06/11/14 17:25:04 fVziLhfu
例えば、目の前にこんな人がいたとする。
彼は、人当たりも良く、人の悪口もめったに口にしない
社会人としても友人としても申し分ない自立した人間である。
彼が、ある日、こう告白したとする。
「実は、子どもの頃、ひどいいじめに会い、トラウマがある。
今も、パニックに陥ることがあって、精神科に通院しているんだ…」
このとき、多くの人間は、彼に同情し、彼の助けになろうとするだろう。
トラウマを抱えながらも、立派に生きている彼に、強く惹きつけられるだろう。
そして、こんな魅力的な人間を深く傷つけたいじめに対して、
激しい怒りを覚えるだろう。
一方、こういう人間がいたとする。
彼は、人前では、常にびくびくしている。必要以上に卑屈になったり、
あるいは、人に対してつっけんどんな態度をとる。
何か問題が起こったとたんにヒステリーを起こし、被害者づらである。
こういう人間が、過去のいじめられた体験を恨みがましく、告白する。
そして、最後に、「いじめをやるようなクズは、みんな死ねばいいんすよ」
とはき捨てるように言う。
こういう人間を見ると、彼に同情するよりも、哀れだと感じるだけである。
そして、いじめに対して怒りを覚えることはない。ただ、いじめが、その
被害者をいかに惨めな醜い人間にしてしまうかを実感し、
むなしくなるだけである。
馬鹿は両者を区別できない。ただ、いじめられたということだけで、
無条件に世界は自分に味方すると思い込んでいる。
人が、いじめられた人間の力になろうとするのは、
そのいじめられた当人に人を惹きつける魅力がある時だけである。
多くの場合、いじめられっこには何の魅力もない。
いじめっこがクズだとすれば、いじめられっこは、クズ以下である。
そして、上記の後者の人間は、誰にも相手にされず、死んでいくだけである。