05/04/09 15:08:43
ミヤケンの人生は、ある意味でラッキーボーイ。
革命運動・労働運動の経験はなし。選挙は大の苦手で、衆院選で当選楽勝といわれて
いるのに、イヤミな演説が祟ってかあえなく落選。まぁ世俗的には無能者なわけ。
そのミヤケンがなぜ唯一の勝ち組になれたのか? じつは政治犯と刑事犯を兼ねていた、
というのがミソだった。政治犯というのが彼の党内での、いわば箔となり、いっぽう
刑事犯というのが彼の転向をはばんだ、真の事情だった(アカ弁・青柳盛雄の証言)。
まさに、災い転じて塞翁が馬だ。
以下は、「正論」に掲載された共産党の終戦直後の再結成のときの風景でつ。
党勢が風前の灯である現在では、ただの面白い人間劇場にしかみえません。
「監獄にいた監獄組、娑婆にいた娑婆組にまず大別され、監獄組も転向・非転向に区別
され、非転向組も、獄中にいた年数で、上下関係が決まったといわれる。地方からや
ってきた転向組が、おそるおそる「自分のような者でも、もう一度党に入れてもらえ
るか」とお伺いをたてたところ、そこにいた山辺健太郎が、「ここはお前のような人
間の来るところではない」といって自立会の二階の階段からつきおとした。これをみ
た徳田球一が驚いて、山辺をたしなめたという話がのこっている。
獄中組にもいろいろとあって、治安維持法違反一本で下獄していた者と、他の罪名
で下獄した者では、全然別の扱いをうけた。例えば、警察官を殺害したとして監獄に
いた三田村四郎などは、刑事犯であったということで低いランクの扱いを受け、自立
会の庭掃除をもっぱらやらされ、政治的な論議のなかには、入れてもらえなかった。
(中略)宮本顕治や袴田里見らも、彼らも治安維持法違反のほかに、不法監禁致死罪
とか銃刀砲違反といった罪名がくっついていたために、一九四七年(昭和二十二年)
にマッカーサー総司令部から、政治的配慮にもとづき公民権回復の措置をうけるまで
は、随分肩身のせまい思いをして小さくなっていた。」
引用元
URLリンク(www.sankei.co.jp)