16/09/30 18:32:16.46 CAP_USER.net
■鎖国を実施するまで、大量の移民が入ってきた
「将来の日本人を作るために、今こそ移民受け入れを行うべきだ」─。
元経済企画庁長官で、現在の安倍晋三内閣で内閣官房参与を務める作家の堺屋太一氏が9月25日、NPO法人「万年野党」(理事長・宮内義彦氏)の総会で基調講演を行い、外国人人材の受け入れを加速させるべきだと力説した。
堺屋氏は現在の日本にとって「人口減少が最大の危機」だとしたうえで、次のように語った。
「日本は移民を受け入れたことがないという人がいるが、それは間違いだ。日本は近世以降、2度にわたって大量の移民を受け入れてきた。1度目は17世紀前半。1600年から1640年頃までの間。江戸幕府が鎖国を厳格に実施するまで、中国や韓国といった外国から大量の移民が入ってきた」
■移民の多くは、高度な技術を持った人々
当時の移民の多くは医師や陶工、染め物師といった日本人よりも高度な技術を持った人々だった。1644年に滅びることになる明朝が、清に制圧されていく過程で、それを嫌った多くの明の人々が日本に逃げてきたとみられる。そうした人たちを日本社会は積極的に受け入れたと堺屋氏は語る。
「日本全国の藩が、こうした外国人を医師や右筆(ゆうひつ)として積極的に召し抱えた」というのだ。右筆とは武家の秘書役のことで、公文書や記録を作成した。漢文の素養が必要だったこともあり、中国人が重用されたのだろう。しかも、そうした外国人が日本社会の中で着実に融和していったと堺屋氏は指摘する。
「実は、赤穂浪士の中にそうして渡って来た中国人の孫がいる。武林唯七(たけばやしただしち)で、おじいさんは赤穂藩に医師として仕えた中国人だった。その武林唯七は、主君の仇を討つという最も日本的な行動に参加している。当時の赤穂藩の士分は300人ほどで、討ち入りをしたのは全員ではなく、その一部。全員で47人ですが、その中に武林唯七はいたわけです」
武林唯七は、赤穂浪士の討ち入りを題材とした「忠臣蔵」では、最も日本人的な、おっちょこちょいとして描かれている人物。大石内蔵助がなかなか討ち入りを決断しないと、早期実行を訴える日本の侍の鏡のような存在として取り上げられているが、実は中国人3世だったわけだ。祖父は浙江省杭州武林の生まれで、出身地から取って武林を名乗ったとされる。
■新しい文化とともに、日本社会に溶け込んだ
江戸初期の「移民」は日本に新しい文化を導入する役割を担うと共に、見事に日本社会に溶け込んでいったわけだ。日本文化は決して単一の価値観から出来上がっているのではなく、外来の様々な文化と融合する中で磨き育てられてきたと言っていいだろう。
堺屋氏が2度目の「大量移民流入だった」と指摘するのが19世紀後半。明治維新をはさんだ1850年から1900年ごろまでの間に、やはり中国大陸などから大量の移民がやってきたという。
「日本に移民がやってくるのは中国側の事情が大きい。この時も清朝が力を失う中で、多くの中国人が日本に渡ってきた」
日経ビジネス
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