は格下げ改造後中之条に配属となり、四万温泉線で主に使用されていましたが、中之条廃止後に渋川へ転属しました。
中之条で使用されていた頃は、「中乗り」表記の部分に「冷房車」という表記がありました(これは他の貸切格下げ改造車にも一部で見られたものです)
セミデッカー・明かり窓付きで正面の貸切フロントグリルがそのままの状態で格下げ改造されたのは確か1~2台ぐらいだったと思います。
番号は失念してしまいましたが改造時期的には末期の改造です。

冷房車の表記で懐かしく思い出すのは、貸切格下げ改造車のうち、増設した中扉の左脇に「冷房車」のプレートをつけていた車がけっこういましたね。

794:759
10/03/04 21:19:53 X+Mqij5N
>>792さま
確か、みずほ台駅西口からの東武バスは鶴瀬駅西口ゆきや志木駅ゆき、新座車庫ゆき、上福岡駅東口ゆきがありましたね。
いずれも廃止されてしまい、現在有るのは鶴瀬駅西口ゆきでライフバスのみですね。

みずほ台駅東口発志木駅ゆきも1日1本ぐらいになっていたはずです・・・




795:名74系統 名無し野車庫行
10/03/04 22:55:48 QioLpocq
1980年頃は、これだけだった気がする。
志27 みずほ台駅西口~新座車庫~志木駅南口
志27 みずほ台駅西口~新座車庫
(これとは別に、鶴瀬駅~新座車庫~志木駅南口の志27の本線あり)
その後、志27の本線も寄るようになったけど、2000年の時点で
鶴瀬行きが1本、新座車庫行き平日1本、志木駅行き休日1本だったはず。

2002年春に鶴瀬→みずほ台→新座車庫の平日片道1本しか運転されなくなって
2003年3月いっぱいで全線廃止と記憶している。

796:759
10/03/05 00:54:37 Z2BlgauW
>>793追加補足
中之条出張所ですが、組織としての中之条出張所は1988年3月31日限りで廃止されていますが、中之条駅~四万温泉間の路線そのものは1992年9月30日まで東武バスでした。
旧中之条出張所内の吾妻観光自動車営業所内に東武バスの事務所が引き続き設けられ、乗合部門だけは渋川から毎日、運行管理者が一定時間出張する形で点呼業務を行っていました。
(中之条出張所の貸切部門は1988年4月に吾妻観光自動車に移管)
渋川から出張の運行管理者がいない時間の点呼業務及び、定期券類の乗車券発行業務も吾妻観光自動車に委託していたと記憶しています。

1992年10月1日の中之条完全移管と同時に、7553などの乗合全車(といっても数台でしたが)が全車渋川へ移動しました。

797:名74系統 名無し野車庫行
10/03/05 07:52:11 JMtyGfkN
これは良スレ

798:759
10/03/05 13:12:14 qQfnmqsf
>>791さま補足
手元のメモが出てきましたのでいくつか。
RV742Pミドルデッカーの格下げ時(1990年8月)、日光に配属されたRV742P最終グループの一部が「中乗り」表記を付けていました。
これは>>793でも書いたとおり、日光の場合はトップドア路線車が当時多かったことによるものです。
日光市内線の前中扉車にも当時は「中乗り」の表記がありましたね。
前中扉車が配属される以前、足尾方面ゆきや市内線用にはナロー車や一般大型の前後扉車もわずかに存在しましたが、その時は「うしろのり・あとばらい」の表記も取り付けられていましたので、その流れを汲む物と見られます。

また、小川に配置されたミドルデッカーの格下車についても、当時前後扉車が多かったため、「中乗り」の表記を取り付けています。
この時期の改造の特徴としては、廃車発生品のみならず、予備品に余剰が生じたため、様々な部品が潤沢に使用でき、なおかつ、>>752-753でも書かれているとおり、後部方向幕が取り付けられているケースがありました。
もっとも、当時の貸切格下げ・扉増設車で後部方向幕を取り付けていた車は限られてしまうのですが。

799:名74系統 名無し野車庫行
10/03/07 14:53:58 8/P/6bdX
素朴な疑問だけど、なんで扉増設は中扉だったんだろうか?
他車に合わせて後位置にしたほうが扱い易かったんじゃ………?

800:759
10/03/07 17:56:08 CyY+ikCf
>>799さま
諸説色々あるのですが、中央に扉を増設したのは車体強度及び、エンジン機器類等のこともあったそうです。
新製で貸切車体ベースに後ろ扉を付けるのと、改造で取り付けとなると違うと聞いたことがあります。

当時はトランクスペースも今より小さかったことも増設箇所を中央にしたという話しも聞いたことがあります。
また、車内スペースの問題もあります。
貸切格下げ車の場合、扉を増設しても基本的に座席はそのまま(リクライニング固定・地域によって補助席撤去などはありましたが)ですので
通路幅が当然狭く、後ろに扉を設置しますと、混雑時、途中停留所で出口に乗客がたどり着くまで時間が掛かることも想定しての中央設置です。

貸切格下げ・扉増設車が出現した背景として、これは様々な資料・掲示板等ですでに出尽くしている話しですが、車両の有効利用のみならず、
当時の冷房化率アップや、長距離路線等におけるサービスアップなどがあります。
しかし、当時は今以上にまだ通勤通学輸送などでの需要も地方部においてあったことから、一定の輸送力などを確保する必要がありましたが、
そのままの格下げでは乗降時間が伸びてしまうという問題があったために、扉を増設することになりました。
東武では一時期、貸切格下げ車の路線転用がない時期がありました。
1981年頃から格下げ改造が再度開始されますが、その当時は扉の増設はありませんでした。導入路線では、まだまだ朝晩を中心に通勤通学需要
の時間帯にも投入され、現場から、新車を導入するか、何らかの改造をして欲しいという声があがります。
(これは当時の組合新聞支部版にも掲載されていました)
そうしたことから、冷房化率アップも含めた扉増設改造も行うことになったのです。
奇しくも扉増設改造が最初に行われた1985年は路線カラーが現在の新オレンジ塗装に切り替わるなど、「フレッシュスタート60運動」という
社内運動のもとでもこうした改造工事がスタートしました。

塗り替えは在来車からも積極的に進められたのもこの「フレッシュスタート60運動」によるものです。

801:名74系統 名無し野車庫行
10/03/07 22:52:09 4L9AOg7A
沼田駅~鎌田~戸倉線には貸切格下げ車がよく入ってた
関越になってからは一般路線タイプだろ、サービスダウンとも受け取れる

802:759
10/03/07 23:56:20 rJmUvoep
>>801さま
一般路線車ですが、移管前の各営業所にも相当入っていたのはご存じかと思います。
前途の貸切格下げ車が置き換えになる頃、都心部から冷房路線車が転入可能な時期になってきたことから、かなりまとまって群馬へも
転入がありました。
珍車では平成3年頃に前中扉の日野RE120が大宮から水上へ(確か7400番台だったか)来たのもありましたね。
他にも、東武では最後の川崎車体となった6801・CJM500が沼田に転入したりしていました。
また5EのP-LV314やCJM500は沼田・渋川にもかなり転入し、鎌田方面や宝台樹、武尊牧場、夏のシーズンには
大清水まで走っていました。
移管時にも関越交通が一般路線車タイプを購入したのはそういった流れもあるでしょう。

1985年から約6年続いた格下げ車の扉増設車ですが、スケルトンボディの日野RSスケルトン及び、富士R3ボディ
搭載車から、車体構造上、扉増設が難しくなったことと、改造費などの問題から扉増設を中止し、約15年ぶり
にワンマン機器設置や方向幕設置のみ、現在の日光ような格下げのみになります。

東武で日野RSスケルトン格下げ車は日光などごく僅かのみでしたね。

803:名74系統 名無し野車庫行
10/03/08 00:04:02 i2/6eXFT
前橋駅前でも貸切落しのセミデッカー見たけどあれは前橋所属だったのだろうか?

804:759
10/03/08 00:06:46 hxTmfpCk
何時も長々と済みません。

東武での扉増設格下げ車ですが、最後まで残ったのが確か前橋所属車両だったと思います。
末期は前橋-赤城線専属車に近い存在でしたね(希に渋川・川原町ゆきに使われていたのはびっくりしましたが)
1993年頃には改造車の車歴がトータルですでに12、13年ぐらいになってきており、老朽化や混雑時などの問題もあり、
加えて都心部等から転入可能な車両があったことも大きいかと思います。

また沼田で最後の格下げ車はR3の"カンテラ"方向幕装備車でしたね。
結構長距離路線、猿ヶ京方面や冬の鎌田方面にも使われていました。
後閑-苗場線のラスト運用(1995年3月31日)もその車両だった記憶があります。

805:759
10/03/08 00:09:10 hxTmfpCk
>>803さま
そのとおりです。前橋にも貸切格下げ車は配属されていました。
1994年11月をもって扉増設車の使用を終了しています。

806:名74系統 名無し野車庫行
10/03/12 18:34:54 hF2okfiw
>>759さん
東武の現行塗装で昭和60年式だけベージュが濃く社番のフォントが違うのはどうして?

807:759
10/03/13 00:05:16 XUabxZ6d
>>806さま
その部分は「シェルホワイト」という色なのですが、当初濃いめであったのは色褪せ対策であったと聞いています。
しかし濃いめでなくても大丈夫だと言うことがわかり現在の明るめなシェルホワイトになったと当時聞きました。
また社番フォントですが、これは現在も使われている独特のフォントがすでに戦後間もない頃から使われており、デザイン変更とともにイメージアップを兼ねてフォントも丸みを帯びたもので記載したのです。
しかしながらこれまで通りの書体に統一することからすぐに戻ります。
もっとも社番の記載については戦後間もない頃の車両や、貸切車とこの新塗装になった直後を除いて殆どがあの独特な、角張ったフォントで統一されていますね。
私の知る限り、父が昔撮り貯めていた写真でしか記憶にないのですが、1000番台のボンネット車(昭和28年式あたり)からこの角張った社番フォントだったと思います。

808:759
10/03/13 00:19:17 XUabxZ6d
社番フォントについていくつか訂正と追加をしておきます。

まず訂正
×=1000番台のボンネット車(昭和28年式あたり)から
○=1000番台のボンネット車(昭和28年式あたり)から正式に

私の手元にある資料や昔見た写真でしか今お答えは出来ませんが、少なくとも社番が3桁台の頃には角張った文字体は採用されていませんでした。
戦後間もない頃の社番の付け方はアルファベット1文字+数字2桁が基本でした(詳細は解りません)
その後、3桁で社番を付与するようになりますが、この時は今のようにメーカー別に社番を付与するのではなく通し番号だったと記憶しています。

角張った文字体について、昭和25年頃の新車アルバムに掲載されたバスの中に2,3台使われている車種があったと記憶していますが・・・うろ覚えで済みません。


809:759
10/03/13 00:31:12 XUabxZ6d
>>759
塗装変更のお話をちょっとしておきたいと思います。

この塗装変更については、少し前に書きましたとおり「フレッシュスタート60運動」により進められたものですが、元をたどりますと昭和58年頃の組織改正によりそれまでの自動車局からバス事業本部に切り替わってからの計画です。
確か塗装変更の前年あたりから、変更プロジェクトチームが結成されて、専門家に依頼してこの塗装になりました。
フレッシュスタート60運動では、貸切車についてもスーパーハイデッカー車の導入に際してもそれまでの貸切塗装を踏襲するかどうか検討が行われましたが、こちらも新塗装で導入をしようということになり、現在のグループカラーに切り替わるまでのデザインとなります。
東武でスーパーハイデッカー車の導入が最初に行われたのは昭和61年のことです。
まだ12,13台ぐらいしかスーパーハイデッカー車がなかったころに、伊東温泉へ11台スーパーハイデッカー車連続運転でお披露目のツアーを行ったのは伝説になっています。

810:759
10/03/13 00:49:21 XUabxZ6d
何時も長々と済みません。

もう30年以上前ですが、戦後間もない頃の話しを聞いたことがあり、そのノートが我が家の何処かに有るはずですので、明日探して社番の話しをしようかと思います。
何しろ「昔の東武バス」も奥深いものがありますからね。

811:759
10/03/13 11:44:48 IFZR5U68
古い記録ノートと資料を引っ張り出してきました(汗)

角張った社番フォントですが、昭和26年に製造された車両で試験採用されていることがわかりました。
いずれもボンネット車で、当時の社内資料と併せて調べてみますと、ニッサンのボンネット、805~808号車で角張ったフォントが試験採用されています。
寄って、私が見たという資料は、昭和26年頃の新車アルバムだったわけですね。
場所は確か中禅寺で撮影されたものと記憶しています。

ということは試験採用の時から含めてあの角張ったフォントは60年近くも使われていることになるのですな。

812:名74系統 名無し野車庫行
10/03/14 09:51:03 BMug3EUP
>>759さん

社番の付け方って、
ガソリン車と代燃車にディーゼル車が混じった頃は
1000番台=日野ディーゼル車
3桁車=ガソリン車(メーカーに関係なく通し番号)
アルファベット+数字=代燃車と米軍トラック払い下げ車
その後、いすゞに旧2000番台、日野に旧3000番台が割り振られていた
って聞いたことがあるんですけど本当ですか?
ガソリン車や代燃車はいつぐらいまであったのですか?

813:759
10/03/14 23:39:49 zdDQ+A/d
>>812さま
この社番の付け方というのが資料も少なく、私も結構調べるのに苦労をしておりまして(汗)
確かに仰せの通り、1000番台では日野ディーゼル車に割り当てられていたのは事実です。
3桁は主にガソリン車(ボンネットおよびキャブオーバーのガソリン車)、今も東武博物館に保管されているキャブオーバーもガソリン車です。
一時期、いすゞの採用が少なく、ディーゼル車は主に日野、ガソリン車はニッサンが多かった時代もありました。
一番最初に1000番台が付与されたのは昭和23年に導入された日野・トレーラーバス17台になります。
また、いすゞ車で旧2000番台が最初に付与されたのは昭和33年のことです。
日野車に3000番台が割り当てられたのは確か昭和34年頃だったかと思いますが・・・

ガソリン車と代燃車ですが、昭和27年まで我が国では燃料の統制が行われていたのはご存じかと思います。
代燃車については、昭和13年のガソリン切符制による燃料統制が開始されたことを受け、同年秋に太田の2台、沼田の3台に代燃装置を取り付け、ガソリン車運行禁止となる昭和16年9月までに全車が代燃車改造を受けます。
その後、仰せの払い下げトラック改造車が昭和22年に40台近く導入された時にガソリン車が登場します。
翌昭和23年には、前途の日野トレーラーバスが東武初のディーゼルエンジン車として導入されますが、まだまだ燃料事情はよくなく、またディーゼル車の取り扱いに慣れないため、代燃車が走り続けます。
ようやく機械面や燃料入手の環境が改善されてきた昭和25年から、代燃車の置き換えがスタートし、この年からディーゼル車、ガソリン車の導入が本格化します。
奇しくもこのころから、貸切車両の大型化(といってもボンネットのロングタイプですが、当時からすると大型化といっても過言ではないでしょう)が進み、それまでの車両では競争が困難ということもあり、ディーゼル・ガソリン車の新車投入が進みます。
特に山岳部、強いて言えば日光では早くからディーゼル車の導入も進められました。小型のボンネットディーゼル車は、当時あった旧いろは坂(現在の第1いろは坂ではありません)を通るバスの運転士からもとても喜ばれたそうです。
(当時、馬返-明智平のケーブルカー以外では、小型バスにより馬返-中禅寺間で専用車による折り返し運転がありました)
またこのころ他社で有名なのは京浜急行の半固定窓ボンネット貸切バスがありましたね。
代燃車は昭和25年から27年にかけて6期計画で置き換えが行われ、最後まで走ったのは確か沼田と水上の数台です。
当時の東武労組組合新聞によりますと、その時点まで残った代燃車は昭和10年式のフォード型でした。
この時代から、第二次世界大戦中に休止路線となった路線の復活のみならず新設路線の拡大や貸切需要の拡大などで、年間120~130台ペースで車両の増備が行われることとなります。
ガソリン車についてはちょっと不明ですが、ボンネット車やキャブオーバー車が昭和40年代初頭のワンマン化及び大型ツーマン車等による置き換えが行われる頃までありましたので、だいたいそれぐらいまで残っていたのではないかと思います。

814:名74系統 名無し野車庫行
10/03/15 03:02:15 6hCUdd2Y
日野に3000番が登場するのはもう少し後のようですね
URLリンク(www5e.biglobe.ne.jp)


815:759
10/03/16 00:16:28 cjbJFwQK
>>814さま
ありがとうございます。
3000番台に突入する時代の東武バスは資料によると年間150台前後で増備をしていましたのでちょっと時期を読み間違えていました。
大へん失礼いたしました。

余談になりますが、東武で初めて冷暖房完備のバスが出たのは昭和36年のことになります。
確か3110号車がその冷暖房完備トップナンバー(乗合・長距離急行用)でしたので、3000番台に突入したのは昭和35年~36年頃ではないかと思います。
仰せのサイトで丁度3000号車の廃車体が紹介されていますが、ボディからして昭和35年頃の感じはしますね。
どなたか正確な時期をご存じでしたらご教示お願いいたします。

816:名74系統 名無し野車庫行
10/03/16 02:16:34 MtmtTxQg
>>815
RB系列登場以前までは平地はいすゞ、山と貸切は日野Dというのが標準だったそうで
古い写真を見ると大宮管内にいすゞがいたようです。
逆に割合末期の頃の葛生にいすゞの目撃情報がありどう言う事なんだろうと考えていますが
実際のところはどうなのでしょう?

BD14とBD15は富士重車体では外見上わからないかと思いますが
少なくとも3000から3110までの間にそんなに時間があったとは思えず36年式BD14(P)あるいは
37年式BD15(P)と見る方が正しいでしょう。
公式には3118はよく登場しますが3110も全く同一と見ていいのでしょうか?
また同一仕様(冷房付き)のRB10Pも同時に外国人観光客用として貸切で登場しますが、
当時の貸切車の一部は社番表記が省略されているので何とも言えないようです。
不思議な事に3118はR13車体なのですが3290~3291がR11車体ですね。


817:759
10/03/16 12:30:29 hhjQQ7S7
>>816さま
ご教示ありがとうございます。
確かにBD14とBD15では富士重工業車体の場合ですとパッと見では解りませんね。
冷房付きバスが出た時には昭和36年5月で3100番台まで行っているのですから、おそらくその年に3000番台に突入したのかもしれませんね。
今度また資料を探してみたいと思います。
余談になりますが、昭和35年には乗合137台、貸切45台の計185台、昭和36年には乗合175台、貸切72台の計247台、さらに昭和37年には乗合204台、貸切70台、合計274台もの車両が導入されます。
3年余りで700台以上という、今からは信じられない台数です。この頃、昭和20年代前半に導入された初期のディーゼル車やガソリン車が置き換えにさしかかったことと路線や貸切の拡大時期も合間っての大量導入でありました。

社3110号車ですが、仰せの通り3118号車とまったく同一車両でして、昭和36年5月に長距離急行用の冷房付き第一陣として9台が同時に導入され、6月1日より運用されました。
この冷房車は非常に評判が良く、翌昭和37年にも多数導入され、桐生・伊香保方面はもとより、猿ヶ京・苗場方面への急行バスにも専用車として配属されます。
余談になりますがこの東武における冷房付き長距離急行バスを基本にして導入したのが東北急行バスの初代車両たちです。

外国人旅行用専用車ですが、昭和36年にいすゞ製で導入されたのが冷房付きでは最初となります。その際、富士重工R11車体を架装いたしました。
社3290・3291号車でR11車体としたのは前途の外国人旅行用専用車と僅かに存在したいすゞ製貸切車と合わせるためであったと聞いておりますが・・・
この時代はまだまだR11・R13車体搭載車が平行して導入されていた時代でもありました。

当時の貸切車と山岳部、地方部の路線車は仰せの通り基本は日野、平地ではいすゞを基本としておりました。
しかしながら日野車が多かった大宮でも、当時はいすゞ車を持つ他の営業所との長距離乗り入れ路線などの関係で数台いすゞ車を配置していた時代もありました。
台数は確か10台前後ではなかったかと思います。
葛生の件、詳細は解りませんが転属車で2台ぐらい居た記憶がありまして、当時の秋山・浦原方面で充当されていたのを記憶しております。


818:名74系統 名無し野車庫行
10/03/17 20:51:21 kDrDZj74
>>800-805 あたりの話を聞いてて涙出てきた。
貸切落としの最南端・小川町駅裏の高校に通ってた3年間は熊谷駅行きと皆谷・白石車庫行きはいすゞの貸切落としのオンパレード。64**~65**あたりが飽きるほど走ってて
(6475ってのが居たのは覚えてる)。小川パークヒルみたいな団地線にもよく入ってた。
…当時、小川町にも1台だけ川重の貸切落しがいた!
一方、開設されたばかりのみどりが丘団地線は、熊谷からの借り入れ(としか今となっては思えない)の日野+富士重のRL320が「東武」幕でフロント窓に
「みどりが丘団地」ってステッカー貼って走ってた時代。
遠い昔とは言いたくない、平成2~3年頃のハナシ。

一方、我が家の目の前からは、本数だけはいっちょ前だけど、青+クリーム塗装に緑の薄っぺらなシートを装備した
64**が、年式のわりには無意味に新しい 「所沢22か 581」 なんてナンバーを付けて物見山の急カーブを抜け、大東文化大学の
下り坂を転げ落ちるように駅まで運んでくれたもんだ。2054なんて来た日にゃ天国だ!

そんな中、(2010年現在の) 総理大臣と同じ名前のゴルフ場で、なんかでかいプロゴルフの大会が開催されたんだな。
当然、その輸送は全て東武バス。観客輸送用には 「端から端まで路線バスを集めて来ましたぁ!」的な状態。
前中ドアの足立ナンバー7Eの後ろには群馬ナンバーの日野貸切落とし。
西上尾や大宮の3扉(HTもいればRC301もゴッソリ)は、ここぞとばかりに乗降時間の短さを誇り、
その横では、完全アウェイ状態の習志野ナンバー5Eが右往左往しながら、同じ外観した新座の5E・CJM500が
先導するなんてほほえましい光景が見られたもんだ。

関係者・選手の輸送も、もちろん東武担当。新座だか足立から持ってきた2013(違ったかな?)いすゞ+北村、
後部段上げハイデッカーのマイクロが何往復もしてたっけ。見なかったのは日光鬼怒川と境・笠間辺りの所属車だけじゃなかったかな。

>>802さま、、、 6801=最後の川重車体CJM500 とのことですが、では 6802 はどのようなバスだったのでしょう?
6803(東松山)が P-LV314Lの初号車だと思っていたので、6802までが川重CJMだと勝手に思ってたのですが…

819:759
10/03/17 22:47:57 Id64ub0v
>>818さま
私も大へん懐かしくなりました。
当時、小川には貸切格下げ車が最大で4台配置されていた時代もあり、熊谷にあった2台の格下げ扉増設車と併せて様々な路線に使用されておりました。
川重車体の格下げ車はいすゞ貸切車が基本的に富士重工業車体搭載車へシフトしていくだけに非常に貴重な存在でしたね。熊谷の2台を含め、貸切格下げ車は熊谷・行田・小川管内の方向幕を装備していたことは余り知られておりません。

RL320ですが熊谷と行田からの借り入れ車で2台存在していたはずです。社番は失念しましたが。
また車検などで使えないときには熊谷で予備車状態になっていたUDの中型車もみどりヶ丘線に投入されたことがありましたが数えるばかりです。
いずれも仰せの通り東武幕で「みどりヶ丘循環」の紙を貼り付けてでした。末期には笠間や高崎からの転属車もあったと聞いたことがあります。

熊谷ナンバーや埼ナンバーを付けていた東松山出張所の車両達でございますが、ご存じの通り川越営業所管轄になりましてから所沢ナンバーに皆切り替わりましたね。
結構BU10・CJM500あたりの車は富士重工車体・川崎重工車体問わず塗装変更や冷房改造を受けて90年代前半まで長く使われておりましたね。
懐かしい限りです。ご存じかどうか解りませんが、1990年には足立から転属してきたBU10の前中扉車もいましたな。

鳩山カントリー倶楽部で開催された大会では仰せの通り各営業所から様々な車両が使われました。
選手役員輸送にも用いられたいすゞ+北村の小型マイクロ貸切は足立・西柏・越谷・上尾・前橋に各1台ずつ計5台在籍しており、当時の大会時には全車両が集結する非常に珍しい光景でした。
社番は6963号車が足立、6964号車が前橋。2012号車は西柏、2013号車が越谷、2014号車が上尾でした。
小型貸切は社内で「マイクロデッカー」と呼ばれていたものです。
またこのときには日本でも数少ない、東武でも1台しかなかった富士重工車体いすゞLV大型ショート9m貸切2015号車も選手輸送に用いられました。
この時代は東武沿線で行われたゴルフ大会や、日本スリーデーマーチ、七峰縦走ハイキング大会ともなりますと、様々な営業所から多種多彩な車両を用いて輸送が行われたのも懐かしいものです。

さて最後に、6802号車でございますが、記念すべき東武最初のP-LV314でございます。新製配置は東松山出張所で、当時、6802~6804号車の3台が配置されました。

820:名74系統 名無し野車庫行
10/03/18 00:32:03 ki22k7wU
>>815
とあるサイトに2130の廃車体があったが、昭和34年製。
2130は平成初期にやはり同じ番号の車がいたので、2000番台は重複といってもよいのでしょうか?

821:759
10/03/18 12:15:15 d42uF7Jx
>>820さま:
その通り、2000番台は重複、2度目になります。
従いましてその廃車体に表記されていたのは旧2000番台のことです。

この社番付与方法については昭和40年代初頭あたりのことでないと明確な方針というのが分からないのですが、おわかりの通り、数字の先頭が奇数が日野車、偶数がいすゞ車というように分けているのは現在に至るまで同じです。
そこで旧2000番台が満杯になる前、さて次は何番を付与するかということで議論となりましたが、4000番台は付与したくない、では5000番台は日野に充当予定、ということで6000番台が採用されました。
まだ3桁車がそこそこ残っていた時代です。

いつも余談ばかりになってしまいますが、6000番台が満杯になるとき、さて次は何番台を付与するかということで議論されますが、8000番台は当時十数台あったUD車に使っていてダメ、では4000番台を付与するかということも検討されました。
また5桁案というのもあったそうですが、結局は2000番台を再度付与することで決着しました。
2000番台のトップは5EのP-LV314でした。

8000番台はUD中型車廃車後、川越観光自動車から移管された上尾市内循環ぐるっとくんのUDガス車で日の目を見ますね。
でも今後はUDそのものが事実上バス事業から撤退になりますから、8000番台が再び使われるのかどうか。

822:759
10/03/18 12:23:29 d42uF7Jx
訂正
×=5000番台
○=3000・5000番台

ところで私がいつも不思議に思っていたのですが、かつて日光鬼怒川方面に二代目三菱ローザが「ライトバス」という名称で5,6台だったかと思いますが小型貸切として用いられておりました。
時期的には昭和40年代前半だと思います。
しかしそのライトバスというのが社番データがありません。確かに昭和30年代~40年代にかけて社番表記を省略する傾向が見られましたが。
どなたかご存じでありましたらご教示よろしくお願いいたします。

823:A2-818
10/03/19 12:16:00 8MJyCH1g
>>819-=759さま
詳細なご記録、ありがとうございます。北村のマイクロ貸切2013は越谷所属でしたか。ご教示いただいた途端に
大宮ナンバーを付けていた(春日部ナンバー創設前ですからね)ことを思い出しました。感謝の限りです。69**番台も存在したのですね
もっとよく見ておけよ!と、当時厨房の自分を叱りつけたい気分です。
その貸切落としですが、同じいすゞ富士CRA580でも、熊谷管内と群馬(渋川あたりでしょうか?)管内では、中ドア横の側面
方向幕に明らかな差異があったと記憶しています。群馬の車のほうが、側面幕の横幅が短く、タテ長感が強調された状態だった
記憶があります。改造メニューにも地域差があったのかも知れません。

小川~みどりが丘の件、やはり自分のあいまいな記憶の裏付けが取れたようで光栄です。その数年後、熊谷~犬塚で日野車体の
中型車を見たときに明らかな違和感を感じたので、自分が見た小川への貸し出し車が富士重だったことは間違いないですね。
ただ、開設当時は終点が存在し、循環になったのはのちの話であったと記憶しています。もっともその頃は6754という、小川町
虎の子の5ECJMが、新しい部類の車! として見られていた時代だったですからね。

自分のあいまいな記憶を元にモノ申すのは大変申し訳ないのですが…どこかの廃車置き場で川重CJMの6802という屍を
見た記憶があるんです。 一方、昭和60~61年当時の記憶をなんとなく辿ると、熊谷22か30*というナンバーを付けて、
勇躍、団地輸送に乗り込んできた彼ら(青+クリーム塗装)の記憶があるのですが、私の頭の中では その初期角目富士重5E= 6803~6805 なんですよね。
確かめようにも、タダでさえ管轄変更でナンバーは無駄に変わるは、こちらが本腰入れたときには、いきなり9298なんていう
見慣れないHT2MMAAが走り始めると同時に、本庄から7481・7483なんていう出入口表示がアンドンなRE121(?)が転入して、40コマ対応の
運賃表示機の見難さに驚いた世代なくらいですから… そうは言っても、こちらも間違いがあるかもしれません。

中学時代にももっと関心を持っておけばよかったと後悔することばかりです。バスコレおもちゃのまちバージョンを手に入れて、
これって「坂戸~大橋」で、嫌になるほど見たじゃん! と思いながらも、「前のマーカーランプは付いてなかっただろ!」と無粋なツッコミを
入れているわけですが(w

824:名74系統 名無し野車庫行
10/03/19 14:22:21 JWwtJp1d
2000番は熊谷に転入してからは良く見かけましたねぇ
63年式でしたっけ…


825:名74系統 名無し野車庫行
10/03/19 20:21:37 UiWjn3qT
流れを無視して申し訳ないですが、車両に詳しい方がいるようなので・・・。

1960年代中ごろに水上あたりに中扉エアサスの富士RB10がいたと思うのですが、
この車両と同時期の通常のツーマン車では外観上どのような差異があったか
わかりませんでしょうか?

826:759
10/03/19 21:12:01 /UQRNHkS
A2-818さま
貸切の扉増設格下げ車ですが、改造時期によって使っている部品や改造メニューが異なっていたりします。改造期間は1985年~1991年の6年間ですが、中扉の増設時に必要な車体補強や骨組みの加工などが車体によって異なっていたことが大きいと聞いております。
一説には川崎車体の格下げが一番たいへんだった(特にステップの増設が難航したらしい)とか当時聞いた覚えがあるのですが。

小川や東松山には確かにいろんな車が居て楽しかったですね。CJMの5Eは数こそ少なかったですが存在感がありました。LVの5Eと異なり、非常口が中央にあるのですぐわかりましたが。
また、あまり知られていない話し、冷房装置が一部ですが、富士重工製とヂーゼル機器製で分かれていたのが試験搭載の意味合いもあり1・2台ほどあったはずです。
基本的に東武のいすゞ冷房車は当時ヂーゼル機器製の冷房装置でほぼ100%近く統一されていた中でイレギュラーな存在でした。
(エアコンユニットが富士重工車体のいすゞ車でも床下のため外見からでは判別不能でした)
ヂーゼル機器製のエアコンに関しては、当時ヂーゼル機器のエアコン製造・開発拠点となっていた江南工場・東松山工場があったこともあり、この地域での改造が早くから進められていたことも事実です。

小川のRL320ですが、富士重工車体・日野車体それぞれ2台ずつだったと思います。
富士重工車体の方に関しては1台が水上、1台が葛生にそれぞれ新製配置の後、転属に転属を重ねて熊谷に来ての貸し出しと聞いたことがあります。社番がちょっと手元にないのですが・・・
日野車体の方に関してはその後平成6年頃まで行田市内循環に用いられるなど長持ちしたものでしたね。
しかも冷房改造を受けていたのが大きいと思いますが。

東松山での車両の入れ替えが本格化したのが1991年~1992年頃で、いすゞ車と日野車の「共演」でありましたね。
このころはちょうど7Eの新車が東松山にかなり入り出した頃でもありました。
仰せの日野RE121ですが、特に東松山では日野車体、富士重工車体の両方が楽しめましたね。いずれもそんなには長くありませんでしたが、同時にHT225・235の5E車体や、中にはRC301の5Eもやってきたりして、一番バラエティーに富んだ時代ではなかったかと思います。
ただ現場では保守面でいろいろと苦労したらしく、また運転面でも、ハンドルの切れ、ブレーキの効きが異なるため慣れるのに苦労した話しをよく聞いた物です。

余談になりますが、1991年には当時東松山に在籍しておられた主任運転士の方が優秀運転士として時の運輸大臣表彰を受賞されました。
各都道府県バス協会賞、県知事賞、運輸局長賞、日バス協会賞を取らなければこの表彰にたどり着かないと言うことで、当時は現場でも大いに盛り上がったものです。

827:759
10/03/19 21:30:36 /UQRNHkS
>>824さま
ご名答です。新2000番台のトップを飾った5EのP-LV314・社2000号車は昭和63年式です。
熊谷の閉鎖前後だったかに菖蒲へ移籍後、菖蒲で除籍になったはずです。

>>825さま
1960年代中頃でRB10あたりのエアサス車ですと3000番台後半か5000番台初期ではないでしょうか?
このころの東武バスは山間部でも多種多様な車両がいましたので私もよくはわかりませんが、時期的に申しますと、RBではなく、高出力タイプのRC10、ホイルベースも4.8mのものがかなり山岳部には投じられていた記憶がありますので、RC120あたりではないかと思うのですが。
私もそんなに詳しくはありませんので、どなたかご教示いただければ幸いです。
ちょうど、ツーマン車の最終期あたりにさしかかる世代の車ですね。

時期的にはRE100・RE300型への過渡期、代表例として少し前に話題となった昭和44年式の社5460号車(水上定期観光用)に見られる「RE300P」型という、ホイルベースが4.8mで高出力タイプのエンジン「DK20」を載せたバスが出る前の話しです。

828:759
10/03/19 22:13:45 /UQRNHkS
補足
昭和63年式社2000号車ですが、新製配置は柏営業所になります。
その後確か三郷→熊谷→菖蒲と転属をしたはずです。

また社6754号車あたりのCJMですが、末期はかなり群馬方面に転用されておりました。
沼田にはまとまったCJMの転属があり、有名なのは6758・6759号車あたりなどは時に大清水方面へも運用されています。
懐かしいですな。

829:名74系統 名無し野車庫行
10/03/20 00:07:24 DeciRQgl
テス

830:名74系統 名無し野車庫行
10/03/20 00:12:43 DeciRQgl
>>825
URLリンク(www5e.biglobe.ne.jp)

このページに載ってる車ですかな。
確かに車番は3000番台のようですが、側面がはっきりしませんね・・・。

それにしても水上は、日野富士の短尺一ドアが多いですね。

831:759
10/03/20 00:43:33 Hf1K8eT0
>>830さま
寝る前にちょっと書き込みます。
東武の場合、ご存じかと思いますがいろは坂対策もありましたし、当時多数持っていた山間部路線への対応と言うこともあり、結構短尺車が導入されていました。
水上の場合は一部の中型車を除き、後年の社7075号車あたりまで新製配置車両は殆どが扉が1つのみというのが多かったですね。
私が当時父親に連れられて後閑に住む知り合い宅へ行ったときも、富士R11・R13車体が混在し、前扉1つのみや中扉1つのみなど多種多彩に走っていたのを覚えております。
水上で2扉車が増えたのは関越交通に移管される数年前あたりに首都圏からの転属車や貸切格下げの扉増設車が入る時期です。

後閑駅前で当時見たものとして鮮烈に覚えているのがBT51のツーマン車でした。確かこれはトップドア構造で扉1つだけでしたが、旧貸切塗装でカーブ塗装を纏ったものでした。
社番は確か5070番台であったと記憶しています。

832:名74系統 名無し野車庫行
10/03/21 02:46:51 fAiJwIgY
>>831
水上の昭和46~47年導入は前後扉ですね。
前扉のみの短尺乗合車(RE100)というのはRE世代以降は日光からの転入車だったと記憶しています。
ただ43年後期に入ったバス協ウインカー装備の前扉ツーマン車が日光や沼田にいたかどうかがよくわかりません。
最近まで川場村に1両廃車体が残っていたのですが....。
中扉ツーマンは40年ころまで短尺RB10、43年は帝国車体のRE120でした。
RB世代のRC路線車というのは存在しなかったと思いますが、
エアサス付きのRB10Pロマンスシート車(貸切兼用や貸切格下を改造したもの)は存在していました。
貸切格下車の前ドアを埋め中ドアを増設した車両が一定数いたようで、
オリンピック増車で足立にRB10Pが大量に導入された関係かと睨んでいるのですが....。


833:名74系統 名無し野車庫行
10/03/21 02:50:27 fAiJwIgY
>>831
BT51ですが、数台が貸切で導入され間もなく乗合に格下されていたようです。
有名なのは中之条の5071ですね。
日向見固定で大島教授さんが撮影されています。

834:名74系統 名無し野車庫行
10/03/21 02:54:19 fAiJwIgY
三度すみません....。
中之条にいたのは5077だったかもしれません。
R11車体といえば鬼怒川の3942(42年登録)もかなり謎ですね....。

835:759
10/03/21 11:29:56 ILv6FOBv
>>832さま
詳細ありがとうございます。当時、水上には新車のトップドア車が・・・という話しを聞いていましたので、転属車とは思いも寄りませんでした。
ただし冬期の車内保温対策ということで数台のトップドア乗合車が水上にもわずかばかりですが新車またはそれに近い状況で何処からか転属をしていたという話しもありますのでちょっと調べてみたいと思います。
水上の新製前後扉車は中型しか記憶にありませんでしたので意外でした。
バス協ウインカー装備のツーマン車は日光、沼田にも数台有ったはずです(昭和50年頃に日光で目撃しています)

また仰せのRB10Pロマンスシート車ですがそのとおりでして、中扉改造を受けた貸切格下げ車がかなりあったようですね。
いずれも昭和50年頃まで活躍しておりました。かなりの数がありましたので。
RC路線車はRE120へ移行期にごく僅かな台数が入ったと記憶しておりますが正しいことは調べてみないと分かりません。
なにしろこの時代の東武バスは車体は同じでも仕様がバラバラというのも珍しくないです。

836:759
10/03/21 11:39:19 ILv6FOBv
>>832さま
BT51ですが、そのとおり貸切格下げでして、貸切での稼働年数は1~2年程度でした。
確か5,6台の導入世代ではないかと思うのですが。
中之条のBT51は社5075号車だったと記憶しております。四万温泉~日向見線とはこれまた懐かしいですね。

社3942号車ですがBT71でしょうか?確か鬼怒川にはまとまった数のBT71もおりまして、当時の川俣方面や時には滝ノ原・田島方面へ使われていたはずです。
時期的には三菱ライトバスと時を同じくしての登録のようです。

837:名74系統 名無し野車庫行
10/03/22 01:28:53 lEY3OMpu
>>759さん
セミデッカー貸切格下げ車で
・塗装は路線オレンジカラー
・カンテラ方向幕
・中扉改造無し
・ライト改造
のようなやつがいたって本当ですか?

838:759
10/03/22 12:12:43 QJXtRI5W
>>837さま
よくご存じでいらっしゃいました。仰せの格下げ車は桐生、鬼怒川に数台ですが存在いたしました。
貸切格下げ車で扉増設を中止したのは1991年の夏ぐらいでして、その直後に改造した格下げ車(確かいすゞのCRA580と日野RV731だったと思います)から扉増設、後部方向幕取り付けが中止となりました。
いすゞですと確か6500番台の末期か6600番台の初期、セミデッカー車ではなかったかと思うのですが。
この方法は最も、以前扉増設改造を行っていた以前の方法であり、1980年に貸切格下げ車が再び出るようになってから5年間は方向幕増設、路線塗装(当時は青塗装でしたね)、ワンマン機器取り付けで扉増設はなしという方法で各地に広まります。

839:759
10/03/22 12:14:50 QJXtRI5W
838の続き
もっとも、塗装変更や方向幕取り付けメニューは配属地域により異なりまして、中には鬼怒川や日光など一部地域で見られたように、旧々貸切塗装(白×紺×水色)のままで改造された例もありました。
中にはカンテラ方向幕ではなく、フロントマスクのライト周りに方向幕を内蔵するタイプ(現行のタイプですね)も登場しますが、当時は故障も多く、また見やすさなどの関係で当時は最上部に取り付ける「カンテラ式」に落ち着きます。
当該の社番で言いますと7000~7100番台あたりだったと思うのですが・・・

扉増設中止の理由は前途のとおりでありますが、時期的に、それまで都心部等で使用していた初期冷房車を含め、冷房付き路線車が地方部へ転出できる環境が整ったこともあり、格下げの両数は最低限度に近い状態でもかまわない状況になったことも大きいのです。
また中扉の増設等にはかなりの費用と手間がかかり、さらに時期的に、日野RS、富士R3のようなスケルトン車体の初期車両が置き換え時期にさしかかっていた際、路線格下げに際し、当初は扉増設を検討いたしました。
しかし車体の骨組み構造やトランク部分の構造上、扉の増設はさすがの足利自修でも困難であるということで改造を断念した経緯があります。
扉増設無し、ライト改造あり、塗装変更ありの格下げ改造は1991年改造分の非常に短期間しか見られませんでした。
翌年の1992年改造分からは現行の改造のように、基本的に塗装やライト周りはそのままに貸切設備を外して方向幕と車内ワンマン機器を取り付ける程度の工事にとどめられることとなります。

840:759
10/03/25 21:44:44 XRcOvnWZ
>>832

水上で整備士をされていた方に話を伺うことが出来ました。
RC120ですが、新製配置で猿ヶ京に配属された後水上に転属した例が3台ぐらいあったとのことです。見た目はRB10Pのロマンスシート車とほとんど変わらずで、社番かエンジン音を判断しないと外からは分からないぐらいで、修理現場の人間の間からは気を遣う存在だったようです。
もっとも東京オリンピックに際して製造されたRB10Pの格下げ車が大量に出回る時期でもあったことと、高出力車のREはコスト面も含め、前途の数台しか導入されなかったとのこと。

前扉だけのトップドアワンマンカーは水上の新製配置はあったとしても1台か2台程度で、他はやはり大多数が転属車とのことでした。
前後扉車の導入に際しては当時の他営業所に導入された車両同様に最後部に車掌台を持つワンツーマンカーでした。
しかしワンマン化に際して、冬期車内保温などの目的からも後扉が使われなくなり、トップドア車を好むようになったことから、トップドア車の転属を受けるようになったそうです。
もっとも混雑の激しい時期、水上駅などでは締め切り扱いの後ろ扉から乗車するケースはありましたが。

841:名74系統 名無し野車庫行
10/03/26 18:50:54 EpIgmaoq
>>840
URLリンク(www5e.biglobe.ne.jp)
このページに載ってるBR10P中扉車はその下に載ってるトップドア車と同一仕様車を
扉位置変更した車って理解でおK?

842:759
10/03/26 23:11:40 Se5cvaoo
>>841さま
そのとおりです。
>>832さまにより解説の通り、扉の移設が行われた車両という解釈をされてよいかと存じます。

この改造案については諸説有るのですが、時期的にツーマン車1扉車を製造するかしないか社内でも議論されていた時期のことでした。
RB10P以外でも改造例はありまして、当時まだ残っていたツーマン路線用にということで中扉へ移設した例ですね。

余談になりますがRE100が登場した頃にもツーマン路線車は新製配置がありました。
数は限られますが、中之条などの山間部路線に新製配置だったと記憶しております。
車体は帝国車体か金産車体だったかは忘れましたが中扉1つのみ、バス窓の時代です。

843:名74系統 名無し野車庫行
10/03/27 12:04:06 1TYdB0Lj
>>841
その中扉化改造車、方向幕やドアが違うってあるが肝心のところが見えないのが残念
おそらく、幕はドア上でドアは上下二段窓もしくは、縦長通しガラスなんだろうな。

BR10Pといえば小平鍾乳洞付近に初期の冷房車が置いてあったがまだいるのかな・・・?

844:759
10/03/27 15:01:05 5fCA/vVM
>>843さま
改造した車両かどうか分かりませんが、当時のバスのドアーは1台1台異なっていることも珍しくはありませんでした。
中には上下二段というものもあれば、上のみ有り、下窓なしというのも結構ありました。
新製車両のドアーは結構上下2段窓というのが昭和36年以降の車両では多く見られましたね。

小平鍾乳洞付近の廃車体の件ですが、確か公式写真でも多く用いられた社3118号車ではないかと思います。
あの車両は長きにわたって大活躍でした。
東京駅~苗場国際スキー場の第1便もこの3118号車が使用されました。

話が逸れてしまいますが、当時長距離急行バスを担当しておりました営業所の一つに猿ヶ京出張所がありました。
小さな出張所ではありましたが、内容が内容ゆえ、当時の現場はとてもにぎわっていたそうです。

845:名74系統 名無し野車庫行
10/03/28 02:32:41 Jdt792I0
その昔、前橋の東急イン地下にあったディスコ「キング&クィーン」への団体客をよく東武バスor群馬中央バスが乗せていたような記憶があるが?
夜11時半ぐらいにバスが東急インの前で待機していた記憶がある。
時々見たのが40人乗りのスーパーハイデッカーもあれば、普通の路線車、貸切格下げも。
バブル真っ盛りの東武バスが懐かしい。

846:名74系統 名無し野車庫行
10/03/28 03:13:02 Jdt792I0
759さん>
日野RE富士3E車冷改車でデンソーではなく
ヂーゼル機器のエアコンを積んでたバスがいたような?
日野=デンソーというイメージが強いので覚えてました。
あとRL320もあったような?
教えてください。

847:名74系統 名無し野車庫行
10/03/28 13:42:41 uCUrEe2h
>>845-846さま
たいへん懐かしい話しですね。
前橋東急インの地下"King&queen"輸送思い出しました。このディスコはあのマハラジャ系の流れを汲むディスコでした。
当時、物珍しさに群馬県内各地から団体輸送があったのを覚えております。特に週末ともなると群馬バスさん、群馬中央さんのバスも来ておりました。東武でも沼田や渋川、伊勢崎などからも来ておりました。
その際車種はいろいろでしたが、学生さんの団体では主に路線車、それ以外では貸切車だったと記憶しております。
ただボーナスシーズンだったか忘れましたが通常の団体さんで路線車を使用した際、酔ったお客様が(それも高額紙幣)運賃箱にお金をどんどん入れてしまい、運賃箱が故障してしまった事件もありました。
運転士は「お客さん、貸切だから運賃は要らないのですよ」と言ってもどんどん紙幣が料金箱に。
あとで営業所到着後に引き抜きがたいへんだったと記憶しております。
このような輸送は1年ぐらい続きましたが、バブル崩壊とともにすぐ無くなりました。

日野のRE120・富士重工3E車体冷房改造車ですが、仰せの通り、ヂーゼル機器製冷房搭載車はありました。
数はそれほどあったわけではありませんが、同車体構造のいすゞBUと改造を推進するための選択であったと聞いております。
富士重工3E車体に限らず、日野車体のREでもヂーゼル機器製冷房を搭載した例はあります。
RC301と同等の車体で登場したRE121だったかの非冷房車の内、一部の冷房改造車もヂーゼル機器製冷房を搭載しておりました。
(いすゞCJMと同じ冷房ユニットを搭載していたのがありました)
日野車で日本電装製(現・デンソー)冷房に統一されるのはRC301以降です。

RL320もヂーゼル機器製冷房を搭載していたのはごく僅かですが(確か3台程度)です。
ほとんど日本電装製の冷房だったと思います。

848:名74系統 名無し野車庫行
10/03/29 01:15:24 xtELgKRU
前橋の東武バスも撤退から10年。
早いな。
キングオブクイーンも東武バスが撤退した頃なくなった。
群馬で初めてのディスコだったね。
前橋の東急インは地元運営の前橋インに切り替わった。
日比谷花壇も無くなって久しい。
中央駅前でよく東武の観光バスが待機していたっけ。

849:名74系統 名無し野車庫行
10/03/29 01:22:07 xtELgKRU
>>848
○=キングアンドクイーン
×=キングオブクイーン

>運転士は「お客さん、貸切だから運賃は要らないのですよ」と言ってもどんどん紙幣が料金箱
すげえ時代だ・・・

850:名74系統 名無し野車庫行
10/03/29 04:54:16 SNS5d/z3
前橋駅前のイトーヨーカ堂のオーナーは東武らしいですね。
駅南に出来たけやきウォーク前橋や高崎のイオンモールの影響で撤退が噂されてるけど。

851:名74系統 名無し野車庫行
10/03/29 11:21:34 lXE/yQK/
>>850
けやきウォークは平日の昼間でも駐車場待ちしないといけないうえ、無駄に広くて
疲れたりで普段の買い物には意外と不便なのでヨーカ堂は残してもらいたい。

亀ながら、759さん他の話に触発されてバスコレUD4R改造でBR10-Pなんかを
作ってみてる。
URLリンク(user.ftth100.net)
簡単にいくと思いきや、効果は薄いのに工程上必要不可欠な切継ぎが六箇所、
しかしドア付近がよくわからないのであくまでタイプ・・・orz

852:759
10/03/29 12:12:07 WnrZrJJ5
>>850-851様
仰せの通り、前橋駅前「前橋STビル」は東武鉄道も所有者ですが、このビルは以前前橋案内所の裏側にあった曽我製粉さんとの縁で、曽我・東武の共同所有となっております。
先日の報道でイトーヨーカ堂の撤退の可能性が報じられましたがどうなることか注目されます。
丁度ビルが出来てから23年、あのときは大いに盛り上がりました。
全国でも早くからコンピューター方式での案内システム導入なども話題になったものです。

なんでもイトーヨーカ堂の撤退報道の際、駅前の再開発、バスターミナルの再整備も行うという発表がされました。
今駅前にテナントの入っている平屋の建物あたりにバスターミナルが動くとかと聞いておりますがどうなることか気になりますな。
数年前に前橋を訪れた際、有人の案内所を見て懐かしくなりました。

イトーヨーカ堂がオープンした際、東武トラベルでは定期券をさばききれず、営業所から出張して定期券販売をしたのも懐かしい想い出です。

853:759
10/03/29 12:20:14 WnrZrJJ5
おっと書き込み忘れました 何時も長文お許し下さい。

>>848-849様
当時の前橋ディスコはミルキーウェイ、シルバーフォックス、カンタベリーハウスがあり、これにマハラジャ系の流れを汲むKing&queenが来たものでした。
場所的に丁度、中央前橋駅近くでしたから当時の上毛電鉄タクシーさんも大繁盛でした。
貸切車の配車地は東急イン手前の坂下バス停でした(終バス後でしたので何ら問題有りませんでしたが)
よく中央前橋駅前で待機していたのものです。
日比谷花壇は何かとお祝いの時にお世話になりました。


>>851
模型、よく出来て居るではありませんか!いやはや感服でございます。
あとは塗装を何にされますか?シマウマ塗装でしょうか?それとも青×クリームのツートンカラーでしょうか。

854:851
10/03/30 16:22:36 uOHpowYg
>>853
いつも貴重な情報ありがとうございます。
模型の方ですが、なるべく加工箇所がわからないように撮ったことに加えベースが
よくできているおかげですよw
塗装についても一番苦手な工程なので簡単に済むツートンで行く予定です。

なお現在、文献等をあさっているもののドア周りの様子がさっぱりで、
せめて方向幕の位置や、車掌台窓の有無がわかればいいのですが・・・。


855:名74系統 名無し野車庫行
10/04/06 21:44:32 MYBeDgTo
>>854
規制のあおりを喰らってなかなか書き込みが出来ずすみません。
ツーマン車の中扉と方向幕の位置ですが、いろいろ種類がありますが、一般的にはこんな感じになったかと思います。
いずれもバス窓時代のものですが、
1 中扉から向かって左側最初の窓は上段方向幕+下段引き違い窓
  中扉から向かって右側最初の窓は天地一杯に引き違い窓

2 中扉上に方向幕が存在
  この場合、中扉から向かって右側最初の窓が上段バス窓+下段引き違い窓の車掌台
  (東武では中扉上の方向幕は大多数で早くに姿を消し、窓上段に方向幕を設置する方向で統一が進められます)

ボンネットバス時代から1の例が東武では主流でした。
何しろ公式側写真が非常に限られるもので、私も記憶の限りでしかお答えできませんが、どうぞご参考になさってください。

856:名74系統 名無し野車庫行
10/04/07 02:25:58 LKXXUl0n
759さん他>

川越か上尾あたりにBT51orBT71あたりの前後扉車がいたような。
ガキの頃にずいぶんと変わった車だなあって感じてた。
普通なら後ろ扉の後ろにも窓と席があるのにリアいっぱいに後ろ扉。
しかも後ろ扉は引き戸。
こんな車いましたよね?

857:田中日月
10/04/07 09:01:50 foM5alBV
昔水戸にも東武バスが走っていましたね



858:名74系統 名無し野車庫行
10/04/07 21:14:09 spdltR+B
>>856
懐かしい限りです。これは昭和44年式最終ロットのBT51が該当いたします。時期的に、「シマウマ塗装」の末期分でもあります。
台数はそれほど多くはありませんでしたが、仰せのタイプはワンマン初期世代の前後扉車でテスト導入された内の1モデルと聞いております。
確か社番は5500番台の前後だったはずです。後扉が引戸式というのは当初、折戸にするか引戸にするかいろいろ検討していたためのテスト採用だったと聞いております。
他社さんでは後扉も引戸というのが一般的でありましたが、ワンマン・ワンツーマン前後扉車を大量導入する際、部品共通化の目的から、後扉も折戸式を本格採用いたしました。
この流れがツーステップ車末期の平成10年頃まで続くとは夢にも思いませんでしたね。
一時期、前後扉車についてどうするか検討されていた時代がありまして、確かいすゞLVを導入する頃に前後扉ではなく前中扉車で基本的に統一しようかという議論もされたことがありました。

>>857
水戸の東武バスも懐かしい限りです。
けっこう中距離路線もありまして貸切格下扉増設車も水戸まで顔を出しておりましたね。
あれは日立電鉄さんにも影響が及びまして、当時日立電鉄さんで使われておりました扉増設車の数台は足利自修で改造した車があったと記憶しております。
茨城の東武バスですが、筑波万博の時の輸送がとても評判が良く、そのため貸切部門が末期まで残ったのはそのおかげでもありました。
下館のように後の後まで貸切の新車が入っていたのはそのためです。


859:854
10/04/07 23:39:55 cTv2Gd6A
>>855
いつもながらありがとうございます。
加工のしやすさや、プロトタイプにした車の一般的な車両とは幕の位置が違うという解説から、2の方で進めることにします。

予断ながら私も携帯、PCともに規制中でした。ここで言ってもしょうがないのですが、あの規制乱発の運営
どうにかならないものですかね・・・。

860:759
10/04/08 01:08:22 mA3hndsK
寝る前にちょっと書き込みます。

>>859
手元の古い社内報で社3664号車の写真を見る限りですとR13車体の中扉1つのみツーマン車(シマウマ塗装)でして
・中扉向かって左側に上段方向幕、下段は引き違い窓
・中扉向かって右側に天地一杯の引き違い窓
このようになっておりました。

うろ覚えで恐縮ですが、私が聞いた限りでは3500番台の元貸切格下改造車で1,2台ほど扉上の方向幕車があったという話しを先輩から聞いたことがありました。
沼田か鎌田所属車両には兎に角バラエティに富んだ車が在籍しており1台1台仕様が異なっているのも珍しくなかったというのは有名らしいのですが。

お役に立つかどうか分かりませんがご参考まで。
おやすみなさい。

861:名74系統 名無し野車庫行
10/04/09 08:35:18 Sek6xoSh
ここの方なら分かると思って。水戸駅で撮影した日野-富士の貸切格下げ車 運転席のパネルが丸いタイプ 型式分かる方いらっしゃいますか? 多分RV730だと思うんですが

862:名74系統 名無し野車庫行
10/04/09 12:14:36 aTcjEmAm
格下げ車って言えば
以前桶川駅西口までも来てましたよね?
子供心に強烈なインパクトでした。

863:759
10/04/09 21:44:16 aTcjEmAm
>>861
当時笠間などにも仰せのRV730を始めRV731やCRA580などの格下げ車もいました。
懐かしい限りです。
貸切格下車の末期には古河と笠間でいすゞと日野の交換があったりしたのも記憶していますが社番まではわかりません。
このころの笠間は路線車でもブルーリボンの7900番台なども水戸まで姿を見せておりました。
余談になりますが全盛期には前橋から水戸まで東武バスを乗り継いでいけば旅も出来たほどというのは伝説になっていますね。
水戸駅~赤塚駅~杉崎十文字~大和田~笠間駅の移管路線も一部区間を残しすでになくなってしまったそうで、昔の名残はほとんどないようです。
茨城の東武バスと聞いていつも思い出すのが、茨城~千葉~埼玉の3県にまたがって走っていた、下妻駅~北越谷駅線を思い出します。
距離はそれほどでもありませんでしたが、急行便もあったりで乗りごたえのある路線でしたね。



864:名74系統 名無し野車庫行
10/04/09 21:59:52 aTcjEmAm
訂正
×=下妻駅~北越谷駅線を思い出します。
○=茨城急行の下妻駅~北越谷駅線を思い出します。
あのころは茨城急行とともに東武バスも茨城県内を多数走っていましたね。

さて自己レスになりますが昼下がりに>>862に中途半端に書いてしまったのですがいくつか。
熊谷や行田には貸切格下げ車が配置されていましたので時にはかなりの遠征をして各地に後年まで神出鬼没をしていましたね。
少し前に元整備士さんとお話をした際に出てわかったのが、昭和40年代、ツーマン車の代用に格下げ車を使っていたことがあるというのです。
これはいずれも1~3日程度、長くても1週間程度ですが、車検や故障などが起きた場合に代車の代車ともいうべきことで使ったケースがあると伺いました。
当然方向幕は「東武」表示。
子供心に覚えているのでびっくりしたのはそれだったのだなと納得でした。

余談になりますが平方~小見野~亀の甲~東松山線にはBT51貸切中型車の格下げ車が使用されていたこともありました。
台数が少ないだけにご記憶の方も少ないと思います。

865:名74系統 名無し野車庫行
10/04/11 03:50:15 6XYg520L
前に県立博物館で見たのだが
洪水の時、水に浸かった街中を、東武の制帽をかぶった人(運転士?)が船をこいでいた写真を見た。
これって代替バスならぬ代替船?

866:名74系統 名無し野車庫行
10/04/11 20:09:29 yy7nWFM6
>>865
私も地元自治体の方や先輩から聞いた限りでしか存じ上げませんが、特に昭和40年代まで年に数回ほどそのような「代替船」があったのは事実でして、洪水が発生した際にバス路線をつなぐ目的で船による輸送が行われておりました。
台風シーズン、台風の予報が発表されると、洪水が起きやすかったり、水が出やすい地域では、営業所が前もってお願いしていた農家から船を借りて、バスの屋根に船を積んで用意しました。
船と言ってもかなり立派な手こぎ木造船です。今でも残っている農家があると聞きます。
洪水が発生した状況に応じて、あらかじめどこまでバスが走れるか調査し、浸水してしまった地域から、次の浸水していない地域までを結ぶシャトルバスならぬシャトル船とも言ってもよいでしょう。
先輩に聞いたところ、当時は入社して間もない運転士や男性車掌が地元農家の方々、役場の方々とともに船頭をするのが通例だったらしいです。
漕ぐのも非常に苦労されたそうですが、当時は自家用車も少なく、どうしても出勤しなければならない方などにはとても喜ばれたと聞きます。
地元の方も浸水してたいへんだった中、先導役の運転士や車掌に地元の方が食事の用意までしてくださったそうです。

郷土資料によりますと、ある地域では当時荒川の川底と、周辺の水田・畑の高さは同じだった地域もあります。
昭和40年代に入り二重堤防化、荒川の付け替え(流域変更)が進み水害の軒数が劇的に減少しますが、昭和50年代初頭までそうした例があったそうです。

867:名74系統 名無し野車庫行
10/04/12 19:54:00 VOALOAuC
昔の埼玉の本庄と群馬の前橋を思い出す


868:名74系統 名無し野車庫行
10/04/12 23:31:03 b9/eLWO7
>>867
本庄の全盛期は皆野や児玉へ抜ける路線がとても繁盛していましたね。
また急行バス全盛期には寄居からの八塩温泉ゆきや伊香保・水上・伊勢崎・赤城方面へ走る急行バスを担当した時代もあったそうです。
鬼石には出張所があった時代もあったのはご存じかと思いますが。
深谷出張所の閉鎖により路線を引き継ぐ際、かなりの数の路線を引き継ぐこと、回送距離の問題などもあり、当初は熊谷寄りの路線を熊谷に移管する案や、群馬中央バスさん、十王バスさんへの移管案など多々ありました。
しかしまだ当時熊谷営業所はかなりの路線を持っておりましたため、当時営業所であった本庄が引き継ぐことになりますが、合理化の促進により引き継ぎと同時に出張所に格下げとなりました。

個人的には本庄というとギャンブル輸送を思い出します。

869:名74系統 名無し野車庫行
10/04/12 23:50:09 j6+aWEpM
北越谷の駅前にデカいバス路線図が掲示してあったのを覚えてる人いるかなぁ。
確かあの中に紫ゴルフ場行きやせんげん台駅行きとかがあったような…。

870:名74系統 名無し野車庫行
10/04/12 23:55:35 j6+aWEpM
北越谷駅東口のバス乗り場にデカいバス路線図が掲示してあったのを覚えてる人いるかなぁ。
確かあの中に紫ゴルフ場行きやせんげん台駅行き(茨急担当だっけ?)とかがあったような…。

昔の東武バスといったら越谷や春日部ぐらいしか思い出せないし。

871:870
10/04/13 00:17:24 RRub9ixR
ごめんなさい。
間違えて2度も投稿してしまいました。
869は無視して構いません。

872:名74系統 名無し野車庫行
10/04/14 06:29:06 qGOOIOXn
そういえば3ドアなんて大宮地区に結構あったよね。
なんであの辺に入れて足立や葛飾に入れなかったのかな?

873:名74系統 名無し野車庫行
10/04/14 08:07:01 VoT0vMtK
そもそも3ドアの用途方法が西武とかとは違ったからな。
東武の場合は、後部ドアは後乗り路線の入口専用、中ドアは前乗り路線の出口専用。

874:名74系統 名無し野車庫行
10/04/14 15:12:59 nqbENavS
>>864
東松山駅~平方間は東松山の担当ですが
東松山に日野の配属があったと言う事なのでしょうか?

875:名74系統 名無し野車庫行
10/04/14 20:50:37 roEKl378
>>869-871様
有りました有りました、高架駅になる前の北越谷駅東口に有りましたね。
仰せの通り東武・茨城急行2社の路線が色々と書いてあり今思えば何処まで行けるのかと興味をそそる内容でした。
紫ゴルフ場ゆきのみならず千葉・茨城方面への広大な路線網。下妻へ向かう急行路線などなど。
本当に懐かしい限りです。

>>872
東武における3扉車の導入についてですが、これは他社さんで3扉車を導入するようになってからかなり社内的な研究、議論をしていたのは事実です。
計画では大宮・上尾地区以外の他、東京都内路線でも導入を検討していたことがありました(これは当時の組合新聞等にも出ていたかと思います)
先にご教示いただきました社2985号車の改造に際しては後で私が調べたところ、やはり3扉車を導入するためのテスト目的での改造であったと聞きました。
都内での3扉車導入が実現しなかった理由はいくつかありますがはっきりしたことは私も調べてみないとわかりません。

>>874
手元の古い資料を引っ張り出しましたところ、東松山~大宮を直通運転していた末期の昭和49年8月、また分断翌年の昭和51年にそれぞれBT51中型格下げ車を使用していた記録があります。
昭和49年の方は当時実際に運転した運転士からの話ですが、これは沿線の毘沙門天様で大きな祭りがあった際に増発を行ったためでした。
昭和51年の方は通常使用車両が故障で使用できなくなったために車検上がりで三進工場に入場しておりましたBT51を急遽借用しての運用でした。
よくこの線で聞くのは「毘沙門天様で催事が行われるときだけ大混雑だった」というものでして、分断された年とその翌年までは、催事の時に限り、直通運転の復活と増発を行っておりました。
自家用車が普及する以前は、催事の時ともなりますと3台続行運転でお客様をご案内したそうです。

876:名74系統 名無し野車庫行
10/04/14 22:51:00 qGOOIOXn
大宮・上尾管内は信用乗車制度が主流だったしね。
ただ、新座管内でも一時期信用乗車制を採用していたので
トライ的に大宮か上尾から借りてきて3ドア車使ってみても
良かったのではないかとは思いますね。

それにしても、境や前橋に転属した3ドア車を見ると
妙な切なさを感じたものですね。

877:名74系統 名無し野車庫行
10/04/15 00:37:38 lCzJlCvQ
>>876
寝る前にちょっと書き込みます。
私は新座方面にはちょっと疎いのですが、一時は新座にも3扉車の導入を検討していたのは事実です。丁度日野のK-RC301で3扉車を導入した際、いすゞ車でも3扉車を導入しようかという案が進められておりました。
折しも時期的には他社さんでCJMの3扉車、また三菱・日野・UDで富士重工業車体を搭載した3扉車導入例もありましたので、富士重工業へも相談したようです。
もしも実現していればいすゞ車のみならず日野車でも東武の富士重工業車体の3扉車が出現していた可能性もありますね。

境や前橋への転属でありますが、いくつか話しを聞いたところ、当初は中扉を使い、後ろ扉は混雑時のみという計画もありました。
しかし他車両との取り扱い統一などから中扉の締切りを行う「境方式」が出現します。
前橋にK-RC301の3扉車転属直後には、朝晩の一部や波動輸送などに3扉をフル使用したこともありましたが、半年経たないうちに使わなくなったと記憶しております。
いつも長々と済みません。
おやすみなさい。

878:名74系統 名無し野車庫行
10/04/17 12:00:58 akJSYMUT
ろだより

URLリンク(halfzero.sakura.ne.jp)

879:759
10/04/23 21:01:27 hDKehk4B
>>878
たいへん懐かしい映像をありがとうございます。
この話しも先輩から聞いた限りでしか存じ上げないのですが、何でも放送局との仲が良かったという縁でドラマへの車両貸し出しがあったということであったと聞いております。
バスに限らず東京放送のドラマでは東武がロケに使われる事が多かったですね。
聞いている限りでは、貸し出しについては1日単位、貸切扱いで行われました。
ですので映像中、当時最新鋭の小田原機器製運賃箱もそのままに出ております。
現場ではまさか国道246号線を東武の車両が走るなんて夢にも思わなかったということで盛り上がったこともあるそうです。

880:名74系統 名無し野車庫行
10/04/24 03:15:10 OB3qXzTx
金八先生でもよく東武バスが出たな。


881:名74系統 名無し野車庫行
10/04/25 23:48:20 H1ohU6N5
test

882:名74系統 名無し野車庫行
10/04/26 00:00:06 H1ohU6N5
何とかかけるみたいな。
阪東バスでは早くから中二つ折り戸の車両が走っていたし
その手の3ドア車は早くから採用できたのではないかと
今でも思いますね。
日野ブルリシティでは天沼に配備された9479~9484
(大宮ナンバーの2970~2975・ワンステ含む)が
それに該当するのではないかと思いますが
当時は信用乗車方式から共通カード導入による
後ろ降り後払い方式へと変わる大きな変換期でしたし
色々考えていたのだろうな、とは思いましたね。

末期は上尾本所(現在は廃止→貸店舗化)にも中型ながら
中二枚折戸車が導入され、そいつがさらに大宮駅東口にも
現れた時はインパクトはありましたっけね。

最後に、大宮本所の前中後車は
晩年は中扉のガラスに「この扉は開きません」と
注意書きを貼っていたものの、スイッチ自体は
別に殺していた訳ではなく、車いすの乗客がいるときは
中扉を使っていることもあったと記憶しています。


883:名74系統 名無し野車庫行
10/04/27 02:43:04 hikxX9Zf
>>880
堀切駅前行きの架空の路線なんか出てたな。
TV見てたウチの姉は、「あんな所にバス走ってんだ」とか驚いていたが。

884:名74系統 名無し野車庫行
10/04/27 21:51:14 gl62nFl7
>>880様・>>883
金八先生と申し上げますとやはり私たちも東武バスを思い出してしまいますね。最後のエンディングテロップにも東武バスのロゴが見られた数少ないドラマの一つでした。
ご存じの通りバス路線もバス停も架空のものでして、バス停、方向幕ともにロケのために用意したものでしたね。
堀切駅周辺は千住曙町ですので、場所的には京成さんがやるのかなと思っていたのですが。
余談ですがどの回か忘れましたが国際興業さんも出ていましたね。

>>882
3扉車及び、中扉の4枚折戸車についてですが、導入がなかなかできなかった理由には道路環境の問題もございました。
早くから研究が進められていたことも事実ですが、特に都内や埼玉県内の都心部等で、道路フェンスや縁石の切れ込みなどの問題もあり、なかなか実現に至らなかったのは事実です。
また、他社さんと同じ道路を通る系統で導入しようとしても、他社さんで使用されている車両と成る可く同じ扉構造でなければ難しい問題もありました。
あとはご存じの通り、昭和46年~47年の前後扉車集中投入の影響も大きいかと思います。前中扉車は本当に必要最低限度しか導入されませんでしたからね・・・
私が聞いていたのは877で書いたとおり新座の他、当時まだ輸送力を必要としていた熊谷の立正大学線系統などにも3扉車や4枚折戸車の導入を検討していたのは事実です。
3扉車の中扉使用は運転士の裁量にゆだねておりました。
混雑時や車椅子のお客様対応のみならず、用途外などでもかなり中扉が重宝していたケースがあったためです。
前橋などへ転属した後も、機能をカットしないでただパイプで仕切っていた車もありました。


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