16/10/04 13:13:05.86 CAP_USER.net
3日に創立70周年を迎えた在日本大韓民国民団(民団)は、在日コリアン100万人の法的地位確立や生活の安定などを求める運動や本国への支援活動を行ってきた。海外僑胞問題研究所の李求弘(イ・グホン)理事長は「在日コリアンは本国の人々に侮辱や冷遇を受けながらもユダヤ人以上の祖国愛と同胞愛を育んできた」と評価した。
◇民団創設への歩み
1945年8月に朝鮮半島が日本による植民地支配から解放された当時、日本に住んでいた朝鮮半島出身者は200~210万人に達した。
このうち約70万人が植民地支配末期に強制徴用などで日本に来た人々で、残りは留学生を除き大部分が日本による搾取に耐え切れず朝鮮半島から日本に逃れてきた人々だ。
その後、多くの朝鮮半島出身者が38度線を境に南北に分断され米国と旧ソ連による支配が始まったことや、母国語ができない子どものことを思い日本に残ることを決断したとみられる。
植民地支配から解放された後、日本に居住する同胞がまず結成した全国組織が45年10月15日に発足した在日本朝鮮人連盟だった。
この団体が共産主義を支持したことに反発した同胞が同団体を離れ新たな団体を作り、翌年の10月3日に独立運動家の朴烈(パク・ヨル、1902~1974年)を団長とする民団の前身、在日本朝鮮人居留民団を設立した。
48年8月に発足した韓国の李承晩(イ・スンマン)政権は民団を日本における唯一の同胞団体として公認した。
民団は49年1月に在日本韓国代表部が設置されたことを受け、名称を在日本大韓民国居留民団に変え、94年に現在の名称になる。
◇朝鮮戦争には在日学生義勇兵も参戦
50年に始まった朝鮮戦争には642人の在日コリアンの学生義勇軍が参戦し、このうち52人が戦死、83人が行方不明となった。
これは世界で初めて、在外同胞が本国の戦争に参戦したケースとなった。今でも毎年、仁川で記念式が開かれている。
韓国の輸出を支えてきた九老工業団地も民団が提案し、67年に完工した。
当時、入居企業の7割は在日コリアンが経営する企業で、在日コリアンは投資や技術支援を惜しまなかった。
済州島経済の柱の一つとなっているミカン産業も60年代に在日コリアンによって持ち込まれた400万本の苗木から始まった。
◇ソウル五輪やアジア通貨危機の際は母国を支援
81年にソウル五輪の招致が決定すると、在日コリアンは翌年に後援会を結成し541億ウォン(現在のレートで約50億円)を本国に送った。
この資金でオリンピック公園体操競技場などの競技施設やオリンピック会館が建設された。
また、97年のアジア通貨危機の際には、民団が中心となって本国送金運動を展開し約4万8000人が計10億ドル(現在のレートで1014億円)を送金した。
これは韓国で350万人が政府に金を提供して捻出した19億9000万ドルの半分を超える額だ。
【ソウル聯合ニュース】
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