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閑話休題
話は変わるが。毛沢東による内部粛清は、大躍進後の反右派闘争や文革だけでなく、
1930年代の権力確立過程での反AB団粛反闘争、それから延安における整風
運動などがあったらしい。
1942年初め、・・・毛沢東は大小の会議を開いて、延安の幹部や群集に対して
「共産党が三風を整頓するのを助けよう」と呼びかけていた。三風とは、官僚
主義、宗派主義、教条主義のことだ。毛のねらいは、幹部や群集を動員して、
王明、博古や張聞天を代表とする党内コミンテルン派、要するに反対勢力
を清算するためであった。」
こうした毛沢東の真意を理解せず、都市から革命にはせ参じたインテリ、
青年共産主義者達のなかから、延安での党員の特権をまともに批判する
ものが出てきた。丁玲、王実味(1926年北京大学在学中党活動へ参加)。
「ところが毛沢東と江青は批判されているのは自分達だと思い、怒り
狂った。・・毛沢東が「文芸講和」を発表して間もなく、康生らはただちに
行動を開始した。整風運動に「鋤奸運動」(裏切りものを粛清する運動)
搶救運動と称するものを付け加えて、1937年以降、国民政府統治区から延安
に飛び込んできた、王実明のような進歩的青年を一網打尽にした。捕まえて
は拷問をして自供させ、そしてまた捕まえる。こうして芋づる式に、延安
にいた三万数千人の幹部のなかから「特務スパイ分子」をなんと一万五千
人もつまみ出したのである」
「そこで毛沢東の登場となる。少々ひどすぎたと言い、康生はやりすぎたと
語り、逮捕した者を出獄させ、名誉を回復してやり、大会を開いてはこの人
たちに謝罪したりした。拷問でひどく痛めつけられた人々は、はれて出獄
できたことから、毛沢東を命の恩人だと思い、感激の涙に咽んだのである」
「中国がひた隠す毛沢東の真実」草思社刊