17/03/07 14:06:14.84 CAP_USER.net
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▲新式結婚式を挙げる新郎新婦。彼らの横に高級ウェディング・カーが見える。平安北道新義州、1937年。
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▲平壌カンブリ大聖堂がある丘から眺めた平壌大同門や昔の市街地、大同江。
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▲大聖堂の建物の前で弟をおぶったまだあどけない笑顔を見せる少女。彼女と弟は解放と分断後どういう道を歩いたのだろうか。平安南道中和郡、1933年。
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▲晴れた日に教師の引率で遠足に行く平壌の少年少女たち。明るく笑う彼らの顔の向こう、大同川沿いの緩やかな丘陵、わらぶきがかすかに目に入る。平壌郊外のサフォーク大聖堂があり、1937年。
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▲大聖堂前でクロスプレイする少女たち、平安北道義州。
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▲1930年代、平安北道義州郡の通り。水浸しになった通りと水のない手前の道で豚が歩き回っている。
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▲写真集「私たちの神父様は写真家」表紙。
(記者注:日韓併合は1910~1945年。1930年代の写真に写った少女たちは併合後に生まれた計算になる)
限りなくきれいな顔。白い歯を見せてにっこり笑いながら縄跳びをする短い髪の女の子。平壌(ピョンヤン)付近の畑の堤防の道を歩いて三々五々遠足に行く少年少女たちの春の花のような微笑。彼らはその後、どんな人生を体験したのだろうか。今も生きているなら南と北のどちらで暮らしているのだろうか。
70~80年前の平壌(ピョンヤン)と平安道(ピョンアンド)一帯の聖堂付近で撮られた彼らの写真は詩人ペクソクが平安道の人と風俗について書いた郷土詩そのものだ。解放後に近づいた分断と戦争でより一層かすんでしまったその時期、北方の空間への郷愁と現地の人々の後日談を想像させるイメージだ。
1930~40年代、北方平安道地域の生活風景、子供たちと少女の日常、結婚・葬儀・栽培などの暮らしを集めたアルバムが出た。1922年から太平洋戦争後に強制撤収された44年まで、平壌と鎮南浦、義州など平南北一帯で布教と住民ボランティア、教育活動を行った米国メリノール外邦宣教会所属の神父らが取った写真150点余りを集めた<私たちの神父様は写真家>(2万ウォン)だ。
(後略:写真が見つかった経緯など)
ハンギョレ|作成者ノ・ヒョンソク記者
ソース:ハフィントン・ポスト(韓国語) 日帝強制占領期間平安道(ピョンアンド)と平壌(ピョンヤン)一帯の生活像を取った写真らが公開
URLリンク(www.huffingtonpost.kr)
関連サイト:「私達の神父様は写真家…遠い昔の北朝鮮」もっと多くの写真が見られます
URLリンク(pictorial.hani.co.kr)