08/07/26 00:33:15 bATd9N2i
【芸術家高本秀行、栄光の軌跡】 ■第二十六回■
1967年10月7日の午後。川崎市内の別宅で秀行少年の
第八回目の生誕を祝う会が厳かに催された。秀行少年は
特別の慈悲を示して同級生120人を招いてあげていた。
川崎市の市議、経済界、音楽界から集まった500人に
混じって同級生達が嬉しそうな表情で参加していた。
当初両親は同級生を招く意志はなかった。それはこうした
催しに彼の同級生がみすぼらしい格好で加わることに
疑念を抱いたからである。しかし心優しい秀行少年は
両親に懇請して招くことになったのである。
秀行少年の心優しさ、目下の者たちに対しても同じような
愛情をもって接してあげている秀行少年の真心の美しさに
両親は深い感銘を覚えながら当日を迎えた。
(第二十七回に続く)
960:7分74秒
08/07/26 00:34:04 bATd9N2i
【芸術家高本秀行、栄光の軌跡】 ■第二十七回■
当日の朝。川崎市内の別宅には約620人が集まった。
秀行少年は両親に挟まれて眩しそうな笑顔で彼らを迎えた。
秀行少年は貧相な格好の同級生たちに対しても同じように
優しい笑顔で接した。彼らが何をしようと何も言わずにいた。
同級生たちは来賓の挨拶には見向きもせず、料理を貪り
走り回った。その姿は来客の眉を顰めさせるに十分であった。
彼の両親は同級生たちを招待した判断を悔やんだ。
しかし、秀行少年は祝う会の終了後、両親に言った。
「お父さん、お母さん、僕はね、彼らを招待してよかったと
思っているよ。なぜかというとね、彼らはたぶんもう一生
こんな華々しい会に出席することはないと思う。彼らにとって
今日は一生の思い出になったはずだよ。それでいいと思う。
僕は恵まれない人のことを第一に考えていきたい、
だからこれでよかったんだよ」と。
両親はそんな秀行少年の慈悲深さに感銘し落涙した。
(第二十八回に続く)
961:7分74秒
08/07/26 02:27:33 bATd9N2i
【芸術家高本秀行、栄光の軌跡】 ■第二十八回■
小学二年生の二学期も無事に終わり、冬休みに入った。
高本家は例年四国にある別荘で年末年始を過ごしていたが、
その年は川崎市の自宅で年を越すことになった。
というのは秀行少年の発議によるものであった。
彼の同級生の家は貧しい家庭が多かった。
時に彼の門を潜り、借銭を乞う父兄も少なくなかった。
秀行少年は、お金がなくて年も越せない同級生の親が
大晦日に訪ねてくるかもしれない、だから在宅するべきだ、と
両親に訴えた。彼の両親も息子の熱誠溢れる訴えを聞き、
あえて四国行きをとりやめ、自宅で大晦日を迎えることにしたのである。
1967年の暮れは例年と比べ、寒さの厳しい日々が続いた。
新聞の社会面には行き倒れによる凍死の記事が絶えなかった。
それは秀行少年の心を痛めた。どうして人はみな幸せに
なることができないのであろうか?
大晦日の朝、秀行少年は新聞の記事を読みながら
物思いに耽っていた。
(第二十九回に続く)
962:7分74秒
08/07/26 02:28:25 bATd9N2i
【芸術家高本秀行、栄光の軌跡】 ■第二十九回■
1967年の暮れもおしつまった大晦日の午後6時ごろ。
1人の女性が秀行少年の家を訪ねてきた。彼女は
秀行少年の同級生の母親であった。青ざめた顔で
門を潜った彼女は、秀行少年の母親に相対すると
震えるような小声で借銭を頼んできた。
母親はそんな女性をとても不憫に思い、心からの
深い同情を寄せると半紙に包んだお金をそっと
渡した。そこには一万円札で10枚も入っていた。
女性は涙をこぼしながら
「ありがとうございます…これで親子三人、おかげさまで
年を越せます・・・」
というと泣き崩れた。秀行少年の真心と美しさは
こうした両親の心優しさを受け継いでいるといえるだろう。
(第三十回に続く)
963:7分74秒
08/07/26 02:29:06 bATd9N2i
【芸術家高本秀行、栄光の軌跡】 ■第三十回■
1968年1月1日。その日は朝から気温が上がらず雨が降り続いた。
新聞の社会面には行き倒れによる餓死者、凍死者の記事が目についた。
前年、1967年は年初から悲惨を極め、企業倒産、個人破産者の増加、
身元不明の行き倒れ人の記録的増加など、重苦しい一年であった。
また、東北地方を中心に娘の身売りなどが相次ぎ、一家心中も絶えなかった。
1968年の元日も路上に冷たくなって横たわる行き倒れ人の死体が
いくつも見られた。彼ら彼女らは万策尽きて力尽き、路上に命を失ったのだ。
こうした悲惨とどん底の中で迎えた新年を希望と活力の年にしようと
内閣は宣伝に努めた。しかし、そうした政府の掛け声も、どん底にあえぐ
庶民の耳には心なしか空虚に響き、うつろな目で明日を見つめるだけであった。
秀行少年は元日の朝、両親と共に神社へ趣き、高本家の一層の興隆と
一般庶民の幸せを願った。秀行少年の目には街のそこかしこに見られる
死体や乞食が悲しいものに思われてならなかった。
(第三十一回に続く)
964:7分74秒
08/07/26 02:30:13 bATd9N2i
【芸術家高本秀行、栄光の軌跡】 ■第三十一回■
初詣から帰宅した秀行少年と両親は間もなく訪問者を迎えた。
それは秀行少年の同級生の父親で、青ざめた顔をした彼は
両親に対してこう切り出してきた。
「新年早々こうしたお話を聞かされるのはご不快極まりないと存じますが、
他にご相談する方もおりません。実は私たちは生活に行き詰まり
どうにもならなくなりました。このままでは一人娘の京子を売る他
ない状況となってしまいました。ご無理を承知でお願い致します。
どうかいくらかでもお金をお借りできないでしょうか・・・」
と搾り出すようにいった。隣の部屋で知らず知らず聞こえてきた話に
秀行少年は愕然とした。あの優しい京子さんが、あの愛らしい京子さんが・・・
秀行少年は無意識の内に部屋の中へ飛び込み、両親に必死に頼んだ。
彼には親友である彼女が売られていくことなど耐えられなかった。
涙を流して哀願する秀行少年の姿にみんなが泣いた。
冷たい雨が降りしきる68年の元日のことであった。
(第三十二回に続く)
965:7分74秒
08/07/26 10:06:54 mzISMIHF
つ①①①①
966:7分74秒
08/07/26 11:08:01 bATd9N2i
【芸術家高本秀行、栄光の軌跡】 ■第三十二回■
1968年の正月は滞りなく過ぎていった。この年は例年になく
悲惨な正月であった。新聞各紙は正月三が日で発見された
行き倒れ人の数が全国で3471人を記録したと報じた。
秀行少年はそのことを伝える新聞記事を読みながらため息をついた。
秀行少年は1月4日の夜、久しぶりにレコード鑑賞を楽しんだ。
実は前年暮れ以降の悲しい世相に胸を痛め、音楽鑑賞を
控えてきていたのだが、この夜、両親に勧められ、久しぶりに
レコードプレーヤーにレコードを置いた。
重厚なステレオから流れてきた曲はチャイコフスキーの「皮相」であった。
彼はこの曲を聴くたびに嗚咽した。それはこの曲の奏でる旋律が
当時の重苦しく悲しい日本の世相を語っているように思われて
ならなかったからであった。
秀行少年は窓辺に立って夜景を眺めた。その頬には一筋の涙が流れていた。
(第三十三回に続く)
967:7分74秒
08/07/26 11:08:33 bATd9N2i
【芸術家高本秀行、栄光の軌跡】 ■第三十三回■
小学二年生として過ごした一年間も間もなく終わろうとしていた。
秀行少年の両親は1月と2月の2度に渡り、校長と担任に対し、
秀行少年の並外れた知能と考慮し、特例として小学六年生に
するよう求めていた。前年も似たような申し出をしていたが、
一年間の秀行少年の成長ぶりを検討し、あえて再度の要請を
しているのである。
もうすぐ三学期も終わろうとしている2月25日の午後のことである。
秀行少年の両親は学校を訪れ、校長、教頭、そして担任に対して
三度目の要請を行った。これに対して学校側は教育委員会の
姿勢を理由に拒んだ。
「ご両親、確かに秀行くんは天才です。今すぐ六年生になっても
十分やっていけるとは思います。それは私たちも認めます」
こうした校長の言葉も激高した両親の心には届かなかった。
両親はこのような学校側の姿勢が頑迷なものに思われて
ならなかった。
両親は帰途、ため息をつきながらひとつの結論に達しつつあった。
(第三十四回に続く)
968:7分74秒
08/07/26 11:09:05 bATd9N2i
【芸術家高本秀行、栄光の軌跡】 ■第三十四回■
帰宅した両親は秀行少年を呼び、アメリカ留学を告げた。
実は前年から、秀行少年の才能を聞いたアメリカの
学校関係者から留学を打診されていたのであった。
両親は日本の学校のように理解の乏しい教育機関でなく、
アメリカで高度な教育を受けさせたいと考えていたのだ。
父親は秀行少年に向き合い、学校での交渉の経過を話し、
この際アメリカの学校に留学し、将来に備えようと話した。
「な、秀行、こんなバカしかいな小学校で学んでいても
仕方がないだろう。それよりもアメリカのちゃんとした学校で
しっかり学んで立派な大人になるべきだとお父さんとお母さんは
思うんだよ、いいかい、あの小学校にいても未来はない」
父は丁寧に情熱を込めて話した。それに対して秀行少年は
躊躇うことなく次のように答えた。
「お父さん、お母さん、僕は今の学校に残るよ。だって
僕がいなくなったら学校はダメになっちゃうよ。いいんだ、
僕ひとり犠牲になっても。みんなのためなのだから・・・」
両親は秀行少年の慈悲と真心に感動した。
留学話はこの時点で霧散した。
(第三十五回に続く)
969:7分74秒
08/07/26 11:09:44 bATd9N2i
【芸術家高本秀行、栄光の軌跡】 ■第三十五回■
小学二年生の終業式も無事に終わり、僅かな春休みを
音楽評論の研究で過ごした秀行少年は4月に入って間もなく、
小学三年生の始業式に臨んだ。秀行少年の目には同級生らが
いかにも幼稚で困った存在に映ったが、賢明な秀行少年は
そうした考えは微塵も見せず鷹揚な態度で接してあげていた。
夏休みから秋にかけて秀行少年の研究は加速した。
彼にとって学校の勉強は不必要であった。教室で
教科書を開いてみても、そこに書いてあることはすべて
秀行少年の頭の中に入っていた。しかし、そんなそぶりは
全く見せなかった。なぜなら自分の優秀な頭脳は
同級生の心を傷つけることになりかねないのを知っていた。
だからあえて同級生のレベルに合わせて行動していたのであった。
1968年の秋。秀行少年は川崎の別宅へ同級生を招いた。
同級生たちは川崎市内に本宅と別宅を持つ高本家に驚いた。
およそ10万坪の敷地に聳える別宅を前に同級生たちは
言葉を失った。
(第三十六回に続く)
970:7分74秒
08/07/26 11:10:28 bATd9N2i
【芸術家高本秀行、栄光の軌跡】 ■第三十六回■
別宅の門を潜った同級生約30人は徒歩で20分ほど歩き、
ようやく玄関まで辿り着いた。秀行少年の母がにこやかに
同級生たちを出迎えた。彼らは大広間でもてなしを受けた後、
母親の勧めもあって、邸内を散策することになった。
大きな池には錦鯉がおよそ100匹泳いでいた。池のほとりや
橋の上からエサやりをした後、更に奥へ進んだ。
池を過ぎると林になっていて、その中を縫うように続く
道を同級生たちは秀行少年の先導で進んでいった。
既に紅葉も盛りになっていて、色鮮やかな木々の葉が
同級生達の目を楽しませた。林のそこかしこからは
小鳥のさえずりが絶えず聞こえてきていた。
30分ほど歩いた頃であった。林の奥の二股に分かれる境に
石標がひとつ立っていた。高さ1メートル弱の石標には
「慰霊碑」と彫られていた。
同級生の一人が訊ねると秀行少年は悲しそうに言った。
「この慰霊碑はね、去年の暮から今年にかけて行き倒れて
亡くなった人たちを供養するためのものなのだよ」
秀行少年はその年の正月、川崎市内の方々で見かけた
死体を見て心を痛めた。そして両親に供養するために
なにかしたい、と相談したのであった。そこで両親が
この場所に行き倒れ人のための慰霊碑を建て、ここで
供養することになったのであった。
同級生たちは秀行少年の心の美しさに感動した。
(第三十七回に続く)
971:7分74秒
08/07/26 11:26:55 mzISMIHF
>>966 「皮相」、ちゃんと直しといてやれよ(pgr
つ①①①①
972:7分74秒
08/07/26 12:52:00 5YnUGOPH
【芸術家高本秀行、栄光の軌跡】 ■第三十七回■
邸宅内の大広間で夕食会が行われた。同級生達にとって
見たこともない豪華な料理が並んだ。彼らは恐らくその後の
人生においても一度も口にすることなく人生を終えるだろう。
彼らはそんな未来も知らずに皆夢中になって食べていた。
食事が終わった後、キャンプファイヤーをしようと誰かが言い出し、
みんなで外へ出て火をおこし、キャンプファイヤーが始まった。
30人ほどが輪になって歌った。踊った。秀行少年がギターを弾き、
同級生達がそれにあわせてジェンカを踊った。時が経つのを忘れた。
午後10時を過ぎて風も寒くなり、火を消して屋内へ戻った。
一部屋に布団が4つ敷かれ、それぞれ気の向くまま、
部屋へ入り着替えて布団の上に転がった。
午後11時を過ぎて消灯したけれど、眠る気にならず、
同級生たちは喋ったり、枕を投げあったりして遊んでいた。
秀行少年もそんな同級生達に混じってじゃれていた。
いつごろだろう、みんなは疲れ果てて眠ってしまった。
しかし数人の同級生は遠くのほうで異音がするのを聞いた。
胸騒ぎがして隣で寝ていた同級生の体を揺すった。
(第三十八回に続く)
973:7分74秒
08/07/26 12:53:29 5YnUGOPH
【芸術家高本秀行、栄光の軌跡】 ■第三十八回■
同級生は熟睡しているのか、一向に反応を見せなかった。
異変に気がついた2人はそっと寝室から出ると、居間へ向かった。
襖を開けて居間へ入ると、ガラス窓の向こうに赤いものが見えた。
思わず駆け寄った2人の目に庭先で燃え上がった炎が
物置に燃え移っているのが見えた。
2人は思わず大声を上げて火事の発生を知らせた。
やがて家人の通報によって駆けつけた消防車による
消火活動が始まった。
その頃には火が建物に燃え移り、凄まじい勢いで
建物全体を炎で覆い隠そうとしていた。この建物は
大正時代に建てられた古い木造建築であった。
それだけに炎の勢いも激しく、消防車が駆けつけた時には
既に手の施しようがない状態だった。
秀行少年は両親や召使、同級生達と消火活動の様子を
見つめていた。彼はふと同級生たちを見渡した。そして
そこに彼の親友だった京子の姿がないことに気がついた。
(最終回に続く)
974:7分74秒
08/07/26 12:54:45 5YnUGOPH
【芸術家高本秀行、栄光の軌跡】 ■最終回■
「京子さんはどうした?」
同級生の間から声が上がった。どこにもその姿が
見当たらないことに気付いた秀行少年は胸騒ぎがした。
その時、邸宅の横にあった五重塔が激しい音を立てて
焼け落ちた。周囲からは悲鳴のような絶叫が起こった。
明治44年に建てられ、川崎市の名物とされていた
五重塔が脆くも焼け落ちた。見守る人の間からは
嗚咽が聞こえた。
五重塔の倒壊に気をとられていた人々にはその時、
秀行少年が燃える邸宅に飛び込んだことに気付く
人はいなかった。秀行少年は炎の中で京子の名を叫んだ。
しかし、その声も業火の中にかき消されていった。
激しい炎と煙の中に京子は横たわっていた。
秀行少年は黒煙の中でその姿に気付くと、
熱さや煙も忘れ夢中で傍へ駆け寄った。
遠くではまた一本、柱が焼け落ちていった。
「京子さん、京子さん」
と秀行少年は彼女の姿を揺さぶったが、京子は
何の反応も見せなかった。秀行少年は京子を
抱き上げると外へ逃げ出そうとした。すると炎は
一段を激しさを加え、ばちばちという音とともに
火の粉を撒き散らしながら柱が落ちてきた。
京子を抱いたままの秀行少年はよろめきながら
ふと空を見上げた。火に包まれた柱の間から
夜空が見えた。そこにきらめく天の川が
柱の間から流れ込んでくるかのようであった。
(第一部 終)
975:7分74秒
08/07/26 12:56:40 5YnUGOPH
【芸術家高本秀行、栄光の軌跡 第二部】 ■第一回■
1972年1月1日。小学生として最後の元日を迎えた秀行少年は
朝、両親に新年の挨拶を済ませると市内の墓地へ向かった。
先祖の霊を慰めた秀行少年はその足で近くにある京子の
墓へ向かった。あの火災で命を落とした京子のことを秀行少年は
片時も忘れたことはなかった。
「京子さん、5年目の春が来るよ。月日がたつのは早いね」
秀行少年は京子の墓に日本酒を注ぎながら語りかけた。
彼はあの時、京子の分まで生きようと決意した。それが
京子へのせめてもの供養になるだろうと思ったからであった。
秀行少年はふと空を見上げた。青空がまぶしかった。
今年もいい年になるだろう。彼は胸中で決意を新にした。
(第二回に続く)
976:7分74秒
08/07/26 12:57:39 5YnUGOPH
【芸術家高本秀行、栄光の軌跡 第二部】 ■第二回■
1月3日。秀行少年は両親とともに街まで買物に出向いた。
車で行くことになっていたが、庶民の暮らしぶりを生で見たいという
秀行少年の希望により、歩いて街へ向かった。
川崎の街は重苦しく沈んでいた。至る所に浮浪者が見られた。
街へ向かう途中、人だかりが出来ていた。父親がふと覗くと
凍死した行き倒れ人を警察が収容するところであった。
沈んだ表情で秀行少年の元へ戻った父親は母と秀行少年を
促して先を急いだ。
母親に手を引かれながら歩く秀行少年の胸中に疑問が浮かんだ。
大勢の凍死者、野垂れ死にの人が溢れる中で自分たちだけが
こうした素晴らしい生活を送っていていいものであろうか、と。
秀行少年はこのとき誓った。大きくなったら貧しい人、
恵まれない人を助ける聖人になろう、と。
(第三回に続く)
977:7分74秒
08/07/26 13:59:14 mzISMIHF
つ①①①①
978:7分74秒
08/07/26 16:28:26 bATd9N2i
【芸術家高本秀行、栄光の軌跡 第二部】 ■第三回■
3月。秀行少年は小学校の卒業式を迎えた。
級友一同で「蛍の光」を合唱した後、担任と握手して校舎を後にした。
秀行少年にとってこの6年間は余りにも不毛で実りの少ない期間であった。
級友は幼く、議論はおろか話し相手としても何の役にも立たなかった。
秀行少年にとっては、一人自室で楽聖らの譜面を読むことのほうが
比べ物にならないほどの尊いことと感じられた。
そして4月。川崎市内の中学校で中学一年生として新たなスタートをきった。
彼の両親は教育委員会に、秀行少年の類稀なる豊な才能、及び傑出した学力、
この点を考慮して中学は省略して高校への進学を認めるべきだと要求した。
結局そうした要望は認められなかったものの、神奈川県のみならず
全国的に秀行少年の将来性と高い知性は認められつつあったのである。
秀行少年は中学一年生として充実した一年を送った。
同級生たちが暢気に遊んでいる夏休みも彼には無関係だった。
1972年の8月。彼はいつも午前4時に起床していた。
配達されてきた全国紙5紙と神奈川新聞を隅々まで熟読、
その後庭先で木刀の素振り3000回を行った後、勉学にいそしんだ。
午前8時の朝食後、昼間で一心不乱に勉学に邁進した。
彼の驚異的な学力は英語、仏語、独語を一ヶ月で完璧に理解していた。
正午の昼食後、一時間の仮眠を取り夕方まで勉強を続けた。
そんな秀行少年の息抜きは夕方の散策であった。
毎日決まった時間に端正な姿で散策をする秀行少年を憧れる女子が多かった。
中にはラブレターを渡そうとする者もいたが、秀行少年は相手にしなかった。
彼にとっては音楽への傾倒、そして平和への希求がすべてなのであった。
秀行少年の自室の灯りは午前1時を過ぎても消えることはなかった。
貴重な睡眠時間を削り、ひたすら勉学と研究に明け暮れる日々が続くのであった。
(第四回に続く)
979:7分74秒
08/07/30 23:35:20 A8vxBSjo
続きを待っているのだ。 埋めるのだ。