08/05/30 14:42:32 bYNs8oQQ
(つづき)
どんな政府規制であってもよいとは言わないが、罪を制止したり、それに制裁を加えることそれ自体に反発
を覚えるというのは、愚論もいいところだ。それは、「言論の自由」という耳に胼胝ができるほどに退屈な決ま
り文句を復唱していれば、それ以上の思考は要求されない、という怠惰な精神の然らしむるところにすぎない。
「自由」とは「自分の振る舞いには正当な理由がある」と思われるときにのみ主張しうる権利にすぎない。宗教
的・法律的・文化的な「罪」を犯そうとしている自分は、公言するに値する理由を持っているのだ、と言い張れ
る人間など、いるはずがない。いたとしても、よほどに風変わりな芸術家や思想家にとどまるであろう。どだい、
権利というのも、近代における一つの退屈な魔語にすぎないのである。
どんな権利も、その根底を(福澤諭吉の言った)「権理」によって支えられていなければならない。そして権
理とは「道理によって正当化されるという理由で、自由にやってかまわない行為」のことをさす。問題は道理が、
いいかえれば道徳が、どこからやってくるかということである。
自分は完璧な価値観の持ち主だと傲岸に構える狂人でないかぎり、誰しも、「道理は歴史からやってくる」
と認めざるをえない。この常識を踏まえていれば、ネット犯罪を抑止・禁止することに反対できるわけがない。
為すべきことは、その抑止・禁止の内容を具体的にどのようなものにするかということだけのはずである。そ
のように考える人間が国会にあってすら少数派だというのだから、この国土には不道徳列島の名称がふさわ
しいのではないか。