16/10/30 06:52:25.71 CAP_USER.net
映画『徳恵翁主』が公開からわずか2カ月で観客550万人を動員し、人気を集めている。そのおかげで、徳恵翁主の墓が11月30日まで臨時公開されている。徳恵翁主の墓は、父・高宗と兄・純宗が埋葬されている洪裕陵にある。翁主の墓も、近くにあるほかの皇族の墓(英親王・義親王)も、亡国の子孫とあって貧弱だ。
19世紀末における朝鮮・日本両国の陵墓の風水観からは、両国の興亡において、互いに異なる方向を指し示していることがうかがい知れる。朝鮮最後の君主・純宗と生没年代が近い日本の君主は大正天皇だ。純宗は1874年、大正天皇は1879年に生まれ、二人とも1926年に世を去った。大正天皇は、東京都心から西におよそ40キロ離れた八王子市の多摩御陵に葬られた。地震に強い地を探し求めた結果だった。地震に強い地とは、どういう場所なのか。それは風水に合った場所だ。地脈(竜)が節度を保って伸びてきて、最後に威厳ある山峰(主山)を一つ起こし、その麓に大正天皇の墓が造成された。左右の山(青竜・白虎)がバランスと調和をつくり出した。
どうやってこんな良い場所を押さえたのか。それは、戸田忠至という人物のおかげだった。戸田は1862年、朝廷に建議書を送った。「日本を世界の強国として実現させるためには、陵の整備が重要です。これまでの歴代の陵はきちんと保存されておらず、万乗の玉体が荒蕪(こうぶ)の地に放置されており、これは実に畏れ多く、かつ胸を痛めるべきことです」。建議書は採択され、中世以来の「火葬後石塔方式」を捨てて初期の陵制、すなわち風水に従った埋葬を復活させた。日本の陵制における革命的な事件だった。これは単なる陵制の変化にとどまらない、天皇家と国運を大いに振作した事件と評されている。中国と日本の陵を研究した考古学者の来村多加史・阪南大学教授はこう語る。
「(陵制の転換によって天皇が埋葬される地は)天皇家の未来を語る跳躍の地だ。それから半世紀もたたないうちに日本は驚異的発展を遂げ、東アジアにおいて盟主の座をつかみ取った。強国日本の象徴となった明治天皇の業績とその陵は、幕府からの解放から東アジアへの君臨という転換を具現している」(『風水と天皇陵』)。韓国人にとっては面白くない発言だ。
一方、同じ年に没した純宗の墓(裕陵)はどうだろうか。日本人学者の村山智順は、ここが「去八来八形」かつ「十字通気形」であって、子孫の繁栄をもたらす地だと称賛した(『朝鮮の風水』)。「去八来八形」と「十字通気形」は同じ意味だ。地脈(竜)が墓の裏手から左右へ八の字型に分かれ、墓の前で再び逆八の字型を描いて集まり、ひし形になっていることを指す。
本当にそうなのか。裕陵は、地脈が流れていく中間地点、すなわち「過竜」に位置する。また、墓の前に小高い丘がそびえる、いわゆる「逆竜」になっている。どちらも、墓の風水としては禁忌に当たる事項だ。過竜と逆竜の場所に墓を構えているので、一見「来八去八」の地勢のようにも見える。しかしこれは強引な詭弁(きべん)だ。なぜそんな場所を選んだのか。「日本が朝鮮の皇室の復興を妨げようと、亡地を選んで作った」という陰謀論もある。しかし実際は、亡国の皇族に余力がなかったからだ。いや、既に定まっていたことだった。日本が19世紀後半、「陵と国運」について新たな問題意識を持っていたとき、同時代の朝鮮の風水師は詐術にふけっていた。実学者が非難していたのも、こうした行いだった。高麗末期から朝鮮王朝初期にかけて、無学や河崙といった風水の大家が建国と統治の理念として風水を活用していた遺風は、既に消えて久しかった。亡国の痛ましい記録を読み取るのに、裕陵と徳恵翁主墓に勝る場所はない。
キム・ドュギュ又石大学教養学部教授
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▲京畿道南楊州市にある純宗の墓「裕陵」(左の写真)と、八王子市にある大正天皇の墓「多摩御陵」(右の写真)。/写真提供=キム・ドゥギュ教授