17/04/13 09:41:54.92 CAP_USER.net
韓国の桜の季節は日本の東北地方と同じ時期、東京よりは1、2週間ほど遅れでやってくる。
桜の時期になると毎年繰り返して話題に上げるのが、日本ー韓国間の「原産地」論争だ。
そうはいっても日本側での反応は薄い、というよりはさほど関心がないように見受けられる。
これに対し、韓国側では、韓国=原産地説を否定でもしようものなら、まるで顔に泥を塗られでもしたかのように、ヒステリックで感情的な反応を示す。
桜の「原産地」だということへの執着は日本人の比ではない。この執着心はどこから生まれたのだろうか?
実は、桜の原産地が韓国だという主張は1950年代にも存在した。
しかし、初期には一部による主張にとどまり、大部分の韓国人にとって桜は日本の花であり、日本を象徴する花だと考えられていた。
それは、1945年に第二次世界大戦が終わり、日本統治から解放された韓国のあちらこちらで、
韓国人の手によって桜の木が伐採されたことが何よりもはっきりと証明している。
「桜=日本のもの」という認識があったからこそ、日本に対する反感を桜に向け、怒りをぶつけたのだ。
また、戦後にも春になると喜んで「花見」に出かける韓国人たちの姿を見咎めて、問題提起をするような新聞記事も90年代までは何度も書かれている。
日本文化である花見を楽しむ姿は目に余るという理由だ。
美しい花をみて、それを楽しむという行動が批判を浴びなければならない理由はなんだろうか?
所属する国家が違い、民族が違ったとしても、美しいものをみて美しいと思い、それを愛でたいと思うのは人間の「本能」とでもいうべきものだ。
終戦直後の韓国には、こういった本能的な喜びを素直に受け止めることすら罪悪視されるほどに強烈な反日感情が充満していた。
美しいものをみても「敵の文化と象徴を愛でてはならない」と、美しいと感じる感情は
強迫観念にも似た罪悪感のもとに押さえつけられなければならなかったのである。
だが、この罪悪感はいつまでも韓国人の本能を抑え続けることができなかった。
何処何処の桜が美しく咲き誇っていると話題になれば、人々は吸いつけられるかのように桜を見に出かける。
近年では全国各地の自治体が観光客を誘致しようと観光地化を推し進め、競うように桜の名所と宣伝し始めた。
このような風潮に対して、「韓国の花もいろいろあるのに何で日本の花?」、「日本文化の真似だ」といった懸念の声があがったことは言うまでもない。
これに対し、これらの懸念をきれいに払拭してくれる主張が登場したのだ。それこそが「桜の原産地は韓国である」という主張だ。
つまり、日本の象徴であり、日本の花だとして知られていた花は実は韓国原産である、という主張は、
桜を好み、愛する韓国人達を罪悪感から救い、強迫観念から開放してくれたのだ。
今や自制する必要はなく、日本の目を気にする必要もない「名分」を得たのである。
2017年4月13日
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